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霧灯のラグナ ~崩壊する迷宮世界を、旧人類の《管理者権限》で書き換える~  作者: すいまる
第一章

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灯を護るための一手

 ――橙光が霧を染める頃。


 訓練場に集められた自警団員たちのあいだには、いつになく張り詰めた空気が漂っていた。


 木剣が砂地を叩く音が止み、空気が一瞬、静止する。

 灯光石の淡い光が霧の粒を抱き、ゆらゆらと揺れていた。

 その静けさの中、誰かの鎧がかすかに軋む音だけが響いている。


 恐るべき魔獣――《崩牙獣》の群れ。


 里の人口は五百名ほど。

 その中で実戦を担う自警団は、わずか三十名に満たない。

 誰が考えても、真正面からの戦闘は無謀だった。


 だが、その常識を覆してきたのが――ミストモスの自警団だった。

 生き延びるために、彼らは常に霧と共に在った。


 中央に立っているのは、自警団長――イリア。

 肩までの金髪を後ろで束ね、軽装の術式装置が淡く光を放っていた。


「昨日の件について、報告する」


 澄んだ声が、霧を震わせるほどに響いた。

 ざわつきかけた空気が、一瞬で静まり返る。


「崩牙獣の群れは、《霧路の裂隙》外縁に現れたが、結界に触れる前に退いた。直接の接触も、被害も確認されていない」


 その一言に、訓練場の緊張がわずかに緩む。

 安堵の吐息、肩を叩き合う音、控えめな笑み。

 だがラグナは、胸の奥に沈む重さを拭えなかった。


(……《結界杭》の揺らぎも、術式痕も、足跡も――なかったことにするのか)


 隣で聞いていたセラも、静かに眉を寄せていた。

 昨夜、長老会での報告を耳にしていた彼女にも、その違和感は伝わっていた。


「とはいえ――」


 イリアの声が、再び場を締め上げる。

 霧がその言葉に共鳴するように震えた。


「崩牙獣が“群れ”を成した。それ自体が異常だ。五年前の襲撃を知る者なら、理解しているはず。霧が濃くなるとき――迷宮は、こちらを覗いていると思え」


 その言葉に、場の空気が再び凍りつく。

 団員たちの顔に浮かんだ安堵は、一瞬で消え去った。


 イリアの瞳には、雷光のような決意が宿っている。

 冷静さの奥に、記憶に刻まれた痛みが確かにあった。

 誰もがその重さを感じ取り、姿勢を正す。


「結界は健在だ。だが、結界は万能ではない。訓練を怠らず、いつでも臨戦態勢を取れるようにしておけ。……以上だ」


 イリアの声が霧の中に溶ける。

 報告を終えた彼女の視線が静かに巡り――最後に、ラグナの方で止まった。

 一瞬、視線が交わる。


 その瞳に宿る光は、ただの叱咤ではなかった。

 ――まるで、ラグナが“何かを知っている”と見透かしているかのように。


(……団長も、知っている……?)


 胸のざわめきが消えない。

 昨日、長老の私室で告げられた“結界の綻び”の真実。

 彼女もそれを知っているのか――答えは、その沈黙の奥にあった。


――――――


 ――そんな沈黙を破ったのは、霧の空気を弾くような手拍子の音だった。


 訓練場の空気が一瞬にして跳ねる。


「――はーい、みんなお待ちかね! ここからはあたしのターンだよ!」


 明るい声が霧の粒を揺らすように響いた。

 団員たちの視線が一斉にそちらへ向かう。

 褐色の肌に金の瞳、背に弓を負い、長い三つ編みを揺らす――探索支援班のリャナだった。


 イリアとは対照的に、どこか軽やかで親しみやすい雰囲気を纏っている。

 だが、その笑みの奥に、誰よりも鋭い観察眼が潜んでいることを、ラグナは知っていた。


「まずは大事なお知らせ。《霧灯祭》、今年も予定通りやるよー」


 その言葉に、訓練場の空気がふっと明るくなる。

 団員たちが小さくざわめき、霧の向こうに微かな期待の色が滲む。


「例の“光と霧の祭り”ね。長老様が結界の外にある遺跡で祈りを捧げるから、あたしたち自警団は、その護衛任務につきっきり――ってわけ」


 祭りの名が告げられると、若い団員たちの顔に笑みが浮かぶ。


 《霧灯祭》――消えた人々を弔う、灯籠の祭り。

 ミストモスに生きる者にとって、それは“祈りと記憶の夜”だった。


 橙光に染まる夜、無数の灯が霧の中を流れていく。

 その美しさの裏に、命を削って結界を支える長老たちの祈りがあることを知る者は、ほんの一握りしかいない。


「で――もう一つ、大事な発表!」


 リャナはわざと間を置き、にやりと笑った。


「見習いのみんな、お待ちかねの“昇格試験”! 祭りの警護に出たいなら、まずはこれを突破してもらうよ」


 場の空気が一気に引き締まる。

 リャナは人差し指を立て、軽くくるりと回す。


「課題はシンプル。里の外で《霧犬》と《迷宮ネズミ》をそれぞれ一匹ずつ――ソロで討伐!」


 ざわっ、と見習いたちの間に緊張が走った。

 誰かの喉がごくりと鳴る音が、やけに大きく響く。


「相手は俊敏だけど、恐れるほどじゃない。あんたたちの訓練を見てきたあたしが言うんだ、きっとやれる。……多分ね」


 最後の一言に、場の空気がわずかに和む。

 笑い声がいくつか漏れ、緊張が息をついた。


 だがリャナはすぐ、表情を引き締めた。


「言っとくけど、倒すだけが目的じゃない。どう動いて、どう判断して、どう帰ってくるか――過程も全部、見させてもらう」


 その瞳には冗談の色はなかった。

 生きて戻ること、それこそがこの試験の本質なのだ。


 見習いたちの中には、拳を握りしめて息巻く者もいれば、顔を青ざめさせる者もいる。

 ラグナとセラもその中に立ち、互いに小さく視線を交わした。


 リャナはそんな二人を見つけ、にやりと笑う。


「特に――ラグナ。セラと組むことが多いけど、ソロでの度胸が試されるのは今回が初めてだね?」


 囁くような言葉に、周囲がざわめく。

 セラは咳払いして視線を逸らし、ラグナは言葉に詰まる。

 リャナはそんな反応に満足げに笑い、軽く手を叩いた。


「ま、祭りまであと少し。あたしたちも準備で忙しくなる。だからこそ、ここで力を見せて――ちゃんと肩並べておいで。ね?」


 その声には、明るさの中に戦場を知る者の厳しさがあった。

 軽口に包まれながらも、言葉の奥には確かな想いが宿っている。


(……ソロ討伐。里の外へ出る、またとない機会だ)


 ラグナは拳を握りしめた。


 昨日見た、長老の頭上の“死の宣告”と思わしきもの。

 あれがただの幻覚ではないとしたら、『近日中の剪定』――そのカウントダウンは、今も確実に進んでいるかもしれない。


 このまま里にいては、何もできない。

 だが外に出て、里に起きている“異変”を追うことができれば――あるいは、この《銀の箱》が反応する“何か”を見つけられれば。


 昇格試験。これはただのテストじゃない。

 長老を、そしてこの里を救うための、最初の一手になるかもしれないのだ。


――――――


 人の流れが落ち着いたのを見て、ラグナは訓練場を出た。


 霧はまだ晴れず、白い粒が静かに漂っている。

 朝の街はいつものように人の声で満ちていたが、どこか胸の奥に、張り詰めたものが残っていた。


「……ソロ討伐、か」


 思わず口にした言葉が、霧に吸い込まれていく。


 そのとき、隣を歩く気配がした。

 いつの間にかセラが並んでいる。


「ラグナなら、大丈夫」


 柔らかな声が霧の中に溶けた。

 彼女の瞳は、不安よりも静かな光を宿している。


「霧犬も迷宮ネズミも、俊敏だけど……初歩術式をきちんと使えれば問題ない相手」


 そう言ったあと、セラはわずかに唇を噛んだ。

 彼女の横顔は穏やかだが、その指先は小さく震えていた。

 彼女は励まそうとしているのだ。

 ラグナが試験の重圧に押し潰されていると思って。


「……ありがとう、セラ。でも――」


 ラグナは首を横に振った。


「魔獣が怖いわけじゃないんだ」

「……え?」

「気になってるんだ。……昨日のこと」


 その言葉に、セラの表情がすっと曇る。

 彼女もまた、無理に明るく振る舞っていただけだったのだ。


「……そう」


 セラの声が低く響く。


「団長は、触れもしなかった。まるで何事もなかったみたいに」

「ああ。だけど俺たちは見た。……結界杭に刻まれていた術式痕と、あの足跡」

「結界の光が一瞬、脈を打ったのも……あれは、あり得ないこと」


 霧の中で、二人の足音がゆっくりと重なる。

 共有している不安は同じはずだった。

 けれど、ラグナの胸には、セラには言えない“さらに深い闇”が刺さっていた。


 ――長老の私室で聞いた“結界の綻び”の真実。

 ――そして、長老の頭上に浮かんでいた赫い“死の宣告”。


(言えない。……今、言ったら、セラまで巻き込む)


 胸の奥で何かが沈む音がした。

 守るための沈黙が、まるで罪のように重かった。

 だからこそ、この試験で“外”に出なければならない。

 確かめなければならないのだ。


「……だから、行くよ。試験だけじゃない、その先を知るために」


 自分に言い聞かせるように呟くと、セラがハッとしたように顔を上げ、それから小さく微笑んだ。


「……無茶はしないで。――それが約束」


 その笑みには、言葉以上の優しさがあった。

 ラグナの中に溜まっていたざわめきが、少しずつ静まっていく。


 霧の向こうから、祭りの準備の音がかすかに届いた。

 人々の笑い声と灯光石の光が、薄く漂う霧の中にぼんやりと滲んでいる。


 ――試験。

 その一歩が、ただの見習いと、故郷を守る戦士を分ける。

 そして何より、この平穏な霧の街に忍び寄る“殺意”の正体を暴くための、最初の一歩となるはずだ。


 霧の街を包む音が、どこか遠く感じられた。



――――――



 その日の午後。

 訓練を終えたラグナは、いつもよりゆっくりとした足取りで霧の小径を歩いていた。

 やはり霧は昼を過ぎても晴れず、白い粒が路地の灯光石に淡く反射している。


 扉を開けると、温かな香りが鼻をくすぐった。

 湯釜の中で霧草が煮立ち、湿った空気の中にほのかな甘みが混じる。


「……帰ったかい」


 炉端で椅子に腰をかけたロムばぁが、湯気越しに目を細めた。

 彼女の声には、霧の音にも似た穏やかさがあった。


「顔がこわばってるよ。試験の話でも聞かされたかい?」

「……うん。ソロ討伐、だって」


 ラグナが答えると、ロムばぁはふっと笑った。

 皺だらけの手が湯釜の蓋を少しずらし、香りの濃い霧草茶を器に注ぐ。


「ほら。飲みな。頭で考えるより、まず息を整えることさね」


 差し出された器を両手で包む。

 熱が掌から胸へと染み込み、冷えていた心が少しずつほどけていく。


「……無茶は、しないよ」

「そう言う子ほど、すぐに突っ走るんだよ」


 軽く笑いながらも、ロムばぁの瞳には深い光が宿っていた。

 その光を見たとき、ラグナはふと母の面影を思い出した。

 あの日の声、そして“灯”という言葉。


「ねぇ、ロムばぁ。……灯ってさ、何だと思う?」

「灯かい? んー、そうだねぇ……」


 ロムばぁの穏やかな横顔を見ながら、ラグナは昨夜の光景を重ねていた。

 もし、この穏やかな人の頭上にも、あの赤い文字が浮かんでしまったら?

 そう考えただけで、指先が冷たくなる。


「……もし、灯が消えそうになったら。俺に何ができると思う?」


 少しだけ強い口調になってしまった問いに、ロムばぁは目を丸くし、それからふっと笑った。


「焦るんじゃないよ、ラグナ。火を大きくしようと息を吹きかけすぎれば、かえって消えちまう」

「……!」

「大事なのは、消えないように手をかざしてやることさ。……あんたには、その手があるだろう?」


 湯気を見つめながら、彼女はゆっくりと答える。


「目には見えなくてもね、濃い霧の夜でも“戻る場所”を思い出させるもの――それが、本当の灯だよ」


 その言葉を聞いた瞬間、ラグナの胸に何かが静かに灯った。

 それは炎のように熱くはなく、霧に溶けるほど柔らかな光。


 外では、夕刻を告げる結界塔の笛が鳴った。

 霧が橙光に染まり、窓辺の灯光石が淡く脈を打つ。


「……俺、ちゃんと戻ってくるよ」

「分かってるさ。あんたは、灯を見失う子じゃないからね」


 ロムばぁの笑みが、霧の灯りの中に溶けていった。

 その温もりが胸に残るまま、ラグナは静かに息を吐いた。


 ――灯は、霧の向こうにもある。

 それを信じて、彼は次の一歩を踏み出そうとしていた。



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