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霧灯のラグナ ~崩壊する迷宮世界を、旧人類の《管理者権限》で書き換える~  作者: すいまる
第一章

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歪みの種

 ――耳をつんざく警戒信号が、霧の街を震わせた。


 低く反響する笛の音が、水路沿いの空気を切り裂く。

 霧が波のように揺れ、灯光石の灯りがかすかに脈打った。


「……セラ!」


 思わず叫んだラグナに、セラは静かに頷く。

 槍を握り直したその横顔は、もう“見習い”ではなく、確かな戦士のものだった。


「私は信号の方へ行く。警戒班の合流が先だから」

「じゃあ、俺は――」

「ラグナは中央の《結界塔》へ。長老たちに、すぐ報告を」


 その声には、微塵の揺らぎもなかった。

 霧の中でも彼女の瞳だけが、まっすぐに光を宿している。


「……気をつけろよ」

「ラグナも。絶対に無茶はしないで」


 一瞬だけ視線が交わる。

 霧が二人の間を流れ、次の瞬間にはもう、背を向けて駆け出していた。


 笛の音が遠ざかり、霧がまた深く沈む。

 その白い帳の向こうで、セラの影がかき消えていった。


 ――ラグナの行き先は、里の中央にそびえる《結界塔》。

 緊急時に長老たちが集う、里の中枢だ。

 胸の鼓動が速くなる。

 笛の余韻がまだ耳を震わせていた。


(……何が起きてるんだ)


 濃い霧の中、わずかな灯光石の明滅を頼りに、ラグナは駆け出した。

 足音が霧に吸い込まれていくたび、不安がひとつずつ積もっていくようだった。



――――――



 ――結界塔。


 霧の街の中心にそびえるその塔は、静けさの中で脈打つ心臓のようだった。

 石造りの外壁は湿りを含んだ霧を受けて鈍く光り、そして、塔全体を包む光膜は淡く瞬き、霧を寄せつけぬ薄い幕となっている。

 それは呼吸するかのように揺らめく、霧除けの結界であり、里の象徴でもあった。


 普段は人影の少ない広場に、今日はざわめきがあった。

 自警団員、走り込む伝令、灯光石を抱えて走る技師。

 笛の音が途切れ、代わりに緊迫した声が飛び交う。

 胸の奥で鼓動が、外の喧噪と同じ速さで跳ねる。


(……急がないと)


 ラグナは息を整えもせず、塔の階段を駆け上がった。

 そのとき――背後から低い声が霧を割った。


「ラグナ!」


 振り返る。

 そこにいたのは、肩幅の広い男――オルドだった。

 逞しい腕に刻まれた古傷、穏やかな眼差し。

 その姿を見た瞬間、ラグナの胸の緊張が少しだけほどけた。


「オルドさん!」

「おぉ、無事で何よりだ。……セラは?」

「警戒班に合流しました。信号の方へ向かってます」


 オルドは頷き、霧に包まれた塔を仰ぐ。

 光膜がわずかに脈動し、塔の石肌が生き物のように震えていた。


「……嫌な揺れ方だな」


 その呟きは風に紛れ、誰の耳にも届かない。

 けれどラグナの胸には、重く沈んだ。


「第三水路の結界杭で、術式痕を確認しました。魔素濃度はいったん戻っていましたが……明らかに“普通”ではなかったです」


 息を詰めながら報告する。

 オルドの表情が引き締まり、鋭い眼光が一瞬だけ塔の上階へ向く。


「やはり……霧の中で何かが動いてるな」


 低い声。

 だが次の瞬間、彼はわざとらしく肩を竦め、いつもの穏やかな笑みを見せた。


「まったく、見習いの足をこんなに使わせるとはな。現役だった頃なら“根性が足りん”って怒鳴ってたぞ」

「勘弁してくださいよ。……現役のオルドさん、絶対怖かったと思いますし」

「ははっ、それもそうだ」


 軽い笑いが霧を揺らす。

 ほんのわずかに張り詰めた空気が和らいだ。


 オルド――かつて自警団の団長を務め、五年前、ラグナを崩牙獣から救った男。

 彼の隣に立つだけで、不思議と呼吸が整っていく。


 それでも――

 塔の上階で響く命令の声が、胸の底のざわめきを消しはしなかった。


(何かが起きている。……また、あの日みたいに)


 霧のざわめきが、答えるように塔の壁を撫でていった。



――――――



 しばらくして、ラグナはオルドに連れられて塔の上層――長老会議の議場へ向かった。


 里で最も堅牢な建物。

 石段を上るたび、靴底の音が重く響く。

 霧が窓の隙間から流れ込み、灯光石の光を淡く濁らせていた。


「ラグナ、大丈夫か」

「――はい」


 短い返事のあと、重厚な扉が開く。

 ひやりとした空気が頬を撫でた。


 ――議場の空気は、霧よりも重かった。


 半円状の石卓の奥に、四つの影。

 灰衣の長老たちが並び、灯光石の光が背後の刻板を照らしている。

 その光が霧に反射し、彼らをまるで神像のように見せていた。


 中央に座るのは進行役の長老。

 両脇には彼に歩調を合わせる二人。

 そして奥の一人は沈黙したまま、霧の中からじっとこちらを見つめている。

 その視線の冷たさに、ラグナの喉がひとりでに鳴った。


「オルドか。何か報告があると聞いたが」

「はい。こちらのラグナが、巡回中に異変を確認しました」


 オルドが一歩下がる。

 ラグナは胸の前で拳を握りしめ、小さく息を吸った。


「第三水路の結界杭で……揺らぎを見ました」


 声は震えたが、言葉は明確だった。


「術式痕らしき跡です。霧の魔素濃度が一時的に跳ね上がって……不自然な足跡もありました」


 一瞬、静寂。

 だがすぐに、進行役の長老が鋭く切り返した。


「結界杭の近くで術式痕、とな。――容易には信じ難い」

「そうだ。結界は我らがしっかりと監督している。見習いの見立てを信ずるは、なお早計やもしれぬ」


 声の冷たさに、胸が強く締めつけられる。

 反論しようと口を開くが、霧が喉に詰まったように声が出ない。

 舌先に金属の味が滲む。


「ですが、確かに術具の反応が――」

「《結界塔》と《結界杭》の動作は正常だ。さきほど再確認した」

「しかし――」


 長老たちの言葉が重なり、ラグナの言葉は霧に吸い込まれていく。

 冷えた空気の中で、胸の鼓動だけが耳に響いた。


(……俺は、信用されないのか)


 幼い記憶が脳裏をよぎる。

 崩れ落ちる街、届かなかった声。

 その光景と、この沈黙が重なって見えた。


 そのとき――低い声が場を割いた。


「見習いだからと否定するのは早計でしょう」


 オルドだった。

 彼の声は穏やかだが、言葉の底に確かな力があった。


「私はこの少年を五年見てきました。彼が虚言を弄するような人間ではないと、断言します」


 長老たちがわずかに顔を見合わせる。

 霧の中で目だけが光った。


 やがて進行役が渋々と頷く。


「……ならば再調査を許可しよう。ただし――結果次第では軽率な報告として処罰もやむを得ん。結界内部の異変など、里全体を揺るがす重大事だ」


 冷たい宣告のような声。

 ラグナは唇を噛みしめ、深く頭を下げた。


(糾弾なんてどうでもいい。……守りたいだけなんだ)


 灯光石の光が淡く揺れた。

 その瞬間、奥に沈黙していた長老と目が合う。

 白い霧の奥、その瞳の奥に――確かな焦りがあった。

 他の三人とは違う、何かを知る者の色。


 ラグナの心に、不穏なざわめきが広がっていった。


 ――そして、伝令の声が、議場に響いた。


「報告! 崩牙獣ほうがじゅうの群れは南方を迂回した模様。里への接近の恐れは、当面なし!」


 安堵の息が広がり、穏健派の長老たちは胸を撫で下ろすように顔を見合わせた。

 《崩牙獣》の群れ――外から迫る危機が退いたことで、場の緊張は一気に緩む。


「やはり杞憂だったな」

「うむ。結界は決して揺るがぬ。今後も冷静に対処すべきだろう」


 ラグナの報告は、まるで最初から存在しなかったかのように、霧の中へと溶けていった。

 声を出そうとしても、喉が固く閉ざされたように動かない。


 そのとき――奥に座していた沈黙の長老が、ゆっくりと立ち上がった。


「……オルド。見習いを、私室へ」


 低くも透き通る声が、議場を震わせた。

 驚いた視線が一斉に集まるが、長老は構わず灰衣の裾を翻し、奥の扉へと消えていく。


「……行くぞ、ラグナ」


 短く告げたオルドの声が、静けさを断ち切った。

 その表情には、確かな緊張が滲んでいる。

 ラグナは胸の鼓動を押さえながら、その背を追った。



――――――



 重厚な扉の奥。


 扉の内側の空気は乾いており、霧は薄い。

 ――ここだけが結界陣の内側だと、肌で分かった。


 灯光石の淡い光に照らされた私室は、議場よりも狭い分だけ圧迫感があった。

 壁には古びた霧路の地図と、結界調整に使う術具が整然と並んでいる。

 幾度も修繕された跡が刻まれた地図は、この里の長い歴史を静かに物語っていた。


 長老は椅子に腰を下ろし、薄い霧の向こうからラグナを見据える。

 その瞳には、議場で見せなかった焦燥が宿っていた。


「……君が見たもの。結界内に揺らぎがあったというのは、真実なのだな」


 問われ、ラグナの喉が乾く。


「……はい」


 議場で否定された直後だけに、信じてもらえたことが信じられなかった。

 同時に――ラグナは恐ろしさを感じる。


 長老は小さく頷くと、背後に控えるオルドへ目を向けた。


「……どう思う、オルド」

「ラグナは信用できます。自警団の次代を担うであろう若手です。……きっと力になってくれるでしょう」


 その言葉は、意外なほど強かった。

 ラグナは驚くと同時に、オルドの額にうっすらと浮かぶ汗を見て、ただ事ではないと悟った。


 一呼吸ののち、長老は低く言葉を紡ぐ。


「崩牙獣の活動は、近年確実に活発化している。……そして結界もまた、少しずつ綻びを見せ始めているのだ」


(……そんなこと、知っていいのか? 俺が……?)


 心臓が跳ねる。

 誰も口にしないはずの“真実”を、なぜ自分が聞かされているのか。


「五年前には、はぐれ個体すら稀だったはずの崩牙獣が……今や群れを成している。君が見た揺らぎもまた、その兆候だろう」

「……そんな……」

「君も心当たりがあるはずだ。見間違いではない。――里そのものが“軋んでいる”のだ」


 あまりにも大きな言葉に、ラグナは肯定も否定もできなかった。

 五年前に崩壊したリュメナスの光景が、脳裏で重なる。

 あのときの光と熱――あれもまた、始まりの“軋み”だったのだろうか。


「いずれ君にも協力を仰ぐときが来る。……そう遠くはないうちに」


 その言葉は、霧よりも重く、ラグナの胸に沈んだ。


(俺に、そんな役割が……?)


 ――長老の瞳が灯光石の明かりを反射し、一瞬だけ金色に光る。

 それが、何かを託すようにも、諦めのようにも見えた。


 その空気を和らげるように、長老が話題を変える。


「……ところで、オルド。お前はもう長老会に入って然るべきだ。ラグナ君もそう思うだろう?」

「いやいや、俺はまだ四十そこそこですよ。長老なんて年じゃありません。それに、俺にそんな落ち着きがあると思いますか?」


 苦笑するオルドに、長老がわずかに笑みを返す。

 霧に包まれた部屋に、久しく感じなかった柔らかい空気が流れた。


「それに俺には、まだやるべきことがありますから」

「……うむ。わしが役目を終えたら、その時はそなたに後を継いでもらうとしよう」


 冗談めかしたやり取り。

 ラグナはふと、胸に残るざわめきを押し隠しながら微笑んだ。


 ――少なくとも今は、この里がまだ息づいている。


 それだけが、彼をほんの少しだけ安心させた。


 そして、オルドに促され部屋を出ようとした時――

 不意に、胸の《銀の箱》が微かに震えた。


 ちり、と網膜に走る痛み。

 ラグナの足が止まる。背筋が粟立った。


(……まさか、また?)


 あの日、ミストモスに来た日に見た“幻覚”。

 それが、今度ははっきりと、現実の風景に重なって現れた。


 ラグナは恐る恐る振り返り――息を呑んだ。

 椅子に座る長老の頭上に、血の色をした文字列が浮かんでいた。


『――監視対象:歪みの種』

『託宣:近日中の剪定せんてい


 瞬きをしても、目をこすっても、その文字は消えない。

 それは幻でも夢でもなく、確かにそこに“在る”情報だった。


(剪定……って、刈り取るってことか?)


 意味は分からなくとも、そのあかい色が示す不吉さは痛いほど伝わってくる。


「……ラグナ? どうした」

「……っ、いえ、なんでもないです」


 オルドに声をかけられ、ラグナは顔色を変えないよう必死に取り繕い、扉を閉ざした。

 最後に見えた長老の穏やかな笑顔。

 だがその上には、無機質な死の宣告が確かに刻まれていた。



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