歪みの種
――耳をつんざく警戒信号が、霧の街を震わせた。
低く反響する笛の音が、水路沿いの空気を切り裂く。
霧が波のように揺れ、灯光石の灯りがかすかに脈打った。
「……セラ!」
思わず叫んだラグナに、セラは静かに頷く。
槍を握り直したその横顔は、もう“見習い”ではなく、確かな戦士のものだった。
「私は信号の方へ行く。警戒班の合流が先だから」
「じゃあ、俺は――」
「ラグナは中央の《結界塔》へ。長老たちに、すぐ報告を」
その声には、微塵の揺らぎもなかった。
霧の中でも彼女の瞳だけが、まっすぐに光を宿している。
「……気をつけろよ」
「ラグナも。絶対に無茶はしないで」
一瞬だけ視線が交わる。
霧が二人の間を流れ、次の瞬間にはもう、背を向けて駆け出していた。
笛の音が遠ざかり、霧がまた深く沈む。
その白い帳の向こうで、セラの影がかき消えていった。
――ラグナの行き先は、里の中央にそびえる《結界塔》。
緊急時に長老たちが集う、里の中枢だ。
胸の鼓動が速くなる。
笛の余韻がまだ耳を震わせていた。
(……何が起きてるんだ)
濃い霧の中、わずかな灯光石の明滅を頼りに、ラグナは駆け出した。
足音が霧に吸い込まれていくたび、不安がひとつずつ積もっていくようだった。
――――――
――結界塔。
霧の街の中心にそびえるその塔は、静けさの中で脈打つ心臓のようだった。
石造りの外壁は湿りを含んだ霧を受けて鈍く光り、そして、塔全体を包む光膜は淡く瞬き、霧を寄せつけぬ薄い幕となっている。
それは呼吸するかのように揺らめく、霧除けの結界であり、里の象徴でもあった。
普段は人影の少ない広場に、今日はざわめきがあった。
自警団員、走り込む伝令、灯光石を抱えて走る技師。
笛の音が途切れ、代わりに緊迫した声が飛び交う。
胸の奥で鼓動が、外の喧噪と同じ速さで跳ねる。
(……急がないと)
ラグナは息を整えもせず、塔の階段を駆け上がった。
そのとき――背後から低い声が霧を割った。
「ラグナ!」
振り返る。
そこにいたのは、肩幅の広い男――オルドだった。
逞しい腕に刻まれた古傷、穏やかな眼差し。
その姿を見た瞬間、ラグナの胸の緊張が少しだけほどけた。
「オルドさん!」
「おぉ、無事で何よりだ。……セラは?」
「警戒班に合流しました。信号の方へ向かってます」
オルドは頷き、霧に包まれた塔を仰ぐ。
光膜がわずかに脈動し、塔の石肌が生き物のように震えていた。
「……嫌な揺れ方だな」
その呟きは風に紛れ、誰の耳にも届かない。
けれどラグナの胸には、重く沈んだ。
「第三水路の結界杭で、術式痕を確認しました。魔素濃度はいったん戻っていましたが……明らかに“普通”ではなかったです」
息を詰めながら報告する。
オルドの表情が引き締まり、鋭い眼光が一瞬だけ塔の上階へ向く。
「やはり……霧の中で何かが動いてるな」
低い声。
だが次の瞬間、彼はわざとらしく肩を竦め、いつもの穏やかな笑みを見せた。
「まったく、見習いの足をこんなに使わせるとはな。現役だった頃なら“根性が足りん”って怒鳴ってたぞ」
「勘弁してくださいよ。……現役のオルドさん、絶対怖かったと思いますし」
「ははっ、それもそうだ」
軽い笑いが霧を揺らす。
ほんのわずかに張り詰めた空気が和らいだ。
オルド――かつて自警団の団長を務め、五年前、ラグナを崩牙獣から救った男。
彼の隣に立つだけで、不思議と呼吸が整っていく。
それでも――
塔の上階で響く命令の声が、胸の底のざわめきを消しはしなかった。
(何かが起きている。……また、あの日みたいに)
霧のざわめきが、答えるように塔の壁を撫でていった。
――――――
しばらくして、ラグナはオルドに連れられて塔の上層――長老会議の議場へ向かった。
里で最も堅牢な建物。
石段を上るたび、靴底の音が重く響く。
霧が窓の隙間から流れ込み、灯光石の光を淡く濁らせていた。
「ラグナ、大丈夫か」
「――はい」
短い返事のあと、重厚な扉が開く。
ひやりとした空気が頬を撫でた。
――議場の空気は、霧よりも重かった。
半円状の石卓の奥に、四つの影。
灰衣の長老たちが並び、灯光石の光が背後の刻板を照らしている。
その光が霧に反射し、彼らをまるで神像のように見せていた。
中央に座るのは進行役の長老。
両脇には彼に歩調を合わせる二人。
そして奥の一人は沈黙したまま、霧の中からじっとこちらを見つめている。
その視線の冷たさに、ラグナの喉がひとりでに鳴った。
「オルドか。何か報告があると聞いたが」
「はい。こちらのラグナが、巡回中に異変を確認しました」
オルドが一歩下がる。
ラグナは胸の前で拳を握りしめ、小さく息を吸った。
「第三水路の結界杭で……揺らぎを見ました」
声は震えたが、言葉は明確だった。
「術式痕らしき跡です。霧の魔素濃度が一時的に跳ね上がって……不自然な足跡もありました」
一瞬、静寂。
だがすぐに、進行役の長老が鋭く切り返した。
「結界杭の近くで術式痕、とな。――容易には信じ難い」
「そうだ。結界は我らがしっかりと監督している。見習いの見立てを信ずるは、なお早計やもしれぬ」
声の冷たさに、胸が強く締めつけられる。
反論しようと口を開くが、霧が喉に詰まったように声が出ない。
舌先に金属の味が滲む。
「ですが、確かに術具の反応が――」
「《結界塔》と《結界杭》の動作は正常だ。さきほど再確認した」
「しかし――」
長老たちの言葉が重なり、ラグナの言葉は霧に吸い込まれていく。
冷えた空気の中で、胸の鼓動だけが耳に響いた。
(……俺は、信用されないのか)
幼い記憶が脳裏をよぎる。
崩れ落ちる街、届かなかった声。
その光景と、この沈黙が重なって見えた。
そのとき――低い声が場を割いた。
「見習いだからと否定するのは早計でしょう」
オルドだった。
彼の声は穏やかだが、言葉の底に確かな力があった。
「私はこの少年を五年見てきました。彼が虚言を弄するような人間ではないと、断言します」
長老たちがわずかに顔を見合わせる。
霧の中で目だけが光った。
やがて進行役が渋々と頷く。
「……ならば再調査を許可しよう。ただし――結果次第では軽率な報告として処罰もやむを得ん。結界内部の異変など、里全体を揺るがす重大事だ」
冷たい宣告のような声。
ラグナは唇を噛みしめ、深く頭を下げた。
(糾弾なんてどうでもいい。……守りたいだけなんだ)
灯光石の光が淡く揺れた。
その瞬間、奥に沈黙していた長老と目が合う。
白い霧の奥、その瞳の奥に――確かな焦りがあった。
他の三人とは違う、何かを知る者の色。
ラグナの心に、不穏なざわめきが広がっていった。
――そして、伝令の声が、議場に響いた。
「報告! 崩牙獣の群れは南方を迂回した模様。里への接近の恐れは、当面なし!」
安堵の息が広がり、穏健派の長老たちは胸を撫で下ろすように顔を見合わせた。
《崩牙獣》の群れ――外から迫る危機が退いたことで、場の緊張は一気に緩む。
「やはり杞憂だったな」
「うむ。結界は決して揺るがぬ。今後も冷静に対処すべきだろう」
ラグナの報告は、まるで最初から存在しなかったかのように、霧の中へと溶けていった。
声を出そうとしても、喉が固く閉ざされたように動かない。
そのとき――奥に座していた沈黙の長老が、ゆっくりと立ち上がった。
「……オルド。見習いを、私室へ」
低くも透き通る声が、議場を震わせた。
驚いた視線が一斉に集まるが、長老は構わず灰衣の裾を翻し、奥の扉へと消えていく。
「……行くぞ、ラグナ」
短く告げたオルドの声が、静けさを断ち切った。
その表情には、確かな緊張が滲んでいる。
ラグナは胸の鼓動を押さえながら、その背を追った。
――――――
重厚な扉の奥。
扉の内側の空気は乾いており、霧は薄い。
――ここだけが結界陣の内側だと、肌で分かった。
灯光石の淡い光に照らされた私室は、議場よりも狭い分だけ圧迫感があった。
壁には古びた霧路の地図と、結界調整に使う術具が整然と並んでいる。
幾度も修繕された跡が刻まれた地図は、この里の長い歴史を静かに物語っていた。
長老は椅子に腰を下ろし、薄い霧の向こうからラグナを見据える。
その瞳には、議場で見せなかった焦燥が宿っていた。
「……君が見たもの。結界内に揺らぎがあったというのは、真実なのだな」
問われ、ラグナの喉が乾く。
「……はい」
議場で否定された直後だけに、信じてもらえたことが信じられなかった。
同時に――ラグナは恐ろしさを感じる。
長老は小さく頷くと、背後に控えるオルドへ目を向けた。
「……どう思う、オルド」
「ラグナは信用できます。自警団の次代を担うであろう若手です。……きっと力になってくれるでしょう」
その言葉は、意外なほど強かった。
ラグナは驚くと同時に、オルドの額にうっすらと浮かぶ汗を見て、ただ事ではないと悟った。
一呼吸ののち、長老は低く言葉を紡ぐ。
「崩牙獣の活動は、近年確実に活発化している。……そして結界もまた、少しずつ綻びを見せ始めているのだ」
(……そんなこと、知っていいのか? 俺が……?)
心臓が跳ねる。
誰も口にしないはずの“真実”を、なぜ自分が聞かされているのか。
「五年前には、はぐれ個体すら稀だったはずの崩牙獣が……今や群れを成している。君が見た揺らぎもまた、その兆候だろう」
「……そんな……」
「君も心当たりがあるはずだ。見間違いではない。――里そのものが“軋んでいる”のだ」
あまりにも大きな言葉に、ラグナは肯定も否定もできなかった。
五年前に崩壊したリュメナスの光景が、脳裏で重なる。
あのときの光と熱――あれもまた、始まりの“軋み”だったのだろうか。
「いずれ君にも協力を仰ぐときが来る。……そう遠くはないうちに」
その言葉は、霧よりも重く、ラグナの胸に沈んだ。
(俺に、そんな役割が……?)
――長老の瞳が灯光石の明かりを反射し、一瞬だけ金色に光る。
それが、何かを託すようにも、諦めのようにも見えた。
その空気を和らげるように、長老が話題を変える。
「……ところで、オルド。お前はもう長老会に入って然るべきだ。ラグナ君もそう思うだろう?」
「いやいや、俺はまだ四十そこそこですよ。長老なんて年じゃありません。それに、俺にそんな落ち着きがあると思いますか?」
苦笑するオルドに、長老がわずかに笑みを返す。
霧に包まれた部屋に、久しく感じなかった柔らかい空気が流れた。
「それに俺には、まだやるべきことがありますから」
「……うむ。わしが役目を終えたら、その時はそなたに後を継いでもらうとしよう」
冗談めかしたやり取り。
ラグナはふと、胸に残るざわめきを押し隠しながら微笑んだ。
――少なくとも今は、この里がまだ息づいている。
それだけが、彼をほんの少しだけ安心させた。
そして、オルドに促され部屋を出ようとした時――
不意に、胸の《銀の箱》が微かに震えた。
ちり、と網膜に走る痛み。
ラグナの足が止まる。背筋が粟立った。
(……まさか、また?)
あの日、ミストモスに来た日に見た“幻覚”。
それが、今度ははっきりと、現実の風景に重なって現れた。
ラグナは恐る恐る振り返り――息を呑んだ。
椅子に座る長老の頭上に、血の色をした文字列が浮かんでいた。
『――監視対象:歪みの種』
『託宣:近日中の剪定』
瞬きをしても、目をこすっても、その文字は消えない。
それは幻でも夢でもなく、確かにそこに“在る”情報だった。
(剪定……って、刈り取るってことか?)
意味は分からなくとも、その赫い色が示す不吉さは痛いほど伝わってくる。
「……ラグナ? どうした」
「……っ、いえ、なんでもないです」
オルドに声をかけられ、ラグナは顔色を変えないよう必死に取り繕い、扉を閉ざした。
最後に見えた長老の穏やかな笑顔。
だがその上には、無機質な死の宣告が確かに刻まれていた。




