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霧灯のラグナ ~崩壊する迷宮世界を、旧人類の《管理者権限》で書き換える~  作者: すいまる
第一章

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3/20

霧の街の朝、軋む世界

※第1章の開始です。

 舞台はプロローグの5年後、ミストモス。

 ラグナの日常から物語が再び動き出します。

 ――光が、揺れている。


 白い霧の中で、誰かが呼ぶ声がする。

 遠く、しかし確かに届くその声は、夢の中でだけ響く幻のようで――


(……また、この夢)


 目を覚ます直前、ラグナは必ずこの夢を見る。

 母の声がする。手を伸ばしても届かない。

 何もかもが崩れていく、あの記憶。


 胸には、かすかな熱が残っている。

 それは、“あの日”からずっと彼の脳裏に焼き付いたままだった。


 ――灯光石が消えた水路。空を覆う巨大な影。

 そして、あの光の中で、確かに誰かの言葉を聞いた。


 ――君は、生きて。


 それが母の声だったのか、それとも違う誰かなのか。

 ラグナには、もう分からなかった。



――――――



 薄い毛布を押しのけたとき、霧の冷気が肌を撫でた。

 湯釜の蓋が小さく鳴る音が聞こえる。


「また、うなされてたねぇ」


 低い声に顔を上げると、炉端に腰をかけたロムばぁがいた。

 白髪を布でまとめた皺だらけの手が、湯気の立つ器をこちらに差し出す。


「飲みな。霧草茶だよ。……夢、見たんだろ?」

「……うん。でも、もう大丈夫」

「強がりは、若い証拠さね」


 湯気の向こうで、ロムばぁが柔らかく笑った。

 この街に来てから、ずっと世話になっている人だ。

 霧に閉ざされた暮らしの中で、彼女の家の灯りは小さくも確かなぬくもりだった。


 器を両手で包むと、掌に熱が染みた。

 胸の奥のざらつきが、ほんの少し和らいでいく。

 外では霧が流れ、遠くで《結界塔》の笛が短く鳴った。


 湯を飲み干し、ラグナは静かに立ち上がる。

 腰の剣を確かめるように軽く叩き、霧の向こうを見やった。


(――間違わない。そのために、まずは歩く)


 ――橙に薄く染まる霧が、静かな朝を告げていた。


 霧苔層――別名《迷霧層》。

 その奥にある秘匿のミストモスでは、家々の《光刻板》が時を告げる。

 今日も中央広場では、《光鐘石》――広場の真ん中にある“時の鐘”が、橙光をたおやかに放っていた。


 家を出たラグナは、水音の響く小道を歩いていた。

 霧に濡れた石畳を踏みしめながら、額の汗を拭う。


 ――ここに来て五年。

 あの日を、忘れようとしたこともあった。


 だが、この街の静けさは、いつも記憶を呼び戻す。

 炎に染まった街、伸ばした手、届かなかった声。

 誰かの笑顔を思い出すたび、胸の奥がかすかに疼く。

 それでも前を向くと決めた。

 母が望んだ「生きて」という言葉に、もう背を向けないために。


 水路を流れる音、炊き出し場で火を起こす音――

 それらが重なり、霧の朝は穏やかに動き出していた。


 遠くで結界塔の笛音が短く鳴る。

 霧の濃度は今日も安定しているらしい。


 家々は苔と木材で造られた半地下式だ。

 湿気と温度差をやわらげるための知恵が、そこかしこに息づいていた。

 風はほとんど吹かない。

 霧がすべてを包み、気配を飲み込む。


 ふと、ラグナは立ち止まる。

 あの日も、こんな風に霧が濃かった。


 ――雷鳴のあと、助けられて、俺は――。



――――――



 崩れ落ちた街の残響が、まだ耳に残っていた。

 視界は白い霧に包まれ、熱と血の匂いが混じっている。

 その中で、ふわりと白い布の影が揺れた。


 ――少女だった。

 銀の髪、霧のような青の瞳。

 何も言わずに膝をつき、ラグナの頬に触れる。


「……大丈夫」


 その声は、祈りのように静かだった。

 涙が零れる。久しく感じなかった温度。


「……だれ……?」

「セラ。あなたは?」

「……ラグナ……」


 名を告げた瞬間、少女――セラは微かに笑った。

 その笑みは、霧の中の灯のように淡く、それでいて確かなものだった。



――――――



 広場の向こうから、誰かの足音が近づいてきた。


「おはよう、ラグナ」


 霧の向こうから静かな声がした。

 現れたのは、銀髪の少女――今はラグナと同じ、自警団見習いのセラだった。

 かつては言葉少なだった彼女も、今では朝の冗談を口にするくらいになっている。


 霧に似た、淡い青の瞳。

 白布の上衣に槍を背負う姿は、冷たくも凛とした美しさを放っている。


「……おはよう。早いな、今日も」

「橙光が出たら朝でしょう?」

「ほんと、律儀だな。昨日も同じ時間に来てただろ」

「違う、あなたが遅いだけ」


 短いやり取りに、どこか懐かしい空気が流れる。

 この穏やかさが、いつもの朝だった。


 セラはラグナがこの里に来て最初に出会い、手を伸ばしてくれた存在。

 互いの呼吸を知る、家族のような関係だった。


 炊き出し場から霧草の粥の香りが漂ってくる。

 セラが振り返らずに問う。


「朝、食べてきた?」

「うん、少しだけ」

「……夢、見たんでしょう」


 ラグナの足が止まる。

 気付いていたのか、と苦笑するしかなかった。


「大丈夫。もう慣れてるし」


 ラグナは、胸の奥のざわつきを無視してそう言った。

 ポケットの《銀の箱》は、まだ冷たい。


「今日、《結界杭》の確認だっけ?」

「訓練のあとにね。第三水路沿い、午後の担当は私たち」


 セラは霧を払うように一歩を踏み出す。


「……なぁ、セラ」


 その背を追いながら、ラグナはぽつりと呟いた。


「……もしさ、全部間違ってたらどうする?」

「え?」

「信じてることも、世界の形も……全部」


 セラは立ち止まらずに答えた。


「なら、正す。ラグナは?」

「……わからない。でも、答えを見つけたい。せめて――間違わないように」


 セラは振り返らないまま、ぽつりと返した。


「なら、探しなさい。間違わないために」


 霧の中、淡い声が静かに溶けていく。

 ――今日もまた、何かが始まる。

 その予感だけが、胸の奥で小さくを結んだ。



――――――



 ――霧の街に、淡い光が差し込む。


 午前の小任務を終えたラグナは、再びセラと合流し、訓練場へと足を運んだ。


 訓練場は、霧を切るように開けた円形の広場。

 地面には幾重もの術式痕が刻まれ、焦げた匂いが漂っている。

 霧が薄くなるたび、遠くの《結界塔》の光がわずかに覗いた。

 ここが、霧の街で唯一“空”を感じられる場所だ。


「じゃあ今日は、昨日の続き。まずは《光紋陣》の展開ね」


 セラの声は穏やかだが、指導者の響きを帯びていた。

 《光紋陣》は灯光石――街灯・家内の“灯り石”の調整にも使われる初歩術式。

 光属性は“展開が繊細で、制御に癖がある”とされているため、初歩術式でも扱えれば一人前とみなされる。


 ラグナは、何度も術式理論の本を読んでいた。

 詠唱構文も陣式理論も、頭では理解している。

 だが、いざ手を動かすと、どこかが噛み合わない。

 “知ってるのにできない”――それが、彼の苛立ちだった。

 もしかしたら、自分の中の“何か”が術式そのものとぶつかっているのかもしれない。

 その原因に、まだ気付けていなかった。


「……よしっ」


 ラグナは深く息を吸い、両手を掲げた。

 頭の中のイメージは完璧だ。魔力の流れも掴んでいる。


 ――照らすものよ、輪と紋を結び、導け。


 淡い光が空中に浮かび上がる。

 紋が結び、中心に灯が灯る――その瞬間。


(……っ、まただ)


 頭の奥で、キーンという鋭い耳鳴りが走った。

 まるで、脳のどこかが「それは違う」と拒絶しているような、不快な軋み。

 同時に、懐の《銀の箱》が、心臓に冷水を浴びせたようにヒヤリと脈打つ。


「くっ……!」


 集中が途切れる。

 視界がぐらりと揺らぎ、光の紋はガラス細工のように砕け、霧の中へ散っていった。


「……はぁ、はぁ」


 指先に、痺れるような違和感が残る。

 才能がない、という感覚とは違う。

 まるで、自分の魂の形そのものが、この世界の術式と噛み合っていないような――そんな根源的なズレを感じていた。


「ラグナ、大丈夫?」

「……うん、ちょっと目が……いや、なんでもない」


 セラは心配そうに眉をひそめたが、それ以上は追及しなかった。

 訓練を終え、息を整えたふたりは、器具と記録板を携えて霧の奥へと歩き出す。

 次の任務――結界杭の巡回が待っていた。



――――――



 第三水路沿い。

 霧は濃く、音が遠のいていく。

 苔に覆われた石杭が一定の間隔で並び、その一つひとつが淡い光を放っていた。

 里を守る“心臓”――それが結界杭だ。


「こっちの水路、昨日少し濁りがあったらしいの」


 セラが地図を確認しながら言う。

 ミストモスの外縁部では霧の“逆流”が稀に発生するため、水路の異常を早期に察知することも重要だった。


 初めは、いつも通りの水路。

 しかし、第三水路に差し掛かったとき――ラグナは違和感を覚えた。


 水面が……揺れている?


 いや、それだけではない。

 霧がひときわ重くまとわりつき、耳鳴りのような微かな震えが空気を走った。


 よく目を凝らすと、結界杭の周辺の空間が微かに歪んで見える。

 継ぎ目鳴り――術式痕の残滓だ。

 ラグナの視界が薄く“きしむ”。


「セラ……あれ」


 ラグナが指さすと、セラの表情が一変する。


「……継ぎ目鳴り?」


 彼女はすぐに結界杭に術具をかざし、測定を開始した。


「やっぱり、霧の魔素濃度が一時的に跳ね上がってた……もう正常値に戻ってるみたいだけど」


 セラが歯噛みする。


「誰かが、ここで術式を……」

「術式を結界杭の近くで使うなんて」


 結界は、結界杭によって絶妙なバランスで保たれている。

 ここで術式を使うことの危うさを、里の者が知らないはずがない。

 ふたりは念入りに周囲を調べたが、それ以上の異常は特に見つからなかった。



 帰路。

 揺らぎは、背を向けても尾を引いた。


(……見間違いじゃない)


 セラがいつしか言った言葉が思い返される。

 “霧は、動きと気配を呑み込む”


 街の安全を守るための術式結界。

 しかしその近くで、何かが確かに蠢いていた。


 最後に、彼の目がふと止まる。

 水路沿いの道端に、小さく濡れた“足跡”があった。

 人のものではない。

 三つの爪痕のような跡が、泥に深く刻まれている――


 霧が、かすかにざわめいた。


 ラグナは思わず足を止め、水面の揺れに目を凝らす。

 先ほどよりも濃く、色のついた何かが混じっている気がした。

 視界の端で、何かが動いたように見えた――それは、影のようで、風のようで。


「……セラ、見たか?」

「……ええ。何かが、“歪んでる”」


 セラもまた槍にそっと手をかけている。

 いつもの落ち着いた表情に、かすかな緊張が混じっていた。


 低い“軋み”が、霧の奥で鳴った。

 世界の継ぎ目がゆっくり捻じれる――そんな不快な音が、やがて振動へと変わって肌に伝わる。


 その音に――ラグナの背がぞわりと粟立つ。


(この感覚……知ってる。あの時と、同じ……)


 夢の中で何度も見た、あの日の記憶。

 街の崩壊の直前に感じた、あの嫌な気配。


 霧の中、誰かの視線を感じた気がした。

 水面の灯りが一つ、瞬いて消える。


 そして次の瞬間、遠くから鋭い笛の音が響いた。

 普段よりも一段高い、耳を突く鋭音――警戒信号だ。

 霧がその音を反響させ、街全体がざわめくように震える。

 肌が粟立ち、足が勝手に止まった。


「戻ろう。……長老に報告を」


 セラの言葉に、ラグナは無言で頷き、駆け出した。


 ――だが、ラグナは気づいていなかった。


 先ほどまで彼が立っていた水路の影。

 そこに残された、たった一つだけの泥の爪痕。


 群れではない。

 結界のわずかな綻びをこじ開け、音もなく滑り込んだ“一匹”。


 水面が揺れる。

 そこから分離した“影”は、獣のような唸り声をあげることもなく――

 ただ静かに、里の中枢、《結界塔》のある方角へと這い進んでいった。



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