灯の宿る街で
――落ちたはずの身体が、不意に“置かれた”ような感覚。
硬い地面。冷たい風。湿った草の匂い。
(……ここは?)
ラグナが目を開けると、そこは夜だった。
深い霧に包まれた岩場が広がり、空がどこまでも高く見えた。
迷宮の中にいるとは思えないほど、世界は静まり返っている。
周囲を確かめようとした、その時。
霧の奥から、低い唸り声が響いた。
茂みを押し分けて現れたのは、まるで狼の肉体を裂き、別の生き物を無理やり詰め込んだかのような――異形の獣だった。
背には節足のような腕が幾本も突き出し、黒い鱗に覆われた体からは鼻を衝く腐臭が漂っている。
眼孔の奥で紫の光が揺れ、ラグナを射抜くようにぎらついた。
本でしか知らなかった“魔獣”。
だが紙の上の知識と、目の前の死の気配はまるで別物だった。
幼い喉は悲鳴をあげようと震えているが、なかなか声が出ない。
(母さん……助けて!)
ラグナは、胸元に押し込まれた銀の箱を握る。
小さな指は冷え切り、どうしても力がこもらない。
心臓は痛いほど暴れているのに、足は地面に縫いつけられたままだった。
息が詰まり、涙だけが頬を伝う。
魔獣は愉しむように顎を歪め、地を蹴った。
牙が迫る――死を悟った、その瞬間。
――雷鳴。
白光が夜を裂き、魔獣の腹を貫いた。
爆ぜた衝撃で霧が吹き飛び、巨体が地を揺らして倒れる。
雷光の残滓を背に、黒髪の男が大地に降り立った。
逞しい体躯に刻まれた皺深い面差し。
背の大剣が、その存在をさらに重く見せていた。
落ち着いた声がラグナの耳に届く。
「少年――転移者か」
渋い声音に、不思議な安心感が混じっていた。
呻きとともに魔獣が立ち上がる。
焦げた腹から黒煙を吐き出し、節足の腕を地へ突き立てる。
地面が抉れ、岩片が弾丸のように飛び散った。
耳を打つ轟音に、ラグナは両耳を塞いで蹲るしかなかった。
「イリア、封鎖だ」
命じる声には、誰もが従うべき重みがあった。
「了解」
金髪の女術師が前へ進む。
雪のように白い肌、切れ長の瞳。
冷たい光を宿しながらも、どこか面倒見の良さを感じさせる落ち着いた雰囲気を纏っていた。
白布を翻し、指先に雷光を集める。
「雷よ、残光とともに影を裂け――《雷晶陣:断》!」
雷光が奔り、魔獣を絡め取る。
だが四肢がねじり砕き、雷光は容易く散った。
咆哮。黒い衝撃波が大地を走る。
その振動が腹に響き、ラグナは地面に縋りついて震えた。
「うわ、派手だね! でも――こっちも負けないよ!」
軽快な声が霧を裂いた。
褐色肌の弓兵の女が弓弦を鳴らし、稲妻の矢を次々と放つ。
矢は正確に魔獣の顔面を狙い、怒りを煽っていく。
ラグナの目には、彼女が恐怖に怯むことなく笑みすら浮かべているように見えた。
その姿は幼い彼の心に焼き付き、同時に“自分は何もできない”という無力感を突きつけた。
「……ここで止める」
黒髪の男が踏み込み、大剣で節足を断ち切った。
だが別の腕に弾き飛ばされ、地を転がる。
「っ……!」
よろめきながらも、その眼差しは微塵も揺らがない。
それを見た瞬間、ラグナの胸に“絶対に折れない何か”が刻まれるようだった。
「イリア!」
「わかってる……雷よ、束ねよ――《雷晶陣:結》!」
今度は鎖が閃き、節足ごと魔獣を縫い止めた。
「ナイス! 今度こそ決まれ!」
弓兵の矢が眼孔を射抜く。
絶叫を上げ、魔獣がのたうった。
「……終わりだ」
黒髪の男が青炎を纏った剣を突き出す。
刃が喉を貫き、青炎が爆ぜた。
巨体は痙攣し――やがて霧に溶け、静かに消えていった。
静けさが戻る。
イリアが膝をつき、白布を整える。
「もう大丈夫。ようこそ、ミストモスへ」
こうして――故郷を失った少年は、霧に包まれた新たな街に辿り着いた。
胸の奥には、母が託した小さな銀の箱の冷たさだけが残っていた。
――――――
――意識は揺らいでいた。
心は抜け殻のようで、ただ胸に感じる硬い温もりだけが現実を繋ぎ止めていた。
ラグナは、大剣を背負う男の肩越しに霧の景色を眺めていた。
霧は深く、ひときわ静かだった。
石畳の道が濡れて光り、灯光石が淡い青を散らす。
水滴の音と、湿った風だけが耳を打つ。
ついさっきまで暮らしていた花の都の喧騒が幻のように思えた。
やがて――岩壁の裂け目を抜けた先に、集落が広がっていた。
丸屋根の石造りの家々が霧に沈み、中央広場の《光刻板》が橙色の光を放っていた。
その明滅に呼応するように、人々が静かに集まってくる。
遠くからは鍛冶の槌音、獣皮を打ち鳴らす乾いた音、子供の泣き声が断片的に響いた。
それでも全体としては、霧に吸い込まれるように静かだった。
「……転移者だ」
誰かの呟きが波紋のように広がり、人々の視線が一斉にラグナへと集まった。
その目には驚き、警戒、同情、様々な色が入り混じっていた。
答える言葉はなく、ただ箱を胸に抱き寄せる。
箱の冷たさを頬に押し当てれば、ほんの一瞬だけ母の手の温もりを思い出せる気がした。
だが、現実にはその温もりは伝わってこない。
――群衆の中に、ひとりの少女の姿があった。
年はラグナと同じくらい。
霧に縁取られた輪郭は淡く、はっきりとは見えない。
それでも灯光石の青白い光に照らされた瞳だけは、まっすぐにこちらを射抜いていた。
少女の手には、小さな白い花が握られていた。
吐息に揺れた花から、花弁が一枚、霧の中へと舞い上がる。
ほんの一瞬――その仕草に、母の笑顔の残像が重なった。
言葉はなかった。
ただ、その眼差しと花の揺れは、確かにラグナの心に焼き付いた。
次の瞬間、少女は大人たちの陰に隠れて姿を消す。
だが、胸の奥に残った感覚は消えない。
――すべてを失ったはずなのに。
霧の街の静けさと、知らない少女の瞳。
そのどちらもが、灯を失った胸の痛みを、ほんの少しだけ和らげていた。
だが、安堵に息を吐いたその時――
懐の《銀の箱》が、衣越しに冷たい脈動を放った。
ドクン、と。
視界が、激しい耳鳴りと共に歪む。
ラグナは目を見開いた。
(……なんだ、これ?)
目の前に、光の粒が凝固し、奇妙な形を成していく。
それは見たこともない、複雑な紋様の羅列だった。
『――警告。理に反する血脈を検知』
文字など読めないはずだった。
なのに、その意味だけが、焼印を押されたように脳髄へ直接流れ込んでくる。
(頭が……おかしくなったのか……?)
強い吐き気とめまい。
ラグナは思わず頭を振った。
瞬きを繰り返すと、光の文字は霧に溶けるように消え失せる。
残ったのは、冷や汗と動悸だけ。
少年はまだ知らない。
その幻覚のような光景こそが、世界からの明確な殺意であることを。




