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霧灯のラグナ ~崩壊する迷宮世界を、旧人類の《管理者権限》で書き換える~  作者: すいまる
プロローグ

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2/20

灯の宿る街で

 ――落ちたはずの身体が、不意に“置かれた”ような感覚。


 硬い地面。冷たい風。湿った草の匂い。


(……ここは?)


 ラグナが目を開けると、そこは夜だった。

 深い霧に包まれた岩場が広がり、空がどこまでも高く見えた。

 迷宮の中にいるとは思えないほど、世界は静まり返っている。


 周囲を確かめようとした、その時。

 霧の奥から、低い唸り声が響いた。


 茂みを押し分けて現れたのは、まるで狼の肉体を裂き、別の生き物を無理やり詰め込んだかのような――異形の獣だった。

 背には節足のような腕が幾本も突き出し、黒い鱗に覆われた体からは鼻を衝く腐臭が漂っている。

 眼孔の奥で紫の光が揺れ、ラグナを射抜くようにぎらついた。


 本でしか知らなかった“魔獣”。

 だが紙の上の知識と、目の前の死の気配はまるで別物だった。

 幼い喉は悲鳴をあげようと震えているが、なかなか声が出ない。


(母さん……助けて!)


 ラグナは、胸元に押し込まれた銀の箱を握る。

 小さな指は冷え切り、どうしても力がこもらない。

 心臓は痛いほど暴れているのに、足は地面に縫いつけられたままだった。

 息が詰まり、涙だけが頬を伝う。


 魔獣は愉しむように顎を歪め、地を蹴った。


 牙が迫る――死を悟った、その瞬間。



 ――雷鳴。


 白光が夜を裂き、魔獣の腹を貫いた。

 爆ぜた衝撃で霧が吹き飛び、巨体が地を揺らして倒れる。


 雷光の残滓を背に、黒髪の男が大地に降り立った。

 逞しい体躯に刻まれた皺深い面差し。

 背の大剣が、その存在をさらに重く見せていた。

 落ち着いた声がラグナの耳に届く。


「少年――転移者か」


 渋い声音に、不思議な安心感が混じっていた。


 呻きとともに魔獣が立ち上がる。

 焦げた腹から黒煙を吐き出し、節足の腕を地へ突き立てる。

 地面が抉れ、岩片が弾丸のように飛び散った。

 耳を打つ轟音に、ラグナは両耳を塞いで蹲るしかなかった。


「イリア、封鎖だ」


 命じる声には、誰もが従うべき重みがあった。


「了解」


 金髪の女術師が前へ進む。

 雪のように白い肌、切れ長の瞳。

 冷たい光を宿しながらも、どこか面倒見の良さを感じさせる落ち着いた雰囲気を纏っていた。

 白布を翻し、指先に雷光を集める。


「雷よ、残光とともに影を裂け――《雷晶陣:断》!」


 雷光が奔り、魔獣を絡め取る。

 だが四肢がねじり砕き、雷光は容易く散った。


 咆哮。黒い衝撃波が大地を走る。

 その振動が腹に響き、ラグナは地面に縋りついて震えた。


「うわ、派手だね! でも――こっちも負けないよ!」


 軽快な声が霧を裂いた。

 褐色肌の弓兵の女が弓弦を鳴らし、稲妻の矢を次々と放つ。

 矢は正確に魔獣の顔面を狙い、怒りを煽っていく。

 ラグナの目には、彼女が恐怖に怯むことなく笑みすら浮かべているように見えた。

 その姿は幼い彼の心に焼き付き、同時に“自分は何もできない”という無力感を突きつけた。


「……ここで止める」


 黒髪の男が踏み込み、大剣で節足を断ち切った。

 だが別の腕に弾き飛ばされ、地を転がる。


「っ……!」


 よろめきながらも、その眼差しは微塵も揺らがない。

 それを見た瞬間、ラグナの胸に“絶対に折れない何か”が刻まれるようだった。


「イリア!」

「わかってる……雷よ、束ねよ――《雷晶陣:結》!」


 今度は鎖が閃き、節足ごと魔獣を縫い止めた。


「ナイス! 今度こそ決まれ!」


 弓兵の矢が眼孔を射抜く。

 絶叫を上げ、魔獣がのたうった。


「……終わりだ」


 黒髪の男が青炎を纏った剣を突き出す。

 刃が喉を貫き、青炎が爆ぜた。

 巨体は痙攣し――やがて霧に溶け、静かに消えていった。


 静けさが戻る。

 イリアが膝をつき、白布を整える。


「もう大丈夫。ようこそ、ミストモスへ」


 こうして――故郷を失った少年は、霧に包まれた新たな街に辿り着いた。

 胸の奥には、母が託した小さな銀の箱の冷たさだけが残っていた。



――――――



 ――意識は揺らいでいた。

 心は抜け殻のようで、ただ胸に感じる硬い温もりだけが現実を繋ぎ止めていた。

 ラグナは、大剣を背負う男の肩越しに霧の景色を眺めていた。


 霧は深く、ひときわ静かだった。

 石畳の道が濡れて光り、灯光石が淡い青を散らす。

 水滴の音と、湿った風だけが耳を打つ。

 ついさっきまで暮らしていた花のリュナメスの喧騒が幻のように思えた。


 やがて――岩壁の裂け目を抜けた先に、集落が広がっていた。

 丸屋根の石造りの家々が霧に沈み、中央広場の《光刻板》が橙色の光を放っていた。

 その明滅に呼応するように、人々が静かに集まってくる。

 遠くからは鍛冶の槌音、獣皮を打ち鳴らす乾いた音、子供の泣き声が断片的に響いた。

 それでも全体としては、霧に吸い込まれるように静かだった。


「……転移者だ」


 誰かの呟きが波紋のように広がり、人々の視線が一斉にラグナへと集まった。

 その目には驚き、警戒、同情、様々な色が入り混じっていた。


 答える言葉はなく、ただ箱を胸に抱き寄せる。

 箱の冷たさを頬に押し当てれば、ほんの一瞬だけ母の手の温もりを思い出せる気がした。

 だが、現実にはその温もりは伝わってこない。


 ――群衆の中に、ひとりの少女の姿があった。

 年はラグナと同じくらい。

 霧に縁取られた輪郭は淡く、はっきりとは見えない。

 それでも灯光石の青白い光に照らされた瞳だけは、まっすぐにこちらを射抜いていた。


 少女の手には、小さな白い花が握られていた。

 吐息に揺れた花から、花弁が一枚、霧の中へと舞い上がる。

 ほんの一瞬――その仕草に、母の笑顔の残像が重なった。


 言葉はなかった。

 ただ、その眼差しと花の揺れは、確かにラグナの心に焼き付いた。


 次の瞬間、少女は大人たちの陰に隠れて姿を消す。

 だが、胸の奥に残った感覚は消えない。


 ――すべてを失ったはずなのに。

 霧の街の静けさと、知らない少女の瞳。

 そのどちらもが、灯を失った胸の痛みを、ほんの少しだけ和らげていた。


 だが、安堵に息を吐いたその時――

 懐の《銀の箱》が、衣越しに冷たい脈動を放った。

 ドクン、と。


 視界が、激しい耳鳴りと共に歪む。

 ラグナは目を見開いた。


(……なんだ、これ?)


 目の前に、光の粒が凝固し、奇妙な形を成していく。

 それは見たこともない、複雑な紋様の羅列だった。


『――警告。ことわりに反する血脈を検知』


 文字など読めないはずだった。

 なのに、その意味だけが、焼印を押されたように脳髄へ直接流れ込んでくる。


(頭が……おかしくなったのか……?)


 強い吐き気とめまい。

 ラグナは思わず頭を振った。


 瞬きを繰り返すと、光の文字は霧に溶けるように消え失せる。

 残ったのは、冷や汗と動悸だけ。


 少年はまだ知らない。

 その幻覚のような光景こそが、世界からの明確な殺意であることを。



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