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霧灯のラグナ ~崩壊する迷宮世界を、旧人類の《管理者権限》で書き換える~  作者: すいまる
第一章

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目覚める心臓

 塔の裏手にある非常扉は、無理やりこじ開けられたかのように歪んでいた。

 隙間から、まるで怪物の吐息のような白い霧が、どろりと流れ出している。


 ラグナは荒い息を吐きながら、その闇の中へと足を踏み入れた。


 途端に、肌にまとわりつく空気の質が変わった。

 外の喧騒は分厚い石壁に遮断され、耳が痛くなるほどの静寂が支配している。

 霧は外よりも澄んでいるはずなのに、肺に吸い込むと鉛のように重く、鉄錆と油が混じったような古びた機械の臭いが鼻腔を刺した。


(……間に合え)


 祈るように呟き、狭い螺旋階段を駆け上がる。

 石造りの階段は冷たく、蹴り上げるたびに乾いた音が虚しく響く。

 一段飛ばしで駆け上がるたび、太腿の筋肉が悲鳴を上げ、喉の奥から血の味がした。

 だが、足は止められない。


 胸ポケットの《銀の箱》が、服越しに皮膚を焦がすほどの熱を放っている。

 ドクン、ドクン、と。

 それは心臓の鼓動と同期し、ラグナの脳髄に警鐘を鳴らし続けていた。

 視界の端に、歪んだ光が点滅する。


『警告:敵性体、接近。――接触まで、あと10秒』


 脳裏に響く無機質な宣告。

 それがゼロになった時、この塔の主が死ぬ。

 ラグナは恐怖を怒りで塗り潰し、最後の踊り場へと体を投げ出した。


 最上階――「中枢の間」。

 そこにあるはずの重厚な装飾扉は、見るも無惨な姿を晒していた。


 鍵穴はない。物理的に破壊されたのでもない。

 中央部分が、まるで高熱で溶かされた飴細工のようにドロドロに溶解し、床に黒い雫を垂らしていたのだ。

 床石を焦がすその液体からは、あの「黒い泥」と同じ、鼻をつく腐敗臭が漂っていた。


(……来ている!)


 ラグナは剣を抜き放ち、溶解した扉の隙間へ身体ごと突っ込んだ。


「長老ッ!!」


 裂帛の気合いと共に叫ぶ。

 円形の広大な空間。

 壁一面に張り巡らされた配管が明滅し、中央に鎮座する巨大な制御装置が、低い駆動音を奏でている。

 その祭壇の前で、灰色の祭司衣を纏った老人――セヴランが、尻餅をついて後ずさっていた。


 老人の手からは杖が滑り落ち、カランと乾いた音を立てて転がっている。

 いつも理知的で穏やかな彼の顔が、今は見たこともない恐怖に歪み、脂汗に濡れていた。

 焦点の定まらない瞳が、目の前に立つ“それ”を見上げている。


 そこに、絶望が立っていた。


 人型をしている。だが、断じて人ではない。

 夜の闇を切り取って、無理やり人の形に押し固めたような不定形の影。

 輪郭は常に揺らぎ、霧散しては再構築を繰り返している。

 顔があるべき場所には目も鼻もなく、ただ世界がそこだけ欠落したような、不快な“揺らぎ”が激しく明滅していた。


 水路に残された爪痕。

 霧犬を変質させた、あの泥。


 そして今、目の前に在る“本体”。

 それらが線で繋がり、ラグナの背筋を氷のような戦慄が駆け抜けた。


 生物としての本能が告げている。

 これは、この世界に存在してはいけない“異物”だと。


 影の右腕が、ぬらりと変形した。

 泥が硬質化し、鋭利な鎌のような刃へと変わる。

 音もなく振り上げられた凶刃が、セヴランの細い首を狙って、振り下ろされる――。


(術じゃ、間に合わない……!)


 詠唱を紡ぐ時間などない。

 ラグナは反射的に、腰の剣に手をかけた。


 普段は術式の補助としてしか使わない鋼の剣。

 だが今は、これだけが唯一、死の速度に追いつける盾だった。


「やめろぉぉぉッ!」


 思考よりも早く、身体が動いていた。

 ラグナは床を蹴り、セヴランと影の間へと滑り込む。

 抜き放った鋼の剣を頭上へ掲げ、迫り来る死の刃を受け止める。


 ガギィィィィィッ!!


 金属同士がぶつかる音ではない。

 ガラスを爪で引っ掻いたような、神経を直接逆撫でする不快な高音が鼓膜を裂いた。


 重い。

 物理的な質量ではない。空間そのものが歪んで、上から押し潰してくるような圧倒的な圧力。

 膝が笑い、足元の床石に亀裂が走る。


「ぐ、ぅ……!」

「ラ、ラグナか!?」


 背後から、セヴランの驚愕の声が届く。

 ラグナは歯が砕けるほど食いしばり、全身のバネを使って剣を押し返そうとした。

 だが、影の腕はビクリともしない。

 それどころか――


 ジュゥゥゥ……。


 影の刃と接触している剣身から、白煙が上がった。

 鋼鉄が、まるで腐った木材のように変色し、ボロボロと崩れ落ちていく。

 侵食だ。

 影の身体を構成する黒い泥が、剣を伝ってラグナの手元へと這い寄ってくる。


(剣が……効かない!?)


 ラグナは愕然とした。


 これは魔獣じゃない。

 物理法則を無視して、触れるもの全てを光の塵へと還す“現象”だ。


 影の顔にある“揺らぎ”が、激しく明滅した。

 目はないはずなのに、冷たい視線を感じる。

 感情のない、虚無の殺意。

 鎌状の腕が液状化し、剣の防御をすり抜けて、鞭のようにしなる。


 避けきれない。


 ――死ぬ。


 そう思った瞬間。

 胸の《銀の箱》が、爆発的な光を放った。


 ドクンッ!!


 心臓が焼けるような衝撃が走り、世界の色が反転した。

 時間が、泥沼に沈んだように遅くなる。

 刹那が永遠に引き伸ばされた感覚の中で、あの無機質な声が脳髄に直接響いた。


『――始祖の権能アクセス、承認』

防衛儀典プロトコル、励起』


 ラグナの視界が白く染まり、部屋中の光景が分解されていく。

 石造りの壁も、流れる霧も、床の刻印も。

 すべてが青白い“光脈”と、流れる“律”へと変換される。


 塔の構造が、手に取るように分かる。

 壁の中を走る魔力配管の脈動、地下深くに眠る動力炉の唸り、天井のレンズの角度。

 すべてが「啓示」として脳内に流れ込んでくる。

 そして、目の前の影だけが、禍々しい赫色で刻印された。


『対象:異律存在シャドウ

『推奨:塔の光による浄化』


 言葉の意味は分からない。

 使い方も習っていない。

 だが、身体が熱くなり、自分の神経が床を通して塔全体へと拡張していく感覚があった。


 ここはこの塔の心臓部。

 ならば、この塔のすべてが――俺の手足だ。

 ラグナは半ばまで崩れ落ちた剣を捨て、床の制御盤に、血の滲む手を叩きつけた。


(消えろ……ッ!)


 叫びと共に、命令コードを流し込む。


 ズォォォォン……!


 塔全体が、巨大な獣のように唸りを上げた。

 床の刻印が一斉に青白く発光し、室内の空気がビリビリと震える。

 天井にある巨大な採光窓の絞りが、ギギギと音を立てて全開になった。


 降り注ぐのは、月光ではない。

 純白の閃光。


 それは結界を維持するための高純度魔力光であり、同時に、システム内の異物を排除するための浄化の光。

 光の奔流が、影を直撃する。


「ギィ、ガ、ガガガガガ……ッ!」


 影が、初めて悲鳴を上げた。

 生物の叫びではない。壊れた楽器が奏でる不協和音のような、断末魔の軋み。


 絶対的な光の中で、黒い泥が蒸発していく。

 不定形の肉体が数千の紋様の羅列となって空中に散り、歪み、そして白い光に飲み込まれて消滅する。


 数秒の後。

 光が収束し、静寂が戻った。

 床には、影の痕跡ひとつ残っていなかった。

 ただ、空間そのものが焦げ付いたような匂いだけが漂っている。


 ラグナは膝から崩れ落ちた。

 全身の力が抜け、指一本動かせない。

 荒い息を吐きながら、霞む視界でセヴランの頭上を確認する。


 ……消えていた。


 あのあかい文字列――『執行刻限:今晩』という死の宣告は、完全に消えていた。


「……はぁ、はぁ……」


 自身の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。

 静寂の中、衣擦れの音がして、セヴランが震える手でラグナの肩に触れた。


「……今のは……なんだ?」


 老人の瞳には、命拾いした安堵よりも、目の前で起きた現象への畏怖が宿っていた。

 彼は床に座り込んだまま、まだ微かに光を帯びている天井を見上げる。


「あの光は、我々の知る術式ではない。……塔そのものが、まるで意志を持って敵を排除したような……」


 セヴランの視線が、ラグナへと戻る。

 そこには、ただの自警団員を見る目ではなく、得体の知れない“何か”を見る色が混じっていた。


「君が、やったのか?」


 ラグナは胸を押さえた。

 服の下で、《銀の箱》は急速に冷たくなっている。

 説明できるはずがない。

 自分でも、何が起きたのか分からないのだから。

 ただ一つ確かなのは、自分がこの世界の“ことわり”に触れてしまったということだけ。


「……分かりません」


 ラグナは掠れた声で答えた。


「ただ……守りたかった。それだけです」


 嘘ではない。

 だが、真実のすべてでもない。


 セヴランは長い間、ラグナを見つめていた。

 少年の瞳にある、嘘のない光。

 そして、常人ならざる力を持ちながらも、怯えるように震える指先。


 やがて、塔の下から駆け上がってくる複数の足音が聞こえた。


 イリアたちの声だ。

 長老はひとつ深く息を吐き、覚悟を決めたようにラグナの手を強く握りしめた。

 その皺だらけの手は、まだ小刻みに震えていた。


「……分かった。今の光のことは、胸にしまっておこう」

「え?」

「君が何者であれ、君がこの老いぼれの命と、ミストモスの未来を救った事実に変わりはない。……礼を言うぞ、ラグナ」


 その言葉は、共犯の誓いだった。

 この瞬間、二人の間に、誰にも言えない秘密の絆が結ばれた。


 バンッ!


 入り口の扉が蹴破られ、イリアとセラが飛び込んでくる。

 二人は煤で汚れ、肩で息をしていたが、無事なようだった。


「セヴラン様! ご無事ですか!」

「ラグナ!」


 二人の視線が、溶解した扉と、へたり込んだラグナを行き来する。


「これは……一体、何が……」

「敵の襲撃があった」


 セヴラン長老が、威厳を取り戻した声で告げた。


「だが、ラグナ君が捨て身で守ってくれたよ。……敵は、塔の防衛機構が作動して撃退した」

「防衛機構……ですか?」


 イリアが怪訝そうに眉を寄せるが、長老はそれ以上語らなかった。

 セラが泣きそうな顔で駆け寄り、ラグナの身体を抱き起こす。


「無茶しないでって、言ったのに……!」

「ごめん……でも、無事でよかった」


 ラグナは安堵に目を閉じた。

 セラの手の温もりが、痺れた身体に染み渡る。


 守り切った。

 その事実だけが、今の彼を支えていた。


 ――だが。

 この塔の頂上で起きた異変を、目撃していた者がもう一人いたことを、ラグナたちはまだ知らない。


――――――


 その頃。


 混乱の続く広場の片隅。

 逃げ惑う人々の流れに逆らって佇む、小さな人影があった。


 深いフードを目深に被り、ボロ布のようなローブを纏っている。

 祭りの華やかさとは無縁の、薄汚れた姿。

 だが、その人物だけが微動だにせず、真っ白な光を放った《結界塔》の頂上を凝視していた。


 光の残滓が網膜に焼き付いている。

 影は、震える唇で低く呟いた。


「……見つけた」


 声は、少女のものだった。

 だがその響きには、年齢に見合わぬ狂信的な熱と、粘着質な執着が籠もっている。


「あれは《リヴェイラ》の光。……女神の御座みくらは、あそこにある」


 少女の背後、路地裏の闇には、同じようなローブを纏った数人の男たちが音もなく控えていた。

 彼らの腕には、奇妙な刺青――まゆのような紋様が刻まれている。


「行きましょう。……“さなぎ”が孵る時が来たわ」


 少女が踵を返す。

 霧が彼らの姿を隠すように揺らめき、次の瞬間には、煙のように消え失せていた。


 祭りの終わり。

 一つの危機が去った街に、新たな、そしてより深い闇が忍び寄ろうとしていた。



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