偽りの空
――朝の風が、金属を撫でていった。
鉄と油の匂いが空気に膜を張るように漂い、ティレーンの朝が静かに動き出す。
《ティレーン》の朝は、《ミストモス》とは比べものにならないほど“早い”。
陽光が差すたびに、人も帆布も、街そのものが息を吹き返す。
遠くで飛行船の汽笛が短く鳴り、金属の反響が空に溶けていった。
宿の一室。
小さな窓の外では、帆布橋の上を行き交う人々の姿が見える。
ラグナは寝台の上で体を起こし、灯光石を軽く叩いた。
淡い光がともる。
まだ早朝の薄暗さが部屋に残っていた。
コンコン、と扉が二度、軽く叩かれた。
次の瞬間、赤い三つ編みを揺らしてリャナがひょいと顔を覗かせる。
「おはよう。昨日はちゃんと眠れた?」
「はい。……でも、ずっと風の音がしてました」
「慣れないうちは、うるさく感じるかもね。ここは“空の上”だから」
リャナに続いてセラも顔を出し、髪をまとめながらラグナに微笑んだ。
「霧の外は、眠るよりも動いている時間のほうが長いみたい」
ラグナとセラが軽い雑談を交わしていると、リャナが部屋の奥に進み、木製の机に地図を広げる。
古い羊皮紙には、迷宮階層の断面図と複数の印が記されていた。
「さて、と。じゃあ改めて――段取りの確認、始めよっか」
ラグナとセラが頷く。
リャナは指で《ティレーン》を囲むように円を描いた。
「私たちの任務は、“ミストモスを守る道”を探すこと。そのためには外の情報が必要なの。……あの街は閉じてる。だから、外の風を運べるのは、今のところ私たちだけ」
「……具体的には、どんな情報ですか?」
ラグナの問いに、リャナは淡々と答える。
「他都市の状況、連合の動き、交易の流れ……。全部ひっくるめて、ミストモスの“外の耳”になるってことね」
セラが静かに地図を見つめた。
「長老会は、他都市との協定を考えているんですね」
「そう。防衛力の底上げには、外の力が必要。でも、火の連合みたいな強硬派に頼れば、支配されるだけ。ヴァルト=ヴァルドのような中立連合との繋がりが理想だと思う」
ラグナは地図の端、霧苔層に描かれた都市群に目をやる。
そこには、ミストモスの名はない。
“存在しない街”。それが自分たちの街だと改めて思い知らされる。
「私たちの役目は?」
「ラグナとセラは、攻略者としての実績作りが最優先。依頼をこなせば、“外の目”が自然とこっちを見るようになる――特に独立傭兵団。彼らが味方になれば、ミストモスにとって大きな助けになる」
「信用は、行動で払うってことですね」
ラグナは頷いた。
だが、彼の胸中には別の目的もあった。
自分の能力――《始祖の権能》。そして、あの夜に見た「影」の正体。
それらを探ることもまた、自分にしかできない任務だ。
「リャナさんは?」
「私は別任務。……まだ話せないけどね。でも――目指してる場所は、きっと同じ」
「“街の未来”ってところ?」
「ふふ、どうだろうね」
その言葉に、ラグナとセラは目を合わせた。
リャナの任務には、きっと長老会の“もう一つの意図”がある。
だが、彼女はそれを語らない。語れないのかもしれない。
「まあ、心配はいらないわ。二人の初仕事――今日から本番ね」
リャナは笑って立ち上がり、窓の外を指した。
「ギルドの依頼掲示板に、採取任務が出てる。初仕事にはちょうどいい」
――――――
ギルドへ向かう道中、朝の市場はすでに活気に溢れていた。
行商人の売り声、荷車の音、旅人たちの笑い声。
光と音の奔流に眩暈を覚えながらも、ラグナは必死に周囲を観察していた。
人々の頭上に、時折「光の揺らぎ」が見える。
感情や魔力の動きに反応する――自分だけに見える兆候だ。
それは感情の色なのか、それとも生命力なのか。
まだはっきりとは分からないが、この街には情報が溢れすぎていた。
「……ラグナ?」
セラの声に振り返ろうとした、その時だった。
人波の向こうから、小柄な人影が音もなく近づいてきた。
深いフードを被り、顔は見えない。
だが、すれ違いざま――
ふわっと、懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。
甘く、どこか切ない、白い花の香り。
それは、あの日――リュナメスが崩壊した日に嗅いだ匂いと同じだった。
(……っ!?)
ラグナが弾かれたように振り返った時には、もうその影は雑踏の中に消えていた。
ただ、自分の外套のポケットに、わずかな違和感が残っている。
手を入れると、指先に硬い紙の感触があった。
取り出してみる。
掌に収まるほどの羊皮紙片。
そこには、殴り書きのような文字で、たった一行だけ記されていた。
文字は古く、だが不思議とインクは新しかった。
『真実は、偽りの空の下にある』
(……なんだ、これ)
心臓が早鐘を打つ。
これは警告か、それとも誘いか。
胸の《銀の箱》が、共鳴するように微かに熱を持った。
「ラグナ、どうしたの? 置いていくよ」
「あ、ああ……今行く」
ラグナは紙片を握りしめ、ポケットの奥に押し込んだ。
誰かは分からない。だが、自分を見ている者がいる。
この広い空の下で、明確な意思を持って。
――――――
ギルドの内部は、朝から熱気に満ちていた。
ラグナとセラはカウンターへ向かい、受付嬢に依頼書を提出した。
「中央層採取任務、ですね。転移門付近の安全地帯での作業になりますので、安心してください」
差し出された契約書には、依頼の詳細と署名欄。
右腕の“契約印”を刻印器に当てると、紙の上に淡い光の模様が浮かんだ。
「……これで完了?」
「はい。印の照合で依頼者と繋がります。帰還時に報告を忘れずに」
受付嬢の説明を聞きながら、ラグナはふと自分の腕を見る。
淡く輝く印が、霧苔層の結界光とよく似ていた。
――結界も、契約も、誰かの意志を“繋ぐ”術。
だが、その光の中に、微かなノイズのような濁りが混じっているのが見えた気がした。
(この街も、完璧じゃないのか……?)
ラグナは胸騒ぎを覚えながらも、セラと共に港へ向かった。
――――――
港は朝から騒がしかった。
巨大な飛行船が桟橋の外縁に並び、積み荷と人を交互に飲み込んでいく。
ラグナとセラも、この便に乗る。
ギルドで受けた“中央層採取任務”――
地上の転移門近くで素材を採取し、午後には戻る予定だった。
見下ろすと、桟橋の柱に沿って光が走っていた。
《結界杭》と同じ術式構造――船を空に繋ぎ止める鎖のように。
ティレーンの“空を維持する仕組み”が、そこに息づいていた。
ラグナの目には、その光の流れが「脈動」として映っていた。
正常な青白い光。だが、所々に赤い斑点のような「澱み」が混じっている。
まるで、血管に異物が混入しているかのように。
(……この街も、病んでいるのか)
そんな不吉な予感を振り払うように、ラグナは甲板に立った。
――――――
飛行船が雲を突き抜けると、光が一気に広がった。
広い平原の中央に立つ円環の門。
その光が周期的に脈打ち、周囲を取り巻く桟橋に人が群がっている。
ラグナたちは貨物と一緒に降ろされる。
地面の固さに足が沈み、久しぶりの“地上”の感触が伝わった。
「……霧がない」
セラの声は、風にさらわれるほど小さかった。
そこには、驚きと、ほんのわずかな不安が滲んでいた。
任務は単純――のはずだった。
門周辺の安全地帯で魔導石の欠片と苔類を集め、昼までに戻るだけ。
だが、迷宮の“出口”であるこの場所の空気は、どこか張りつめていた。
風が丘を撫で、草が波打つ。
セラが無言で腰を下ろし、採取具を取り出した。
その仕草は正確で、無駄がない。
ラグナも作業を始めたが、意識の半分は周囲の警戒に向けていた。
あのメッセージ。『真実は、偽りの空の下にある』。
偽りの空とは、ティレーンのことか? それとも――。
――――――
日が傾く頃、二人は再び港行きの船に乗り込んだ。
ティレーンの浮遊影が雲の向こうに見え始める。
夕陽が光鎖を照らし、柱の紋が脈動する。
桟橋に降り立つと、整備員が船体を固定していた。
光の柱が等間隔に並び、結界杭のごとく淡く輝いている。
――だが、一本だけ、光の流れが決定的に歪んでいた。
「……セラ、あれ」
光柱のひとつが、激しい不協和音を奏でている。
ラグナの耳にだけ聞こえる、耳障りな軋み音。
「制御が乱れてる……。符号の一部が、焼けてるわ」
柱の表面には細かな亀裂。
符号のひとつが途切れ、断面から細い光が漏れている。
だが、ラグナには見えていた。
その亀裂の奥に、人為的に刻まれた「楔」のような黒い紋様が埋め込まれているのを。
(……事故にしては、出来すぎてる)
誰かが意図的に、制御を狂わせようとした痕跡だ。
敵対する都市か、あるいは別の勢力か。
ラグナは整備員に声をかけ、異常を報告した。
だが、「楔」のことは伏せた。言っても信じてもらえないし、何より自分の能力を明かすことになる。
「……この光、脈がずれてます。符号、焼けてませんか?」
「……本当だ。ここまで小さな乱れに気づくなんて、大したもんだよ」
整備員は刻印器で状態を記録し、ラグナの登録証を照合して報告書に打ち込む。
「これで完了だ。ギルドには報告を回しておくよ。ありがとうな」
桟橋を離れながら、ラグナはその光を振り返る。
夕陽に溶ける淡い青――その奥に潜む黒い影。
この街もまた、見えない敵に侵食され始めている。
――――――
ギルドに戻ると、受付嬢が端末を操作しながら笑みを浮かべた。
「初任務、確認しました。採取品も問題ありません。それと……港の符号異常の報告、助かりました。現場と整備班からも照合が届いています」
彼女は登録証を返しながら、指先で軽く叩く。
青い光が一瞬だけ走り、名前が微かに輝いた。
――最初の実績は、外の風に“灯を括る”小さな結び目だった。
だが、その結び目の先には、まだ見ぬ闇が繋がっている。
――――――
夜。
リャナは宿の一室で、霧を灯した小型の“記録器”を覗き込んでいた。
掌に収まるほどの金属の器具。
古い術式の残骸を改造したもので、霧を媒介に情報を“送る”ことしかできない。
霧の膜に、淡い光の文字が浮かぶ。
採取結果、桟橋符号の異常位置、術式出力の揺らぎ、――そしてギルドとのこと。
数字の列を確かめながら、リャナは静かに息を吐いた。
「……上出来、ね。これなら、風はまだ折れずに進める」
送信の符を押すと、霧がふっと明滅し、光が細く消えていく。
リャナは懐から、一枚の紙片を取り出した。
ラグナが拾ったものと同じ、羊皮紙の切れ端。
そこには、別の言葉が記されていた。
『種は撒かれた。――収穫の時を待て』
リャナはその紙片を、霧灯の炎にかざした。
チリチリと燃え尽きていく灰を見つめる彼女の瞳は、いつもの明るさを消し、冷たく凪いでいた。
「……待ってなさい。必ず、尻尾を掴んでやるから」
窓の外では、風が帆布を叩き、遠くで船の鐘が鳴っている。
ティレーンの夜は、まだ始まったばかりだ。




