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霧灯のラグナ ~崩壊する迷宮世界を、旧人類の《管理者権限》で書き換える~  作者: すいまる
第二章

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風の都

 ――風の音が、街を震わせていた。


 吊り橋の帆布がぱたぱたと鳴り、どこか遠くで鐘が応えるように鳴った。

 金属と石でできた通路の下には、果てのない蒼。

 雲海が流れ、風が路地を吹き抜けるたび、空気がひんやりと揺らいだ。


 ラグナたち三人は、その風の道を歩いていた。

 浮遊都市ティレーン――その中心を貫く商業通り。

 左右には所狭しと店が並び、香辛料の匂い、焼いた肉の匂い、そして機械油と錬金薬が混ざった独特の香りが漂っている。


 通りの上層には布製の屋根が幾重にも張られ、金属の梁に吊るされた灯光石が淡く光を放っていた。

 風に揺られるたびに布の影が波打ち、歩く人々の顔を掠めていく。

 まるで、空そのものが呼吸しているようだった。


「……すごい」


 セラが小さく息をのむ。

 目の前では、風に乗って露店の紙札が舞い、金貨のやり取りが絶え間なく続いていた。

 旅装束の傭兵、歌う吟遊詩人、空色の外套をまとった薬師――声の訛りも装備も、それぞれが違う階層の空気をまとっていた。

 彼らが言葉を交わすたび、ティレーンの空は多様な響きに満ちていく。


「まるで……迷宮じゃなくて、ひとつの世界みたいですね」

「それがティレーンよ」


 リャナが肩をすくめる。


「地上の都市みたいに王も長老もいない。代わりに、取引と噂と力がこの街を動かすの」

「……力、ですか?」

「剣の力もあるけどね。ここの連中が本気で恐れるのは、“情報”よ。誰が何を持ってるか、それが一番の価値だから」


 その言葉と同時に、目の前を術式灯を提げた男が横切った。

 背負う荷車の中では、古い金属片と術式書が鈍く光っている。


 風が吹き抜け、ラグナの外套を揺らした。

 霧苔層の湿った風とは違う、乾いた、軽い空気。

 吸い込むたびに胸の奥が少し痛むほど、鮮烈だった。


――――――


 やがて三人は、市場の一角で足を止めた。


 小さな露店の棚に、整然と並ぶガラス瓶。

 淡い紫や青の液体が光を受けて揺れ、瓶の底には細かな銀色の粒が沈んでいる。


「……綺麗」


 セラがひとつ手に取って、光にかざした。

 瓶の内側で銀の粒がふわりと踊り、淡い光が手のひらを照らす。


 ラグナはその瞬間、鼻を掠めた香りに微かな違和感を覚えた。

 ――霧草と苔を煮詰めた匂い。

 ミストモスの調薬場で幾度も嗅いだ、あの独特の香り。


「この香り……」

「目が利くね、兄ちゃん」


 店主の男が口にくわえた煙管を外し、にやりと笑った。


「そいつは《霧露薬》。疲労と魔力の揺れを抑えるやつだ。“霧の里”で調合されたって話さ」

「……霧の、里?」


 セラがさりげなく問い返す。

 男は肩をすくめる。


「名前も場所も誰も知らねぇ。霧に隠された伝説の街ってやつさ。けど、そこの薬は効く。値は張るが、命には代えられねぇからな」


 ラグナは瓶の底をじっと見つめた。

 銀の粒が、霧苔の光と同じ色を返す。

 喉の奥まで出かかった言葉を、ラグナはそっと飲み込んだ。

 静かに息を吐いて、瓶を棚に戻す。


 リャナが、わずかに口角を上げた。


「どこの伝説も、誰かが作った現実の影ってこと。……でも、風はいつだってどこかで繋がってるのよ」

「繋がってる……」


 ラグナはその言葉を反芻した。

 ミストモスで生きるために、誰かが外と取引していた。

 自分たちが知らないところで、誰かが風を運んでいた――そう思うと、胸の奥が熱くなった。


――――――


 再び歩き出すと、通りの匂いが変わった。

 鉄と油の匂いが強まり、武具と魔導具の区画に入ったのだ。

 風鈴のように吊るされた短剣がきらりと光り、盾の表面に術式陣が刻まれている。


 帆布の隙間から陽が差し、床の金属板に反射して揺らめいた。

 人の声は絶えず、誰かの笑いと怒号が重なり合う。

 足もとから金属の振動が伝わり、胸の奥までざわめきが響いてきた。

 ティレーンは、生きていた。


「――あっ、あれ見て」


 セラが指さした先、通りの終わりに高い塔が見えた。

 金属の壁に大きな歯車の紋章。

 その下を行き交うのは、装備を整えた探索者たちばかりだ。

 魔導灯を提げた魔術士、分厚い鎧の戦士、軽装の弓使い。

 それぞれが別の迷宮へと旅立つ前の表情をしている。


「……あれが、攻略者ギルド」


 リャナが頷く。


「ティレーンに来たなら、まずはあそこ。登録しないと何も始まらない」

「なるほど……“入口”ってことですね」


 セラが小さく笑う。


「入口であり、出口でもあるわ。――稼ぐか、落ちるか。すべては自分次第」


 リャナがそう言って歩き出す。

 ラグナとセラはその背を追った。


 風が吹き抜ける。

 帆布がはためき、鐘が鳴った。

 ――霧の外に出た彼らを、新しい世界の風が迎えていた。



――――――



 ――扉を押し開けた瞬間、熱気が押し寄せた。


 内部は外の風とは正反対だった。

 金属と石で組まれた大広間の天井は高く、光を放つ灯光石の列が奥まで続いている。

 壁一面には依頼の札がびっしりと貼られ、油紙に記された文字が光を反射していた。


 すれ違うたびに、鎧の擦れる音、笑い声、足音、そして酒の匂い。

 ティレーンの《攻略者ギルド》は、戦う者たちのための“街の心臓”のような場所だった。


「……すごい熱気」


 セラが思わず声を漏らす。


「ここじゃ誰も“静かに”なんて言わないのよ」


 リャナが笑う。


「命を賭けてる連中ばかりだから、静かよりうるさい方が生きてるって安心するの」


 ラグナは周囲を見渡した。

 カウンターの奥では受付嬢たちが手早く札を仕分け、横の書記が分厚い帳簿に記録を書き込んでいる。

 彼らの後ろには魔導装置がいくつも並び、依頼の記録や討伐報告を光の符号で処理していた。


 霧の里では見たこともない、徹底した“管理の光景”。

 それでも不思議と冷たさはなく、ざわめきの奥には確かな“生”の匂いがあった。


「ようこそ、ティレーン攻略者ギルドへ!」


 カウンターの向こうから明るい声が飛ぶ。

 声の主は、淡金色の髪をまとめた女性だった。

 整った制服に軽装の鎧を兼ねたベストを着込み、胸元のバッジが柔らかく光を返している。


「初めてお越しですか?」

「はい。……登録をお願いしたいのですが」


 ラグナが答えると、女性はにこやかに頷いた。


「承りました。それではお名前と出身階層、それから――所属があれば教えてください」


 一瞬、ラグナとセラが目を合わせる。

 ミストモスの名は口にできない。

 ラグナは少し間を置いてから言った。


「……ラグナ。出身は中央層の南部、小都市群のひとつです」

「セラです。同じ階層で……同行者です」


 受付嬢は笑顔を崩さず、手元の石板に指を滑らせた。

 淡い光が浮かび、文字が浮かび上がる。


「はい、登録は“暫定階層外所属”として処理いたします。ティレーンでは、身分より行動が評価されますから安心してください」


 そう言って、彼女は薄い金属板を二枚取り出した。


 掌に収まるほどのカード。

 中央には歯車の刻印、その縁には小さな術式陣が刻まれている。


「こちらが攻略者登録証です。お二人の魔力を少しだけ流してみてください」


 ラグナが手を添えると、板の紋が淡く青く光った。

 次の瞬間、ドクン、と心臓が跳ねた。

 金属板を通じて、ギルド全体の魔力回路――壁の中を走る膨大な光の脈動が、一気に自分の中へ流れ込んでくるような錯覚。


(っ……!?)


 ラグナは慌てて手を離しかけたが、なんとか踏みとどまる。

 胸の《銀の箱》が微かに熱い。

 このカードもまた、旧文明のシステムに繋がる鍵の一つなのだ。


「はい、問題ありません。これで正式に《攻略者》登録完了です」


 ぱちりと笑みを添えて、女性は続けた。

 彼女はラグナの動揺には気づいていないようだった。


「お二人の等級は“見習い等級(E級)”。依頼の受注は右側の掲示板から、報告はこのカウンターで。宿がまだでしたら、ギルド併設の宿泊区も利用できます」

「ありがとうございます」


 セラが丁寧に頭を下げると、受付嬢は少しだけ声を落とした。


「――初めてなら、焦らずに。空の下は綺麗だけど、地の底は想像よりずっと深いですから」


 その言葉に、ラグナは一瞬だけ目を見開いた。

 優しい笑みの裏に、わずかな警告が滲んでいる。

 受付嬢の瞳は、数えきれない“帰らなかった者”を見送ってきた目だった。

 言葉の余韻が、他のざわめきより深く胸の底に沈んでいく。


 登録を終えたラグナたちは、掲示板の前に立った。

 並ぶ依頼札には、「素材採集」「討伐」「護衛」「搬送」などの文字が並んでいる。

 札を止める釘が金属の光を反射し、どの依頼もそれぞれの生計を映していた。


「どれも……命懸けなんですね」


 セラが小さく呟く。


「だからこそ、報酬も高いのよ」


 リャナが腕を組む。


「まずは軽い採集依頼から慣れなさい。ティレーンじゃ、実績が信用になる。――口じゃなく、結果で示すの」


 ラグナは頷いた。

 ギルドのざわめきの中に、少しだけ自分の鼓動が混ざる。

 霧の中で感じた閉塞感とは違う。

 ここでは、風が前へと吹いていた。


 背後で鐘が鳴る。

 新しい便の到着を告げる音――風が吹き抜け、香草の匂いが流れ込む。


 セラが振り向いた。


「これが、次の一歩」

「うん。ここから、始めよう」


 ラグナは静かに頷いた。

 掌の金属板が、微かに温かい。

 その熱は、ただの登録証ではなく、“生きて進む”という誓いのように感じられた。


 ギルドを出ると、夕陽が街を照らしていた。

 風に染まる帆布が橙に輝き、空を渡る飛行船の影が長く伸びている。

 《ティレーン》の喧騒は相変わらずだが、ラグナの胸には確かな静けさがあった。


 ――霧の外にも、灯はある。

 その灯を追って、彼らは歩き出す。



――――――



 夜の風が、窓の縁を撫でていく。


 宿の部屋は、拳ほどの灯光石がひとつあるだけの狭い空間だった。

 寝台、木机、洗面鉢。

 壁には金属の継ぎ目が走り、薄い板越しに酒場のざわめきが微かに響く。

 それでも、霧の外の夜はどこか心地よかった。


 風の音がある。空の匂いがある。

 《ミストモス》では決して聞けなかった音が、途切れずに流れていた。


 机の上には、ミストモスで受け取った小袋と紙包み。

 包みを指先で押さえると、乾いた音がした。

 ――あの丸薬。

 ロムばぁが最後に渡してくれたものだ。


 記憶が、静かに蘇る。


――――――


 出発の前日。

 霧の街の夕暮れは、橙と青が混ざり合っていた。


 ロムばぁの薬工房。

 棚には瓶が並び、霧草を煮る匂いが立ちこめている。

 壁際の炉では霧苔の煎液が泡立ち、木杓子がゆっくりとかき混ぜられていた。


「本当に、外へ行くんだねぇ」


 湯気の向こうで、ロムばぁが振り返る。

 背は小さく、髪は雪のように白い。

 けれどその瞳は、誰よりも強く澄んでいた。


「うん。……長老たちも、反対はしてないって」

「そうかい。なら、せいぜい死なんようにするこった」


 いつもの調子で笑いながら、ロムばぁは霧苔茶の湯を注ぐ。

 湯気に混ざる香りは、少しだけ薬草の苦味を帯びていた。


「ねぇロムばぁ」

「ん?」

「俺の……背中の、この印。最初に見た時、驚いてたよね」


 ラグナが言うと、ロムばぁは茶を置いて、ふっと目を細めた。


「驚いたさ。昔、似たような紋を本で見たことがある。“転移式紋章”って名前だった。もう誰も使えない古い術式だよ」

「……母さんが、それを使って、そして俺は……ここに」


 ラグナは静かに呟いた。

 ロムばぁは黙って頷き、しばらく火の音だけが続いた。


「けどね、ラグナ。その印を見た時、もうひとつ思い出したことがあるんだ」

「思い出した?」

「その本の中に、“共鳴”って言葉があったのさ。奇妙な話でね……」


 ロムばぁは、棚から古びた帳面を取り出した。

 革の表紙はひび割れ、文字の半分は掠れている。


「人の中には、術式の“音”を拾いすぎる奴がいるんだと。

魔力の流れとか、迷宮のざわめきとか……普通は感じないものを感じてしまう。それを“共鳴”って書いてあった」

「……俺が“共鳴”」

「おそらくね」


 ロムばぁは、深く頷いた。


「初めてあんたを迎えた夜、霧がざわめいた。結界塔の術式が、まるであんたの呼吸に合わせて脈打ってた。あれは普通じゃない。……けど、悪いことでもないよ」

「悪くない?」

「うん。問題は“強すぎる”ことだ。世界の音に耳を澄ましすぎると、自分の声がどこかへ消えちまう」


 ロムばぁは茶をひと口飲み、少しだけ視線を逸らす。


「だから、あんたの茶には薬を混ぜてたんだ。共鳴を抑える薬。――昔の書物に、そう書いてあった」


 ラグナは目を見開いた。

 今まで感じていた、あの独特の苦味の理由が、ようやく繋がった。


「……俺、気づかなかった」

「気づかないようにしてたんだよ」


 ロムばぁは肩をすくめた。


「でも、外へ出るなら、もう自分で加減しなきゃいけない」


 そう言って、机の上に小さな布包みを置いた。

 中には、青白い丸薬が三粒。

 手のひらに乗せると、冷たくて、どこか光を吸い込むような感触がした。


「これを持っていきな。強い頭痛とか、光が眩しすぎる時に飲むんだ」

「……また苦いの?」

「地獄のように苦いさ。でも、命よりはましだろ」


 ラグナは苦笑する。

 ロムばぁも一緒に笑い、すぐに真顔へ戻った。


「ラグナ。あの襲撃の夜、あんた、誰かの声を聞いたろう?」


 その言葉に、ラグナの表情が固まる。

 霧の奥で響いた、あの“声”。

 確かに聞こえた――だが、誰のものかは分からなかった。


「……聞いた。母さんの声と、それに無機質な声で」


 ロムばぁは、しばらく考え込むように目を伏せた。


「その声は、おそらくあんたの共鳴が拾った“残響”だろう。迷宮は生き物みたいなもんさ。記憶も、声も、どこかに溜まってる。けど――聞こえたからって、選ぶ権利まで渡しちゃいけない。自分の足で選びな。あんたの母さんも、きっとそう願ってるよ」


 ラグナはその言葉に、何も返せなかった。

 ただ、胸の奥で何かが温かくほどけていくのを感じていた。

 丸薬は、迷いの底に沈む“自分の声”を掬い上げるための、小さな重りのように思えた。


――――――


 風の音が、現実へと戻す。


 ラグナはそっと目を開けた。

 灯光石の光が、紙包みの上で揺れている。

 中には、あの青白い丸薬。

 ロムばぁの皺だらけの手の温もりが、まだ残っている気がした。


 窓を開けると、夜空が広がった。

 霧のない空は、深く、静かで、星が刺すように光っている。

 風が吹き抜け、微かに潮と金属の匂いを運んできた。


「……ロムばぁ。俺、ちゃんと聞き分けられるかな」


 誰にともなく呟いて、丸薬を掌で包む。

 その冷たさは、まだ知らぬ“外の音”のようだった。


 やがて灯光石を落とすと、部屋は闇に沈む。

 風の音と、遠くの鐘の音だけが残る。

 ラグナは目を閉じ、その音の中に――微かな“声の残響”を探した。

 聞き分けようとするほどに、世界の音が静かに重なっていくようだった。



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