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第84話 荷を減らして運搬力に余力を残す

「動け! この役立たずの駄獣め、ここで立ち止まったら後ろがつかえるだろうが!」


 カルドゥコイの険しい山腹に、兵の怒号と鞭の音が響き渡る。

 だが、限界を超えた驢馬は、泥に前足を突っ込んだまま白目を剥き、口から泡を吹いて倒れ伏していた。荷は完全に道を塞ぎ、後続の隊列がまたしても停止を余儀なくされる。

 捕虜の尋問により、別路の存在と前方のさらなる険路が判明したばかりだというのに、本隊の進行はすでに致命的なほど遅滞していた。


「主計殿、もう誤魔化しがきかねえぞ」


 バウコスが倒れた驢馬の首に手を当て、首を横に振った。

「こいつはもう立ち上がれねえ。それに、この先の傾斜を見ろ。一人引きの荷車でも、結局車輪付きの荷車じゃ、どのみちこれ以上は進めねえ。荷を解いて、人の背で担ぐしかない」


 レオンは泥に塗れた帳面を開き、ざっと『勘定ロギスモス』を弾いた。

 (車輪を捨てるのは避けられない。だが、荷車の積載量をすべて兵の肩に分散させれば、一人あたりの負担は跳ね上がる。足が死ぬ。足が死ねば、部隊はここで瓦解する)


「おい、冗談じゃねえぞ!」

 前方が詰まったことで苛立っていた重装歩兵ホプリタイの一人が、血走った目でバウコスに食ってかかった。百人隊長カレスの隊の男だ。

「車が使えないなら、俺たちの荷物はどうなる! この村で手に入れた予備の外套や、青銅の鉢はどうやって運ぶんだ!」

「知るか! んな重てえ鉄屑、谷底にでも放り投げていけ!」

「ふざけるな、これは俺たちの正当な取り分だ! お前ら荷駄引きがサボってるからこんなことになるんだろうが!」


 男がバウコスの胸ぐらを掴み、周囲の軽装歩兵たちも色めき立って武器に手をかける。

 軍の秩序が、恐怖と疲労によって内側から崩れようとしていた。


「そこまでです。手を離しなさい」


 レオンは二人の間に割って入った。ダフネが音もなくレオンの斜め前に立ち、いつでも腰の短剣を抜けるように重心を低く落とす。


「主計殿。あんたからも言ってくれ。俺たちの荷を運ばせるのが、こいつらの仕事だろうが」

「ええ、そうです。ですが、背負える重さには物理的な限界がある。現在、軍の保有する駄獣は昨日の三割減。対して、前方の傾斜は三割増しです」


 レオンは兵士の目を真っ直ぐに見据え、淡々と事実を告げた。


「これより、三度(みたび)、軍の全荷物を見直します。優先するのは、水、最低限の食糧、包帯布、そして武器だけです。あと山岳準備で、捨てたはずの青銅器がまた増えてることは問いませんが、各々が村から徴発した青銅器、不要な私物、および過剰な予備の外套は、すべてこの場で破棄します。谷底へ投げ捨ててください」


 一瞬の静寂の後、爆発するような抗議の声が上がった。

「正気か! これからどんどん冷え込むってのに、予備の布を捨てろだと!?」

「それに青銅器は、後で売れば金になるんだぞ! それを捨てるなんてありえねえ!」

「こんなところで、んなことやってたらいい的だ! 殺す気か!」


 兵たちが一歩前に出る。ダフネが微かに刃を鳴らした。

 (無理もない。彼らにとって、それは命の次に重い『報酬』であり『安心』だ。だが、その安心の重さが、彼ら自身の首を絞めている)


「わかってください」

 レオンは声を張らず、しかし底冷えのするような声で言った。

「仮にあなたたちが青銅器を…重い荷を背負って登れば、足が潰れます。足が潰れれば、隊列から遅れる。遅れた者は、後衛から容赦なく切り捨てられます。……僕は『荷』を守るためにあなた方を殺すわけにはいかない。僕は、あなた方の『足』を残すために、荷を捨てると言っているんです」


 言い切った瞬間、兵たちの顔から温度が消えた。

 筋は通ってる。だが、理屈が通ったからこそ、彼らはレオンを憎むしかなかった。


 捨てろ、と命じる声は、自分が思っていたより冷たかった。


「理屈なんぞ知るか!俺は絶対に捨てねえぞ!」

 男が頑なに私物袋を抱え込んだその時、横から伸びてきた分厚い手が、その袋の革紐を無造作に掴んだ。


「ごちゃごちゃ言ってねえで、主計殿の言う通りにしろ」


 ミュロンだった。彼は腰の短剣を抜くや否や、男が抱えていた袋の紐を一太刀で切り裂いた。

「ああっ!」

「やかましい。お前が重い荷物抱えて足引っ張ったら、後ろにいる俺たちが石の的になるんだよ。

 あとな、俺たちは食いもん優先で持つ。テメェらのくだらねェ私物なんぞ知らんからな

 ……主計殿が『捨てろ』って言ってんだ。さっさと谷底へ投げやがれ!

 それからな!

 そろそろ、覚えやがれ!

 この坊ちゃんは、もう兵站監代なんだ。

 フィロンの旦那の代理だぞ?」


 ミュロンの凄みのある声と、突きつけられた刃の前に、男は唇を震わせながら引き下がった。

 (乱暴だが、これでなんとかなった。ミュロンのその現場の言葉がなければ、僕の計算はただの空論で終わってしまう)

 「坊ちゃんよ、うちからも何人か荷物持ちに出すが、

 それでも食料は全員で持つことになるのか?」

 レオンは短く息を吐き、ミュロンに小さく頷き返した。


「バウコス。残った機材のうちここから使えなくなるものを解体して下さい。木材は薪の足しにします。残す荷は兵の背に割り振ってください」


 レオンの冷徹な指示のもと、荷駄の解体と選別が強制的に進められた。

 今までとの違いは、完全に強制だった事だ。

 隠したものも容赦なく引っ張り出して、捨てられた。

 空になった革袋、重い青銅の鍋、過剰な予備の外套が、次々と暗い谷底へと放り投げられていく。金属が岩肌にぶつかりながら落ちていく虚しい音が、何度も響いた。

 身軽になった部隊の移動速度は、確かに目に見えて戻り始めた。止まっていた隊列が、再び山道を這い上がり始める。


 だが、その対価は安くなかった。

 兵たちがレオンに向ける視線には、明らかな恨みと冷たさが混じっていた。「あいつのせいで財産を捨てらされた」。その無言の非難が、歩を進めるごとにレオンの背中に突き刺さる。


「……気にしないことね」


 並んで歩くダフネが、前を向いたままぽつりと言った。そして、自分の腰から外した水袋を、無言でレオンの胸に押し付ける。

「飲んで。頭と心を使いすぎると喉が渇く」

「……ええ。ありがとうございます」


 レオンは水袋を受け取り、喉を潤した。今回はとっておきのの方の水袋だった。

 (彼女が隣に立ってくれているだけで、この恨みを受け止めるだけの息ができる)


 部隊が険しい九十九折りを登り切り、ようやく山の稜線に差し掛かろうとした時だった。

 不意に、谷底から吹き上げてくる風の温度が変わった。

 これまでの湿った土の匂いを含んだ風ではない。刃物のように鋭く、肺を直接凍りつかせるような、刺すような冷気だ。


「おい……うそだろ……」


 先頭を歩いていた兵の、絶望に満ちた声が響く。

 レオンが視線を上げると、遠く連なる山々の頂が、本来の岩の色を失い、異様な白さに覆われているのが見えた。


 雪だ。


 この険しい山地戦すら、まだ序の口だったと告げるかのように、純白の死の世界が彼らの行く手を静かに、そして冷酷に待ち構えていた。

 レオンは、先ほど捨てさせた「予備の外套」のことを思い出し、胃の奥が冷たく縮み上がるのを感じた。

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