第85話 谷向こうの敵、届かない槍…華麗なる…
雪の気配を含んだ風が、切り立った岩肌を撫でていく。
急な登りを終え、ようやく少しばかり開けた岩棚に出た隊列の先頭が、不自然な形でピタリと止まっていた。
レオンが後方から重い足を引きずって前衛に追いつくと、そこには絶望的な地形が広がっていた。
深く抉れたV字の谷。その対岸の斜面に、無数のカルドゥコイ人たちが張り付いている。
彼らは岩の陰や藪の中に身を隠し、弓に矢をつがえ、投石紐を振り回しながら、こちらの動きをじっと待ち構えていた。
「距離がありすぎる! これじゃあ俺たちの矢も槍も届かねえ!」
重装歩兵の百人隊長カレスが、腹立たしげに谷に向かって投槍を放ったが、槍は放物線を描いて谷底の虚空へ吸い込まれていった。
試し矢も同様だった。
対して、敵が放つ長い矢は、不気味な風切り音を伴って確実にこちら側の岩棚に突き刺さる。石弾がパラパラと降ってきて、前列の兵たちが慌てて盾を掲げた。
(またこれか)
レオンは岩の陰に身を隠しながら、乾いた唇を舐めた。
こちらの攻撃は届かず、相手だけが一方的にこちらを削ってくる状況。谷を越えて向こう側へ取りつくには、遮蔽物のない下りと登りを強いられる。その間に、部隊は雨あられと降る石と矢の的になる。
「全軍で一気に谷を駆け下りて、対岸へ取りつくしかねえ! ここでじっとしていてもジリ貧だ!」
カレスが血気にはやって怒鳴る。彼の部下の重装歩兵たちも、見えない位置からチクチクと削られることに苛立ちを募らせ、武器を打ち鳴らして同調した。
「待ってくださいカレス殿。この谷幅と高低差を、重い鎧を着て駆け抜けられると本気で思っているんですか」
レオンは思わず声を上げた。
「敵は我々が谷底に集まるのを待っています。あそこに降りれば、上からの石で後衛までまとめて潰される。突撃ではなく、ただの自殺です」
「じゃあどうしろって言うんだ! 俺たちにここで黙って石に頭を割られろってのか! 戦わずして縮み上がるのは臆病者のやることだ!」
(臆病、か。勇敢な兵士という生き物は、血を流すことよりも名誉を傷つけられることを嫌う。でも名誉で腹は膨れないし、頭の割れた死体は歩かない)
レオンが内心で毒づいたその時、背後から落ち着いた声が響いた。
「兵站監代理の言う通りだ。正面から抜ければ、この軍は谷底で半分になる」
クセノポンだった。彼は馬を降り、前衛の責任者であるケイリソポスと共に歩み寄ってきた。
クセノポンは泥の地面にしゃがみ込むと、小枝を拾って即席の地図を描き始めた。
「見たまえ、ここが我々のいる岩棚。対岸が敵だ」
クセノポンは枝で線を二本引き、その間に石を一つ置いた。
「敵の狙いは、我々をこの谷底へ誘い込むことだ。まともに付き合う必要はない。……別路を探す」
「別路だと?」カレスが不満げに声を荒げる。「そんな都合のいい道がこの山中にあるのかよ。それに、戦わずに迂回するなんて……逃げるみたいじゃねえか!」
カレスの言葉に、周囲の兵たちから同調の呟きが漏れる。彼らにとって、敵を前にして横道へ逸れることは、戦士としての矜持が許さないのだ。だが、その「名誉」が実務の破綻を招くことを、レオンは痛いほど知っていた。
「逃げるのではありません。『躱す』のです」
レオンは一歩前に出て、クセノポンが描いた地面の図の横に、もう一つ石を置いた。
「カレス殿。正面突破で五百の傷つき自分の足でうごけなくなったとしましょう。その五百人を誰が運ぶのです? 荷駄獣はもう限界です。あなたの部隊が、自分たちの荷物に加えて、動けない負傷者を担いでこの先の雪山を登れますか?」
カレスが言葉に詰まる。
「クセノポン将軍」レオンはクセノポンに向き直った。「別路を取った場合、ここを抜けるための日数はどれほど延びるとお考えですか」
「案内人次第だが、半日から一日というところだろう」クセノポンは答えた。
「一日ですね」レオンは手元の帳面を開いた。
「昨日の軽量化で予備の荷を捨てたため、現在の食糧備蓄はぎりぎりです。ですが、一日であれば、毎食の粥を少し薄めることで持ちこたえられます。……正面突破で怪我人を出して足手まといを増やすより、腹を減らしてでも安全な道を迂回する方が、軍の『都合』に合致しています」
クセノポンは、レオンの顔をじっと見つめた。
英雄的な戦術論ではない。水と食糧と足の数という、冷徹な実務の数字による裏付け。
「……そうだな。君の言う通りだ」クセノポンは短く同意した。二人の間に、主従ではない、同じ現実を見ている者同士の奇妙な噛み合いが生まれていた。
「おい、カレス。主計殿の勘定が聞こえなかったか」
ミュロンが、槍を肩に担いだまま横から口を挟んだ。
「名誉のために谷底で死ぬか、粥を薄めて明日も歩くかだ。……俺は頭を割られるより、腹が減る方がマシだな」
ミュロンの乱暴だが的を射た現場の翻訳に、カレスたち重装歩兵もようやく矛を収めた。彼らの顔には「戦わずに逃げた」という不満がありありと残っていたが、反論の余地はなかった。
「ケイリソポス殿、いかがでしょう」クセノポンが問う。
「行くぞ。無駄な血は流さん」ケイリソポスは短く切り捨てた。
「だが、その別路とやらはどこにある?」
「先日新たに後衛が捕らえたカルドゥコイ人の捕虜がいます」クセノポンが言った。
「彼らに口を割らせます」
やがて、縄で縛られた二人の捕虜が引き出された。
彼らは頑なに口を閉ざしていたが、脅しと交渉の末、一人がついに別路の存在を白状した。
谷を大きく迂回し、高みを取って敵の背後に回れる細い山道があるという。
別路を取るという合意が形成され、レオンはわずかに肩の力を抜いた。
谷底へ降りるはずだった五百人が、まだ残っている。
失われるかもしれない命が残った。それだけで十分だった。
ダフネは谷の向こうを見ていた。
「これで終わりじゃないでしょ」
「これで終わりじゃないです。
この谷を迂回できても、山はまだ続きます」
その時、捕虜を尋問していたクセノポンたちの顔色が険しくなるのが見えた。
レオンが歩み寄ると、通訳を介して捕虜が語る言葉が耳に入ってきた。
「……この別路を抜けた先、カルドゥコイの山地が終わる場所に、さらに大きな峠があるそうです」
クセノポンが、重苦しい声でレオンたちに告げた。
「その峠には、アルメニア西部の総督、ティリバゾス本人の軍勢が待ち構えていると」
ティリバゾス。王弟討伐の軍に対し、王側が用意した正規の軍勢だ。
谷を抜けても、安全な平野が待っているわけではない。凍えるような冷気が、再びレオンの頬を撫でた。
遠くに見える山頂の白さは、雪だ。
腹を減らし、迂回して山を登り切った先で、彼らを待っているのは、万全の態勢を整えた敵の正規軍と、容赦のない冬の寒さだった。
レオンは水袋の口を硬く締め直し、再び重い帳面を開いた。
(また計算のやり直しだ。ティリバゾスの峠に着くまでに、どれだけの足と熱を残せるか)
絶望している暇はない。レオンの指先は、次の痛みをどう分配するかを求めて、すでに動き始めていた。




