第86話 雪に入る前の最後の豊かさ
「ようやく、地獄から抜け出せたな!」
カレスの太い声が、村の広場に響き渡った。重装歩兵たちが次々と重い盾や兜を脱ぎ捨て、安堵の息を吐き出しながら地面にへたり込む。
カルドゥコイの陰惨な山地を抜け、彼らはアルメニアの入り口にあたる広大な村に辿り着いていた。
家々は堅牢な石造りで、中には豊かな麦や豆の袋、さらには干し肉や果実までが豊富に貯蔵されていた。何より兵たちを喜ばせたのは、雨露を凌げる屋根と、各家の納屋に山と積まれた「乾いた薪」だった。
「おい、火を熾せ! 今日は腹いっぱい食えるぞ!」
あちこちのかまどから勢いよく煙が立ち上り、間もなく鍋が煮立つ芳醇な匂いが漂い始めた。
連日の山地戦、見えない投石の恐怖、切り詰めた配給。それらの重圧から解放された兵たちの顔には、久方ぶりの平穏な笑みが浮かんでいる。
誰もが、「これで助かった」と勘違いしていた。
だが、レオン・カルディアスの眼には、広場で談笑する兵たちの姿よりも、村の向こうにそびえる稜線が不気味に映っていた。
先刻の捕虜の尋問で判明した「ティリバゾスの軍勢が待ち構える峠」。そして、その頂きを不気味に覆う白い影──雪だ。
(ここで気を緩めれば、確実に死ぬ。消耗した身体が一度でも温もりに浸りきってしまえば、次にあの凍える風に晒されたとき、足は二度と動かなくなる)
「テオドルス」レオンは、かまどの火に見入っていた従者を呼んだ。
「食うのは後です。各隊を回って、使い古した布や余った皮紐を集めさせてください。適当な大きさに裂いて、いつでも足に巻けるように束ねておくんです。それから、乾いた薪も。手持ちの荷袋に入るだけ詰め込ませなさい」
「えっ……布を裂く? 薪を背負うんですか? いまから?ですか…
主計殿、せっかく屋根のある村に着いたのに……」
テオドルスは恨めしそうにレオンを見た。
「あの山を見てください。この先は岩じゃない。雪と氷を踏んで歩くことになるんです。足先の感覚が消えれば、凍傷で足指がもげるか腐り落ちる。火床を作る乾いた薪がなければ、夜を越せずに死ぬ。……これは勘定の問題です。今、温かいからといって、明日の冷たさを忘れてはいけない」
レオンは半ば強制的にテオドルスを走らせ、自身も余剰の麻布を引き裂き始めた。
「主計殿、今日くらいいいじゃないですか。俺たち、もうクタクタですよ」
火番のカリアスが、温かい汁の入った木椀を抱えながら不平を漏らす。
「明日、その木椀を持つ指を切り落としたくなければ、手を動かしてください。あなたの指だけじゃない。仲間たちの手足を切り落とすことになります」
レオンの冷たい返答に、カリアスは肩をすくめて布を裂く作業を手伝い始めた。
(嫌な役回りだ)
温かい粥の匂いがしている。
屋根があり、火があり、兵たちはようやく笑いかけている。
その手から休息を取り上げて、まだぬくもってもいない身体を雪へ向けさせる。
自分の声が、ひどく冷たく聞こえた。
作業の手を休めず周囲を見渡したとき、レオンは壁際で不自然にうずくまる影を見つけた。
ダフネだった。
いつもなら、レオンの周囲を油断なく見張り、何かあればすぐに辛口の言葉を投げかけてくる彼女が、石壁に背を預け、目を閉じて動かない。手には短剣を握りしめたままだが、その呼吸は浅く、早い。
連日の山地戦。姿なき敵からの投石と矢雨の中、彼女は常にレオンを庇う位置に立ち続けていた。その張り詰めた警戒の糸が、この村の温かさに触れて、一瞬だけ緩んでしまったのだろう。彼女もまた、血の通った人間であり、極限まで疲弊しきっていたのだ。
レオンは立ち上がり、かまどの火から下ろしたばかりの、温かい粥を注いだ木椀を手にした。
静かに近づき、彼女の目の前で膝をつく。
「ダフネ」
名前を呼ばれ、ダフネは弾かれたように目を開けた。条件反射で短剣を構えようとするが、目の前にいるのがレオンだとわかると、わずかに強張った肩の力を抜いた。
「……何」
「飲んでください。少し休まないと、あなたの方が倒れてしまう」
レオンは木椀を差し出した。
これまで、彼が心身ともに追い詰められたとき、無言で水袋や火口を押し付けてくれたのは常にダフネだった。レオンから彼女に何かを差し出すのは、これが初めてのことだった。
ダフネは一瞬、戸惑ったようにレオンの顔と木椀を交互に見つめ、やがて無言でそれを受け取った。
「……ありがとう」
消え入るような小さな声。彼女は木椀に口をつけ、ゆっくりと喉を鳴らした。その横顔を見て、レオンの胸の奥に、安堵とは違う、奇妙な焦燥感が広がっていく。
(この温かい場所ほど、後で失ったときに恋しくなる。この仮の安堵に慣れてしまえば、次に待ち受ける現実がより残酷に感じられるだろう)
「坊ちゃん。薪と布の準備は終わらせたぞ。連中、ブーブー文句言ってやがったがな」
槍を肩に担いだミュロンが歩み寄ってくる。彼の顔にも深い疲労が刻まれていたが、その眼光だけは鋭さを失っていなかった。
「ミュロン殿、ありがとうございます」
そのとき、村の入り口付近から馬の蹄の音が響き、慌ただしい空気が流れ込んできた。
前衛の指揮所から、クセノポンとケイリソポスが足早に歩み寄ってくる。その顔には、先ほどまでの休息の気配は微塵もなかった。
「休息はここまでだ。レオン殿、各隊の出立準備はできているか」
クセノポンが、端的な言葉で切り出した。
「今しがた、薪と防寒用の布を持たせました。ですが、兵たちはまだ到着したばかりです。一晩も明かさずに出発するおつもりですか」
「悠長に休んでいる暇はない」
ケイリソポスが厳しい声で引き取った。
「捕虜への尋問で詳細が判明した。ティリバゾスは、この先にある峠の出口で我々を待ち伏せている。奴らが布陣を完全に終える前、そして……」
ケイリソポスは、村の向こうにそびえる雪山を見据えた。
「本格的な吹雪になる前に、あの峠を抜けねばならない。はやければ明日になれば、あの山は雪に閉ざされる。そうなれば、戦う前に我々は全滅だ。今夜のうちに急行し、高所を奪取する」
その言葉に、周囲で粥をすすっていた兵たちの動きが止まった。
「嘘だろ……」
「ここで寝させてくれよ……」という絶望と怨嗟の声が、あちこちから漏れ始める。
だが、軍事指揮官の決定は覆らない。
結果として、レオンが兵たちの不満を買いながらも進めさせていた「布と薪の確保」が、この夜間急行を可能にする唯一の生存線となった。彼の実務がなければ、軍は雪山へ足を踏み入れることすらできなかった。
「全軍、荷をまとめろ! 火を消せ! 出立する!」
トルミデスの号令が、村の温かい空気を容赦なく切り裂いた。
ダフネが立ち上がり、空になった木椀をレオンに返した。彼女の瞳には、すでにいつもの鋭い光が戻っている。
兵たちは恨めしそうにレオンや将軍たちを睨みながら、温かい火床に雪と泥をかけて消していく。
背後に残された仮初の平穏を捨て、一万の軍勢は再び暗闇の中へと歩みを進める。
吹き付けてくる風は、明らかに先ほどよりも冷たく、そして刃のように鋭かった。
レオンは冷え始めた革紐を握りしめ、これから始まる「冷気と疲労との削り合い」に向けて、重い一歩を踏み出した。




