表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
102/149

第87話 ティリバゾスの峠

 出立の準備を始めた頃、そしてまだ村の土間に温かい粥の匂いがまだ燻っているうちから、嫌な報せは転がり込んできた。

 捕らえられた男は腕を後ろに縛り上げられ、雪に濡れた膝を冷たい土間につけていた。ペルシア式の弓と矢筒を持っていたというその男から、人相の悪いギリシア兵が、片刃の小さな斧を奪い取って壁際へ放る。斧の刃から溶けた雪が一筋、黒い土へと滴り落ちた。

 男は最初こそ頑なに口を閉ざしていたが、どこかの分隊長が無言で剣の柄に手を置くと、あっさりと顔色を変えた。ミュロンほどではないが、歴戦の…つまりかなり人相の悪い分隊長だ。

 脅しというものは、言葉が多いほど安っぽくなる。あの古参は、そのあたりの機微を嫌になるほど熟知していそうだ。


「ティリバゾスの兵だそうです」


 通訳の声が、狭い土間の中で妙に大きく響いた。

 レオンは手元の蠟板から顔を上げた。ティリバゾス。王側の有力なサトラップであり、少し前までこちらに手を出さない代わりに家を焼くな、と話をまとめたばかりの男だ。

「数は」

 ケイリソポスが問う。声は低く、怒りすら滲んでいない。ただ次の一手を打つための、すぐ使える形の情報だけを求める声だった。

「本人の手勢に、山の傭兵が混じると」

「場所」

「前方の高い峠です。そこが唯一の細い通り道であり、そこで待つ、と言っています」

 土間の中が水を打ったように静まり返った。

「やっぱり、早いな…くそ、ま、動くことは決めてたんだ…最悪よりはマシか」

 その言葉は、食糧が足りないという報告よりもさらに悪い。足りないものは減らして配分すれば済む。だが道が一つしかなく、そこを塞がれたとなれば、配る相手ごと行軍が止まるのだ。

 レオンは蠟板に刻んでいた村ごとの麦袋の数に目を落とした。乾いた薪、裂いた布、塩漬け肉、予備の火口。昨日までなら命を繋ぐ宝に見えた品々が、急にただの重りへと変わっていく。

 持っていけば足が遅くなる。かといって捨てれば、峠の向こうで凍え死ぬ。


「主計殿」

 ケイリソポスの鋭い声がレオンを射抜いた。


 ダフのと一緒に少し離れた位置から見守っていた自分が呼ばれると思っていなかったので、返事が一息遅れた。

「はい」

「最短で行こう。必要な荷は何だ」

 長々とした説明など求められていない。ただ、前衛が突破するために後ろが何を持つべきか、その事実だけを問われている。


 レオンは小さく喉を鳴らした。怖い。怖いが、怖がっている時間すらなかった。

「火口、包帯、乾いた布、水袋、軽い食糧です。麦袋は半分。鍋は各隊ひとつまで。防寒具用にとってある天幕布も置いてください。重い酒壺も不要です」

「酒まで切るのかよ」


 誰かが低くうめいた。だがレオンはそちらへ視線を向けなかった。見れば、感情に絆されて言葉が鈍ってしまう、今は心を鬼にしないといけない。


「峠を取れなければ、飲む場所がありません、どこかで諦めてぶち撒ける…いや、ギリギリまで持って行って一口だけ飲ませますか?

 喉は余計に乾くかもしれませんが…」

 我ながらひどい言い草だと思った。けれど、その理屈は通った。


 ケイリソポスは短く頷いた。

「それで行く」

 そのたった一言で、村の空気が切り替わった。

 クセノポンがすぐに将軍たちへ向き直り、兵の集め方を整え始める。誰を先に走らせ、誰を残し、誰が荷をまとめるか。言葉は大きいが、余計な飾りはない。人は、何をすればよいか分かる言葉にだけ従う。

 レオンは蠟板を持ったまま立ち上がった。

「テオドルス、火口袋の印を替えてください。赤紐が急行隊、黒紐が残留です。包帯は半分を前へ。傷治師の刃は二組だけ。残りは村に置く荷へ」

「は、はい」

 テオドルスの手が微かに震えていたが、それでもすぐに記録と伝票控えの整理へ動いた。それで十分だった。


「ミュロン、荷駄の前から三分の一を外します。足の早い駄獣だけを前へ」

「今度は獣まで選別か」

「選ばないと、道で止まります」

「分かってる。愚痴くらいいわせろ」

 言い方は非常に乱雑だが、そこに反論の意志はない。ミュロンは外へ出るなり、怒声で場を制圧した。

「荷を下ろせ! 紐を切れ。鍋を捨てろ。酒壺を割るな、置け。革袋は空でも持て。寝床の布を惜しむな、革紐使って足に巻け!」

 レオンの弾き出した冷たい数字は、ミュロンの喉を通ることで、兵が実際に動くための生きた言葉へと翻訳された。それが少し悔しい。だが、今はその手腕へのありがたさの方が勝っていた。自分の声だけでは、あの人数は動かせない。

 村の広場は、たちまち怒鳴り声と雑踏で満ちた。兵たちは干し肉を口に押し込み、外套の紐を締め直し、余分な荷を容赦なく土の上へ放り出していく。鍋が転がり、木椀が踏まれ、予備のサンダルが泥に埋まった。

主計殿(レオン)、顔がひどい」

 隣に来たダフネが、無言で水袋を差し出した。

「いつもより、ですか」

「少し」

 そこに甘い慰めはない。なのに、なぜか少しだけ呼吸が楽になる。

 レオンは水を一口だけ飲んだ。

「あなたの分でしょう」

「飲んで」

 有無を言わせぬ短い命令だった。レオンはもう一口だけ喉を潤し、水袋を返した。ダフネはそれを受け取ると、自分では口をつけず、そのまま腰へ戻した。

「あなたは飲んでいませんね」

「走りながら飲む」

「そんな器用なことを」

「あんたよりはできる、これでも兵隊稼業は長い」

 まったく救いになっていないのに、変に説得力があった。 角笛が鳴った。前衛が動き出す。

 雪はまだ深いというほどではなかった。だが山道の日陰には白い筋が残り、踏めば下の泥と混じってひどく足を取った。急行隊は軽装歩兵を先頭に、重装歩兵を続け、極限まで絞り込まれた荷がその後ろへついた。


 息が苦しい。胸の奥が焼けるようだ。


 それでも、止まることは許されない。止まれば後ろが詰まる。後ろが詰まれば、荷駄が止まる。荷駄が止まれば、村に置いてきた荷はただの財産ではなく、二度と取りに戻れない命になる。


 山腹を回り込むたび、先頭から短い声が返ってきた。

「通れる」

「狭い」

「右へ寄れ」

「石」

「伏せろ」。


 敵の姿はまだ見えない。見えないことが、かえって兵たちの足を速くさせていた。峠の手前で、ひと騒ぎが起きた。前へ出ていた軽装歩兵が敵の陣らしいものを見つけ、待ちきれずに駆け上がったのだ。遠くから喚声が弾け、盾を打つ音が山間にこだました。


「早い」

 レオンは思わず呟いた。早すぎる。重装歩兵が追いついていないし、荷も当然遅れている。勝手にぶつかれば、勝ち負け以前に隊列が裂けてしまう。

 クセノポンが前へ走った。ケイリソポスの命令が短く飛ぶ。

「止まるな。続け。広がるな」

 レオンは足をもつれさせながら、道の脇に崩れ落ちた兵を見た。若い男だった。荷を軽くしたはずなのに、顔が紙のように白い。

「立てますか」

「足が……」

 兵はそれだけを絞り出した。

 ダフネがしゃがみ込み、男の肩紐を掴んで強引に荷を引き剥がした。中から小さな酒壺と、布に包んだ干し肉が転がり出る。

「置いてけ」

「俺の分だ」

「歩けないなら、ダレの分もない」

 ダフネの声は低く、冷徹だった。

 レオンは雪に膝をつき、男の足紐へ手を伸ばした。生皮の靴が濡れて固くなり、足首をきつく締め付けている。指先にほんの少しだけ火を寄せた。戦闘には到底使えない微弱な熱だったが、凍りついた革紐の湿りを緩めるには十分だった。

 微かに指先が痺れる。たったこれだけのことで、情けないほど力が抜けた。

「荷は置いてください。足が生き残れば、今夜のメシは食えます」

「後で、って」

「今ここで座り込めば、後はありません」


 言外に死を告げる。


 兵は泣きそうな顔で、雪に落ちた干し肉を見た。ダフネがその布包みを半分だけ抜き取り、残りを男の胸元へ押し込んだ。

「行く」

 男はよろめきながら立ち上がった。たった一人、だが確実に生は繋がった。隊列に戻る。


 代わりに、酒壺と余分な荷が雪の縁に置き去りにされた。 峠の上では、戦いというほどのものは長く続かなかった。

 軽装歩兵の喚声を聞いた敵は、こちらの本隊がもう迫っていると見て悟ったのだろう。山の者たちは近くで押し合う泥臭い戦を好まなかった。白い斜面の向こうへ、人影が蜘蛛の子を散らすように消えていく。

 残されたのは、急ごしらえの囲いと、踏み荒らされた雪、それに火の消えた場所だけだった。

 馬が二十頭ほど捕らえられた。鞍のよいものもある。ティリバゾスの幕らしい天幕からは、銀の足をつけた寝台や杯、食器、召使いらしい者まで見つかった。

 兵たちの間に、勝った、という安堵の声が広がりかけた。

 レオンはその声を聞き流しながら、峠の向こうを見据えた。

 間に合ったのだ。

 もし一日遅ければ、前は敵、後ろは荷駄、足元は雪という最悪の状況になっていた。そこでは火も水も配給も、すべてがただの虚しい言葉になる。

 レオンは深く息を吐いた。胸の奥が痛い。けれど、その痛みの底に、ほんの少しだけ別の感情が淀んでいた。

 役に立った、と思ってしまった。

 なんとも始末が悪い。こういう感覚は、後で必ず次の重い責任を連れてくるのだ。

「主計殿」

 ケイリソポスが戻ってきた。

「荷は」

「後ろは遅れています。残した者もいます。すぐには揃いません」

「どれだけ待てる」

 問われるのは、勝ちの喜びなどではなく、次の行動までの時間だった。

 レオンは峠を吹き抜ける風を受けながら、指の痺れを手のひらに握り込んだ。

「長くは待てません。火床を作るなら、まず乾いた薪を探します。ここで全員を待つなら、凍え死ぬ者が出ます」

「なら、断固としてここを通る」

 ケイリソポスは一瞬の迷いも見せなかった。その決断の速さが、今は頼もしいというより恐ろしい。 後続が追いつくまでの間、レオンは奪った馬のうち使えるものを数え、軽い荷を乗せ替えさせた。足を痛めた兵を一人、馬の横へつける。杯や寝台に目を輝かせる兵を、ミュロンが容赦ない罵声で追い払った。

「銀の足で飯が炊けるか、馬鹿ども!」

 場末の…現場の言葉遣いだ。上品さとしては最悪だが、意味は正確につたわる。

 やがて、隊列は静かに峠を越え始めた。

 道の向こうで、景色が一変した。

 山肌の土色が消え、谷の底まで圧倒的な白が敷き詰められていた。遠くの斜面には、風で削られた雪が硬く光っている。村の湯気も、乾いた薪の匂いも、もう遠い背後に過ぎ去っていた。

 誰かが息を呑む音がした。

 レオンもまた、しばらく言葉が出なかった。

 峠は取った。けれどその向こうには、生身の敵よりずっと静かで残酷なものが待っていた。

 白い寒さが、音もなく軍の前に広がっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ