第88話 腰までの川
眼の前の川は、拍子抜けするほど静かだった。
ユーフラテス川と聞けば、レオンは王国の腹を真っ二つに裂くような巨大な濁流を想像していた。塔の地図でもそのように描かれていたからだ。だが山間にある上流の水は、幅こそあるものの荒れ狂ってはいなかった。白い岸辺の間を、底知れぬ青黒い帯のように音もなく滑り続けている。
それがかえって不気味だった。怒鳴り込んでくる敵なら兵も身構え、飛んでくる石や矢なら盾を上げる。だが、水は何も言わない。ただ徹底的に冷えて、そこにあるだけだ。
「腰までだ!」
先に入った軽装歩兵が対岸から叫んだ。
声が明るく聞こえたのは、胸まで浸かる深さではないし、足を取られて流されるほどでもない、と言いたいのだろう。
レオンは川縁に張った薄い氷を見下ろした。誰かの生皮の靴に踏まれて割れた氷片が、水際で微かな音を立てている。腰まで水があるということは、兵の腹と足を、この氷の浮く水に丸ごと漬け込むという意味に他ならなかった。
「水量は行ける」
ケイリソポスが短く断を下した。前衛を預かる指揮官としては、渡れるか渡れないかの二択さえ分かればそれで足りるのだ。
だが、問題は渡った『後』にある。
レオンは背後の荷駄の列を振り返った。濡れて重さを増す外套や革紐、生皮の靴。水袋は単なる重りへと変わり、麦袋は水を吸えば後でカビるだけの塊になる。もし火口が濡れれば、夜の火床が遅れ、それは直ちに凍死者の数に直結する。
「おい主計殿。水に入る前から顔面蒼白だぞ。泳げないのか」
横に立ったミュロンが、鼻で笑うように言った。
「水そのものが怖いわけじゃありません。僕が青ざめているのは、川から上がった『後』の被害見積もりが悲惨すぎるからです」
「ただ怯えてるよりは、珍しくまともな心配だな」
嫌味の形をしているが、そこにいつもの刺々しさはない。古参兵の眼もまた、川ではなくその先の被害を見据えている。
レオンは胸元の蠟板を取り出そうとして、やめた。ここで細かく計算を刻んだところで、凍えた指が動かなくなるだけだ。
「火口袋は濡れないよう革袋の内側へ。乾いた布は、先に渡る隊へ優先して持たせます。川を出たところで、すぐに足を拭かせてください。焚きつけの薪も後続ではなく、先頭に回します」
「飯より火か」
「先に火です。ずぶ濡れになった兵は、飯を食う前に震えで顎が外れます」
ミュロンは一度だけ目を細めた。
「聞いたな。先に火を回せ!」
彼は迷うことなく、すぐ後ろの列へ向かって怒鳴りつけた。
自分の理屈が疑われなかったことが、少し遅れて胸の奥を突いた。嬉しいわけではない。今はそんな柔らかい感情を広げる余裕などない。ただ、自分の判断が、そのまま大勢の兵を動かす現場の言葉に変わったという事実が重かった。
兵たちは荷を縛り直した。麦袋は頭上の高くへ担がれ、包帯布は水を弾く油布の奥深くに押し込まれる。火打石と火打ち金を持つ者には、乾いた羊毛が配られた。ダフネは自分の外套の下へ、火口袋を一つ潜り込ませる。
「あなたの外套が濡れてしまいますよ」
「袋を濡らすより乾かすのが簡単」
正しい。まったくで、彼女の言う通りだった。
最初の隊が川へ入った。
一歩踏み出した瞬間、何人かの顔がひきつった。水が膝までならまだ我慢もできるが、腿を越えたあたりから無駄口が消える。腰に冷たいものが触れた瞬間、兵たちの背がいっせいに縮こまった。
冷たさは刃物ではないが、人間の顔色を奪う速さは刃物よりよほど早い。
「止まるな!」
ケイリソポスの声が飛ぶ。
「止まるな、前を見ろ!」
クセノポンの声もそれに重なった。
レオンも意を決して水に足を踏み入れた。
足首が浸かった瞬間、息が詰まった。脛まで来ると、冷たさが痛みに変わる。膝に達した時には、もう自分の脚の感覚がなくなっていた。腰まで水が這い上がってきた時、腹の奥を氷の掌で直接鷲掴みにされたような悪寒が走る。
下手に声を出せば情けない悲鳴になりそうだったので、レオンは奥歯を強く噛み締めた。
隣を歩くダフネが、水面下でレオンの肘を強く掴んだ。
「足」
「……出しています」
「遅い」
短い叱責が腹立たしいが、その腕の引き上げがどれほどありがたいかは認めざるを得なかった。
水の中では荷の重さの感覚が狂う。空いた皮袋が不自然に浮き上がり、槍の石突きが流れに持っていかれそうになる。転びかけた兵を起こそうと手を伸ばした別の兵が、バランスを崩して自分まで傾いた。
「一人で引くな!」
ミュロンの怒声が岸から飛んだ。
「二人で肩を取れ! 荷を捨てろ。足を先に出せ!」
荷を捨てろ。その一言に兵の目が荒れたが、冷水の中では反論する気力も続かない。濡れた麦袋が一つ水面へ沈み、あっという間に青黒い流れに揉まれて消えた。それを見たレオンは胃がねじれるような痛みを覚えたが、あの重い袋を抱えたまま転べば、麦と一緒に人間まで流される。
対岸へ上がりきった時、地面を踏んでいるはずなのに、足の裏には確かな感触がなかった。外套の裾から泥水が激しく滴り落ち、口からは白い息が荒く漏れ出る。兵たちは安心から笑い合おうとしたが、ガチガチと鳴る歯の音に遮られた。
「火床はここに。石をどけてください。濡れた者を立ったまま放置しないで!」
声を張り上げたが、自分の声の震えにレオン自身が驚いた。
「主計殿、火口」
ダフネが外套の下から袋を取り出した。中は奇跡的に乾いていたが、彼女自身の肩はびしょ濡れで、短く切り揃えられた髪の先から冷たい水が滴っている。
「あなたが先に火の近くへ」
「後」
有無を言わさぬ一言だった。
レオンは反論を呑み込み、火口を受け取る。火打石の乾いた音が濡れた岸辺に小さく響くが、火花は何度打っても消えてしまう。仕方なく、指先に微弱な火の魔法を寄せた。蝋燭にも満たないちっぽけな熱が、羊毛の奥でようやく赤い点になる。
途端に目の奥が鉛のように重くなった。たったこれだけの魔法でここまで疲弊するのかと情けなくなるが、そういう身体に生まれてしまったのだから仕方がない。それでも、火は起きた。
細い煙が立ち上り、薪の皮が黒く焦げて縮む。濡れそぼった兵たちが、その微かな熱源に引き寄せられるように一歩寄ってきた。
「近寄りすぎないでください!」
レオンは必死で押し留めた。
「外套を脱いで絞る。足から拭いて、靴の紐を緩めるんだ。濡れた布をそのまま足に巻かないでください!」
「先に腹を温めさせろよ」
身を縮ませた兵の一人が不満を漏らした。そこに敵意はない。ただ、寒さにひたすら削られた肉体からの、むき出しの要求だった。
「腹より足が先です。歩けなくなれば、明日の火床まで辿り着けません」
「偉そうに言うが、主計殿の足はどうなんだよ」
別の兵が吐き捨てるように言った。
レオンは一瞬、言葉に詰まった。兵の言う通りだ。他人に指示を出しながら、自分の膝は笑うように震えているし、唇の震えも止まらない。
すると、ダフネが無言でレオンの足元にしゃがみ込み、彼の凍りついた靴紐を強引に解き始めた。
「見本」
ダフネは兵たちを一瞥し、短く言い放つ。相変わらずひどい扱いであったが、すこしくすりと笑った兵たちは、あきらめたように、でもちょっとだけ気がまぎれたのか、力なく自分の靴へ手を伸ばし始めた。
ミュロンが濡れた兵の間を縫うように歩き、動ける者と動けない者とを冷徹に選別していく。
「こいつは火の前だ。こいつは歩かせろ、絶対に座らせるな。歯が鳴ってるだけの奴はまだ使える。黙り込んだ奴から先に火を…」
戦場を生き抜いてきた現場の判断は残酷だが、確実に命の境目を捉えていた。
レオンは焚き火を三つの用途に分けた。足を拭くための場所。外套を絞るための場所。そして鍋をかけるための場所。火を一つにまとめれば、力の強い兵が特等席を抱え込み、弱い者が外側へ押し出されて死ぬ。
到着順にすれば早く渡った者が助かり、生存確率順に割り当てれば不満が爆発する。それでも後者を取るしかない。軍における秩序とは、全員が満足する綺麗事ではなく、全体が崩壊しないための最低限の骨組みのことだ。
「主計殿、こっちの火が弱いぞ」
「まだ乾いた薪を足さないでください。まずは細い枝からです。湯気が出ている湿った薪は後ろへ回して」
「湯を沸かすのは」
「全員が足を拭いた後です」
次々に飛んでくる問いに答えるたび、酷使した指先の痺れが増していく。着火のために微弱な魔法を繰り返したせいで、手のひらに力が入らない。指示を書き留めようとした蠟板を、泥の中へ落としかけた。
横から伸びてきた手が、それを支えた。ダフネだった。
「そこまで」
「まだです、指示が……」
「レオン」
名を呼ばれただけで、喉まで出かかった理屈が引っ込んだ。
「座って」
「座ると、次が立てなくなります」
「じゃあ、立ったままでいいから黙って」
慰めなど微塵もない、完全な命令だった。
レオンは燃え始めた火床のそばに立ったまま、自分の濡れた外套から立ち昇る白い湯気を見つめた。兵たちの歯の鳴る音が幾重にも重なり、岸辺全体が微かに震えているように錯覚する。
全滅はしなかった。荷も最小限の損失で川は渡りきった。だが、すでに足を引きずる者が出始めていた。靴紐をほどいた時、自らの足指の変色を見て無言になる者もいる。冷たさは皮膚を通過し、確実に骨の髄にまで残っている。水から上がってからが、本当の死線の始まりだった。
夕方になり、ようやく隊列が再び動き出した。
振り返れば、背後の川はもう静かな青黒い帯に戻っていた。まるで人間の命や荷を何も奪わなかったような、涼しい顔をしている。
レオンは重く濡れた裾を引きずりながら、泥濘んだ地面を踏みしめた。火床で乾かしたはずの布は、肌に触れるとまだぞっとするほど冷たかった。
行く手の白い平地から、びゅう、と北風が吹きつけてくる。その風は川の水よりよほど乾いていて、水よりさらに深く、直接肉体の内側へ突き刺さってきた。




