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第89話 北風

 木々のない白い平地へ抜け出た時、兵たちはまず足元の深い雪を見て顔をしかめたが、レオンはどこからか響いてくる異様な風の音の方へ耳をそばだてた。

 雪は確かに深かった。歩くたびに足首を越え、場所によっては脛のあたりまで容赦なく沈み込む。踏み固められていない無垢な白い面が、丘のうねりに沿ってどこまでも果てしなく続いている。だが、ここで本当に恐ろしいのは、雪の深さや白さではなかった。

 北から吹きつける風が、文字通り顔の皮を削ぎ落としていく。川で濡れた外套はすでに凍りかけ、裾の部分が板のように硬く強張っていた。息を吸い込めば冷気が鼻の奥を突き刺し、吐き出した息はたちまち白く濁って、髭を蓄えた兵たちの口元に白い霜の塊を作っていく。

「これ、雪が敵なんですか」

 隣を歩くテオドルスが、ひどく震える声で尋ねてきた。

 レオンは首を振って否定しようとしたが、顔を動かすだけで耳の縁が千切れるように痛むことに気づいた。

「雪だけなら、まだ…」

「では……」

「風です。この乾いた風が、濡れた布と、皮膚の露出している部分から根こそぎ熱を奪っていくんです」

 理屈を口にしながら、自分でもひどく嫌な気分になった。熱を奪う。中央の塔の教室で聞けば、それはただの自然の性質に過ぎない。だがこの極寒の平原では、その性質がそのまま鼻先や耳から感覚が消え、やがてそこが自分の身体ではなくなる理由になるのだ。


 知識は決して寒さを和らげてはくれない。ただ、人間の身体がどこから削られていくかという残酷な手順だけは、嫌でも分かってしまう。

 隊列は横に広がって進むことができなかった。雪の下にどんな窪みや岩が隠れているか分からず、先に歩いた者の足跡を辿る方がまだ安全だったからだ。だが、一列の足跡に何千人もの人間が集まれば、当然後ろは渋滞して遅れる。そして遅れた者ほど、長く北風にさらされ続けることになる。

 要するに、弱い者から順に削り取られていくということだった。


「おい、主計殿」


 ミュロンが前方から雪を掻き分けて戻ってきた。彼の太い眉にも、白い霜がこびりついている。

「駄獣が雪に沈んでる。荷を軽くしてやっても、腹まで持っていかれて動けねえ奴がいるぞ」

「荷袋を下ろして、人で分けます」

「人も沈んでるんだよ」

 

 レオンは荒れた唇を強く噛んだ。人の肩へ荷を移せば、今度はその重みで人の足が遅くなる。駄獣を守ろうとすれば荷は残るが、人の足を守りたければ荷を捨てるしかなかった。


 また、その決断か。そう思いながら、レオンは重い口を開いた。


「足の遅い駄獣から荷を外してください。火口、乾いた布、軽い穀物の袋だけを人に回します。重い鍋と酒壺はここに捨てます」

「また恨まれるぞ。貴重な財産だ」

「恨んで、僕につかみかかるための指が残るなら、まだましです。このままなら指が全部ダメになって、手ごと死にます

 あ、ただ、一口ずつ飲みましょう。

 貴重な熱源です。

 二口飲むとしぬかもしれないですが」

 ミュロンは一瞬だけ口の端を歪め、すぐさま背後へ振り返った。

「聞いたな! 自分の指を残したい奴は荷を切れ!」

 相変わらずひどい現場の言葉に翻訳されたが、兵たちは確かに動いた。凍りついた革紐が切られ、重い荷袋が雪へ転がり落ちる。壺は割られた。雪の上に黒い葡萄酒が染み込んだ。誰かが怒りの悪態をついたが、北風があっという間にその声を薄く削り去っていった。結局、誰も飲まなかった。

 レオンは隊列の脇に立ち、顔を覆っていない無防備な者を見つけては強引に呼び止めた。裕福な重装歩兵の中には暖かそうな狐毛の帽子を被っている者もいたが、大半の者は粗末な布切れしか持っていない。

「鼻と耳を隠してください」

「布なんかもうどこにもねえよ!」

「外套の内側を裂いてください。端の部分でいいから」

「裂いたら夜の野営で凍えちまう」

「今すぐやらないと、夜までに耳が使い物にならなくなります」

 兵はうるさそうに反論しようとして、言葉を飲み込んだ。自分の耳の先が、すでに感覚のない真っ白な色に変わっていたからだ。

 レオンも手本を見せようと自分の腰布を裂こうとしたが、指がうまく動かないことに気づいた。爪の下がひどく痛み、指先には微弱な魔法を寄せるだけの熱すら残っていない。

 横から、乱暴に布が差し出された。ダフネだった。

 彼女は自分の外套の内側を短剣で惜しげもなく裂いていた。一切の迷いがなく、裂いた布を素早く細く分けると、震えている近くの兵たちへ次々と投げ渡していく。

「巻け」

「おい、あんたの分の防寒は……」

「黙って巻け」

 余計な言葉がない分、兵は慌ててそれに従った。

 レオンは彼女の横顔を直視した。頬が赤いのではない。赤すぎるのだ。それは健康的な赤みではなく、強烈な風に叩き続けられた痛みの色だった。

「ダフネ、それ以上内側を裂けば」

「足りない」

「あなたの外套が薄くなって、あなたが冷え切ってしまいます」

「知ってる」

 知っているのに、裂く。それがひどく彼女らしいとレオンは思った。優しい慰めの言葉など一切口にしないのに、理屈ではなく、一番凍えている弱い者の方へ先に手が動いてしまう。過酷な現場で凍傷の恐ろしさを誰よりも知っているからこその、彼女なりの不器用な生存支援だった。

 レオンは白く濁った息を吐き、彼女から受け取った残りの布の配り方を頭の中で整理した。まずは鼻と耳。次に指だ。胸や腹は外套でどうにか守れるが、末端の小さな部位は一瞬で血の気を失い、壊死していく。 「手を外へ出したまま歩かないでください! 槍を持たない方の手は必ず外套の中へ。投石紐は手に持たず首に掛ける。指を冷風にむき出しにしない!」

「盾はどうするんだ」

「持つ手を頻繁に替えながら進むんです。同じ手で握りっぱなしにしないで」

 兵たちがひどく面倒くさそうな顔で従う。だが、数十歩も進むと不満の顔は消え失せた。容赦のない寒さは、文句を言い続ける体力すら奪っていく。

 風は叫ぶわけでもないのに、ただ確実に人を黙らせる。それが何よりも恐ろしかった。

 隊列の少し後ろで、駄獣が一頭どさりと倒れ込んだ。脚を雪に深く取られ、重い荷を外す前に膝を折ってしまったのだ。現地雇いの荷駄引きが慌てて綱を引いたが、獣は鼻から白い息を弱々しく吐き出すだけで、二度と立ち上がろうとしなかった。

「置け、もう無理だ、置いてけ」

 ミュロンが冷酷に言い放った。

 荷駄引きの男は激しく首を振った。ギリシア語がどこまで通じているかは分からないが、「見捨てろ」という意味だけは正確に伝わったらしい。

「置けば、俺の取り分が」

 片言の必死な訴えだった。

 レオンは重い雪の中で足を止めた。

 取り分。本来なら、ここでは命より軽い言葉のはずだ。だがこの男にとっては、故郷へ帰ったあとに厳しい冬を越すための、文字通りの命綱なのかもしれない。そんな事情まで想像してしまう自分がひどく面倒くさかった。

「荷のうち、一番軽い穀物の袋だけを持たせます。その獣はもう起きません」

「主計殿、同情してる時間がねえぞ」

 ミュロンの声は低く、そして絶対的に正しかった。ここで一刻立ち止まれば、その後ろにいる何百人もの兵が冷気にさらされ続けることになる。

 レオンは荷袋の中から一つだけ軽いものを選び出し、男の胸へ強引に押しつけた。

「持っていけるのはこれだけです。歩いてください」

 男は倒れた獣を見下ろし、次に押しつけられた袋を見た。そして、今にも泣き出しそうな顔で再び雪の中を歩き始めた。

 助けたと言えるほど立派には助けられていない。かといって、完全に捨てたと言い切れるほど冷酷にも割り切れていない。中途半端な実務の泥が手に残るだけだ。けれど、隊列を止めることだけは許されなかった。

 昼を過ぎると、北風はさらに乾き、鋭さを増した。

 雪面が削り取られ、細かな氷の粒が横殴りに吹きつけてくる。髪や髭にはびっしりと霜がつき、うかつに口を開けて歩いた者は、冷気で唇をぱっくりと切って血を流した。誰も周囲の景色など見ようとはしない。ただ虚ろな目で、前を歩く者の足跡だけを見つめて進んでいる。

 クセノポンが隊列の後方へ回り、足の遅れがちな兵たちに声をかけていた。名誉や勇気といった美しい言葉ではない。前の村まで行けば火がある、今ここで座り込めば火の温もりには永遠に届かない、という泥臭い事実だった。

 この人は、人がぎりぎり動ける形まで言葉の重心を落とすことができる。レオンは遠目からそれを見て、少しだけ呼吸が楽になった。全部を自分一人で背負わなくていいのだ。そう思った直後、すぐ近くを歩いていた別の兵が、がくりと雪に膝をついた。

「座らせないで!」

 レオンは慌てて駆け寄ろうとしたが、深雪に足を取られてつんのめった。  ダフネが誰よりも早く動いた。倒れかけた兵の脇に強引に腕をねじ込み、力ずくでその身体を引き起こす。

「歩け」

「……眠い」

「歩け」

「少しだけ……休ませて……」

 ダフネは何も答えず、兵の冷え切った頬を平手で鋭く叩いた。音は風に吸い込まれて消えたが、兵の焦点の合っていなかった目がわずかに見開かれた。

 レオンはその兵の手元を見て息を呑んだ。槍を握っていた指が、蝋細工のように白く硬直している。

「布を巻かないと」

「もうない」

 ダフネが短く言った。

 本当に、もう欠片も残っていなかった。彼女の外套の内側は限界まで裂かれ、裾もひどく短くなっている。レオンは焦って自分の外套の袖口を切り裂こうとしたが、凍えた指で握った短剣がうまく入らず、布が汚くほつれるだけだった。指が動かない。腹立たしいほど、思い通りに動かない。

「下手くそ」

 ダフネが短剣を奪い取り、代わりに鮮やかに布を裂いた。

「知っています」

「知ってるなら黙って手を出して」

 まったく救いにならない、殺伐としたやり取りだった。けれど、その数秒の間に兵の白い指へしっかりと布が巻きつけられた。

 やがて日が傾き始め、吹き荒れる雪の向こうに低い林の影が見えた。

 薪になる。先頭の誰かがそう叫んだ瞬間、死に体だった隊列の空気が一気に変わった。火の匂いなどまだ欠片もしていないのに、兵たちは狂ったように火の温もりを思い浮かべた。思い浮かべた分だけ、引きずっていた足が不自然に急ぎ始める。

 まずい、とレオンは直感した。

 全員が理性を失って同じ場所へ殺到すれば、必ず火床の取り合いになる。早く着いた体力のある者が薪を独占して抱え込み、後から引きずられてきた弱い者が外へ押し出される。川を渡った後で見たばかりの地獄の構図だ。今度は寒さが格段に厳しい分、もっと露骨で残酷な形になる。

「ミュロン」

「分かってる」

 レオンが意図を口にするより早く、半隊長の返事が返ってきた。

「着いたら俺が先頭を張って薪を押さえる。主計殿は火床を分けるんだろ」

「はい。凍傷寸前の者、川で濡れた者、そして遅れて着いた者を最も火に近い位置へ」

「またすげえ文句が出るぞ」

「出ます。間違いなく」

「なら主計殿は黙って立っとけ。俺が全員まとめて怒鳴りつけてやる」

 それはレオンを庇う優しさなのか、単なる役割分担なのか、もう分からなかった。 林の入り口へ辿り着くころ、先頭の一人が落ちていた太い薪へ手を伸ばした。同時に、後ろから来た別の兵が、その腕を力任せに払いのけた。 火など、まだどこにもついていない。それなのに、火の場所をめぐる醜い生存闘争は、もう始まっていた。 北風は、容赦なく背後から吹き続けていた。

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