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第83話 山地で一番嫌な音

 夜明けの谷底は、死んだように冷たく、そして静かだった。

 昨夜、山の稜線をぐるりと囲んでいた「七つの火の輪」は、白み始めた灰色の霧の中に溶けて消えている。だが、火が見えなくなったからといって、敵が消えたわけではない。

 むしろ、視覚という頼りなげな情報が奪われたことで、カルドゥコイの山地はさらにその不気味さを増していた。


「前衛、動きます! 荷駄、間を空けるな!」


 伝令のトルミデスの声が、湿った冷気を震わせて響く。

 レオンは、かまどの冷えた灰を軍靴で踏み消し、重い帳面を革袋に押し込んだ。

 昨夜の計算通り、まずは負傷者を乗せた荷車を中ほどに置き、その後ろに食糧、最後尾に予備の天幕や私物という順序で列を組ませている。


 村を抜け、再び両側を岩壁に挟まれた狭い山道へと入る。

 足元にはぬかるんだ泥と、鋭く尖った岩の破片。荷車が軋む音と、駄獣の荒い鼻息だけが谷底に響いていた。


 不意に、空気を切り裂くような「甲高い風切り音」が鳴った。

 敵の姿はない。鬨の声も聞こえない。ただ、音だけが頭上から降ってきた。


 ドスッ、という鈍い音がして、斜め前方を歩いていた軽装歩兵ペルタスタイが、声もなく泥の中に倒れ込んだ。

 男の太腿には、見たこともないほど長い矢が深々と突き刺さっていた。


「上だ! 崖の上に敵がいるぞ!」


 誰かが叫んだ直後、今度は「バラバラバラ」という乾いた音が岩肌を叩いた。

 大人の拳ほどもある石弾の雨だ。投石紐から放たれた鉛弾や石が、容赦なく隊列に降り注ぐ。

 木製の盾の縁が砕け散り、荷車の幌が裂け、歩兵の兜を叩き割る不快な音が連続して響いた。


「くそっ、どこから撃ってきやがる! 見えねえぞ!」

「あそこだ、あの岩棚の陰だ! やり返せ!」


 血気にはやる重装歩兵ホプリタイたちが、足を止めて頭上へ向かって投槍を放つ。弓兵たちも慌てて矢を番え、見えない敵に向かって射返した。

 だが、放たれた槍は岩壁の半ばにも届かず、力なく谷底へ落下してくる。味方の矢も、霧の向こうの稜線には届かない。


(届かない。距離と高さが違いすぎる)


 レオンは、岩の陰に身を屈めながら、戦慄とともにその事実を理解した。

 敵はこちらの姿を完全に見下ろしている。しかも、彼らが使っている弓は異様に長く、弦を引くのに足を使っているほどだ。そこから放たれる矢の威力と射程は、こちらの軽装歩兵のそれを遥かに凌駕している。

 見えない角度から、一方的に届く暴力。山地戦において、姿なき敵の「音」が、これほどまでに人間の神経を削るものだとは思いもしなかった。


「レオン、頭を下げて」


 ダフネの手が、レオンの肩を乱暴に下へと押し付けた。

 直後、レオンの頭のすぐ上を、長い矢が恐ろしい風切り音とともに通過し、背後の荷車の木枠に深く突き刺さった。


「……ありがとうございます。ですが、このまま立ち止まっていては的になるだけだ」


 レオンが顔を上げると、百人隊長のカレスが、手下の重装歩兵たちを率いて岩壁をよじ登ろうとしているのが見えた。


「カレス殿! 何をしているんですか!」

「見ればわかるだろうが、主計殿! あの上でこそこそ石を投げている小賢しい山猿どもを、引きずり下ろしてやるんだよ!」

「無駄です、やめてください!」


 レオンは泥を蹴って立ち上がり、カレスの前に立ち塞がった。


「下からあの岩棚まで、どれだけ距離があるか見えないんですか! 重い青銅の鎧を着た歩兵が登り切るのに半刻はかかる。その間、あなた方はただの動く的だ!」

「うるせえ!戦争は俺たちの領分だ!

 口出すな!

 このまま石をぶつけられながら、黙って歩けとでも言うのか!」

「そうです! 届かない敵に槍を投げるのは、武器と体力の無駄遣いだ。今は追うのではなく、耐えて通りぬけることだけを考えてください!」


 カレスが血走った目でレオンを睨みつける。

 (正論を言っている自覚はある。だが、石をぶつけられて怒り狂っている人間に、塔で習った幾何学ゲオメトリアの射程計算を説いたところで、火に油を注ぐだけだ。しかし、ここで彼らが列を乱せば、後ろの荷駄が完全に止まる)


「……坊ちゃんの言う通りだ、カレス。頭を冷やせ」


 横から割り込んできたのは、ミュロンだった。

 彼は血のついた盾を掲げながら、カレスの胸ぐらを突くようにして押し返した。


「てめえらがそこを登り始めたら、隊列が割れる。割れた隙間に石が降れば、荷が止まる。荷が止まれば、俺たちはここで全員干上がりだ。……意地張って死にたいなら止めねえが、他人の飯まで巻き込むな」

「くそっ……!」


 カレスは忌々しげに地面に唾を吐き、盾を頭上に掲げ直して列に戻っていった。

 その様子を見て、レオンは微かに息を吐く。

 (言い方は最悪だが、ミュロンの言う通りだ。慰めにはならないが、今はその「現場の理屈」が一番ありがたい)


「主計殿、荷は動かしますか」

「はい。間隔を詰めすぎず、盾を持った兵を谷側に寄せて歩かせてください。……被害は出ますが、今は『通る』しかありません」


 その時、後方の列を掻き分けるようにして、一騎の馬が駆け上がってきた。

 新体制の軍事指揮の柱、クセノポンだった。彼は馬から飛び降りると、盾を構えながらレオンたちの元へ歩み寄った。


「列が止まっているようだが、何が起きている?」

「敵の投射です、将軍」


 レオンは手短に状況を報告した。

「敵は高所に陣取り、一方的に石と矢を降らせてきます。こちらの武器は届きません。先ほど一部の兵が斜面を登って反撃しようとしましたが、止めました。陣形を崩して追撃すれば、荷駄の通行が止まり、致命的な損耗を被ります。ここは反撃を諦め、盾で凌ぎながら強行突破すべきかと」


 クセノポンは、頭上の霧に包まれた稜線と、足元に突き刺さる長い矢を一瞥した。

 彼の目は、怒りや恐怖ではなく、冷徹な状況分析の色を帯びていた。


「……君の判断は正しい、レオン殿。ここで斜面に取りつけば、敵の思う壺だ。被害を許容してでも、荷と列を止めずに通し切るしかない」


 クセノポンは振り返り、周囲の兵たちに向けて声を張った。


「諸君! 敵を追うな! 盾を掲げ、足を止めるな! 我々の目的はあの山猿を殺すことではなく、この谷を抜けて生きて帰ることだ!」


 将軍の明確な方針が示されたことで、軍は反撃の意思を捨て、ひたすら防御に徹して前進を再開した。

 レオンの判断によって、無謀な突撃による無駄な死者は防がれた。それは間違いなく、実務責任者として言うべきことを言った成果だった。


 だが、現実はそれほど甘くはなかった。

 反撃してこないと悟ったカルドゥコイ人たちは、さらに調子づき、より大胆に岩棚の端まで身を乗り出して石と矢を降らせてきた。

 歩みを進めるごとに、盾が割れる音、兵の悲鳴、駄獣のいななきが谷に谺する。

 一人、また一人と、歩みを止めて泥に倒れ込む者が出る。


(だめだ。被害を抑え込めていない)


 レオンは、血に染まっていく足元の泥を見つめながら、歯噛みした。

 全滅は防げている。だが、確実に削られている。

 これが、削られるということか。

 レオンはようやく、その言葉を腹の底で理解した。

 ただ歩いているだけで、兵の命と貴重な荷駄が、見えない敵の暴力によって少しずつ、しかし確実にすり減っていく。


「……このままでは、一日持たないな」


 隣を歩くクセノポンが、忌々しげに呟いた。

「正面からこの道を抜けようとすれば、後衛が血を流し尽くすことになる。……別の道が必要だ。高みを取れる、別の回り道が」

「別の道、ですか。ですが、案内人もいないこの山中で……」


 レオンが問うと、クセノポンは鋭い視線を後方の荷駄列に向けた。

「昨日、後衛の軽装歩兵が、奇襲をかけてきたカルドゥコイ人を何人か生け捕りにしているはずだ。彼らをここへ連れてきてくれ。口を割らせる」


 見えない敵からの石の雨は、止む気配がない。

 だが、ただ耐えて死を待つのではなく、敵の頭上を取るための「次の手」が、血塗られた泥の中から確かに見え始めていた。

 レオンは帳面を懐にしまい、捕虜を管理している分隊へと泥だらけの足を向けた。

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