第82話 じわじわとした包囲
ようやく辿り着いたその村は、険しい崖を背負うようにして石造りの家々が並ぶ、小さな集落だった。
先頭のケイリソポス隊が入り口を固め、後続の荷駄がなだれ込む頃には、空の色は深い藍色から完全な闇へと沈み込んでいた。
「主計殿、ここだ。ここなら頭上から石を落とされる心配はねえ」
バウコスが疲れ切った駄獣の首を叩き、安堵の混じった声を上げる。
だが、レオンは素直にその安堵を共有することはできなかった。
足元の石畳は濡れて滑り、暗闇の中から漂ってくるのは、先刻まで人がいたはずの村が持つ、妙に生々しい、そして空虚な生活の匂いだ。
「テオドルス、火床の数を確認してください。各家に分散して入りますが、一箇所に固まりすぎないように。それと、外から火が見えすぎる位置にある家は、煮炊きが終わったらすぐに火を消させます」
「は、はい、主計殿! ですが、兵たちはみんな寒がっていて、火を消せと言ったら怒り出すんじゃ……」
「『凍えるのと、矢の標的になるのと、どちらがマシか』と聞いてください」
レオンは短く切り捨て、自身の外套を固く締め直した。
濡れた外套は重く、肌に張り付いて体温を奪っていく 。
一万の軍勢が小さな村にひしめき合う様子は、端から見れば略奪を終えた勝者の休息に見えるかもしれない 。
だがその実態は、計算盤の弾き間違い一つで瓦解しかねない、危うい均衡の上に立つ「移動する都市」の残骸だった 。村の広場では、兵たちが持ち寄った薪を組み、火を熾し始めている 。
レオンは自ら一軒の石造りの家に入り、そのかまどに指先を向けた。
わずかな精神集中。指先から散った小さな火花が火口を捉え、じわりとオレンジ色の光が広がる 。この程度の微弱魔法でも、凍えた指先で火打石を叩く手間に比べれば、数分という貴重な時間を稼ぎ出してくれる 。
「……助かります。主計殿」
背後から聞こえてきたのは、火番のカリアスの声だった 。
彼はレオンの火を見て、安堵したように肩の力を抜いた 。
「火だけは、僕にできる数少ない『配給』ですから。ですがカリアス、薪の消費は最低限に。明日の出立までに乾いた薪がなくなれば、朝の粥も作れませんよ」
「わかってますって。……それにしても、静かすぎますね、この村」
カリアスの呟きに、レオンは内心で同意した。
略奪を防ぐためにケイリソポスが厳命を下したおかげで、村の中にはまだ青銅の器や衣類が残されている 。本来なら、それらを奪い合う兵たちの怒鳴り声が響いてもおかしくない。だが、今夜の兵たちは、不気味なほどに静かだった。
彼らもまた、肌で感じているのだ。自分たちが「包囲されている」という事実を。「レオン。こっち」 ふいに腕を引かれた。ダフネだ 。
彼女は言葉少なく、レオンを家の奥、窓の少ない小部屋へと促した 。
「火、ここにする。外から見えない。あんた、ここで寝て」
「ありがとうございます。ですが、見張りはどうしますか? ミュロンは……」
「半隊長はもう配置を決めた。私の見張り位置は、あんたの火のそば。そこが一番、後ろまで目が届くから」
ダフネの言葉は理にかなっていたが、同時に「レオンを守る」という優先順位が透けて見えた 。彼女は慰めの言葉一つかけないが、その立ち位置だけでレオンに「ここは安全だ」と告げているのだ 。
レオンは彼女が差し出した水袋を受け取り、一口含んだ 。
ぬるい水が喉を通る。それだけで、少しだけ理性が戻ってきた気がした。
「ダフネ、少し上を見てもいいですか」
「……何?」
「確認しておきたいんです。僕たちが今、どんな『勘定』の中に立たされているのかを」 レオンはダフネを伴い、家の屋根裏にある小さな窓へと向かった。
そこから外を覗き見た瞬間、二人は同時に息を呑んだ 。村を囲むカルドゥコイの山々。
その漆黒の斜面に、ぽつり、ぽつりと赤い点が浮かび上がっていた。
一つではない。十、二十……。それらは村を取り囲むようにして、円を描いて灯っている 。
カルドゥコイ人の見張り火だ。
「……また、七つの火の輪、か」
背後からミュロンの低い声がした。彼はいつの間にか屋根裏まで上がってきていた 。
「見てみろ、坊ちゃん。結局あれは奴らのいつもの作戦なんだろうな。
俺たちがどこを歩き、どこで寝るか。あいつらは全部、あの火で合図し合ってやがる」
「わかっています。僕たちの火床は、暗闇の中に描かれた標的にすぎないということですね」
レオンは震える手を隠すように、窓の縁を強く握った。
塔の書物で読んだ古代の攻囲戦。そこには、勇猛な将軍たちの言葉や、華やかな戦術が踊っていた。だが、現実はこれだ。
音もなく迫る火の輪。
自分たちがどれほど微弱な火を大切に守ろうとも、敵はその火の明るさを使って、明日、こちらの命を刈り取るための石を準備する 。
(家政とは、秩序を保つ技術だ。だが、この圧倒的な敵意の前で、果たして僕の秩序はどれだけの意味を持つんだろう)
「明日は今日より、石も矢も飛ぶぞ。荷の締め具合をもう一度見ておけ」
ミュロンはそれだけ言い残し、音もなく階下へ去っていった 。
「レオン。寝て」
ダフネが再び、短く促した。
「見張り火を数えても、お腹は膨れない。明日、また数字を数えなきゃいけないんだから」
「……そうですね。ありがとうございます、ダフネ」
レオンは彼女に促されるまま、かろうじて熱を保っている火床のそばで、横になった 。
濡れた外套から立ち上る微かな湯気。
閉じた瞼の裏に、あの山の斜面に灯った赤い火の輪が、焼き付いたように残っている 。
村の中は不気味なほどに静まり返り、時折、遠くの稜線から石が転がり落ちるような、乾いた音だけが響いてくる 。それは、安堵ではない。
次に起こる惨劇を前にした、束の間の、そしてあまりに冷酷な静寂だった 。
レオンは翌朝の荷駄の通過順を、頭の中の壊れかけた計算盤で何度も組み替えながら、浅い眠りの中へと落ちていった 。




