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第81話 通れない道を通す

「主計殿! これ以上はコイツらでも無理だ。どうにも通せねぇ」


 すり鉢の村を脱してから数刻。カルドゥコイの険山は、昨日までのそれとは比較にならない牙を剥いていた。

 道幅は一挙に狭まり、大人が二人並んで歩くのが精一杯の箇所が連続する。その片側は垂直に近い岩壁、もう片側は底の見えない断崖だ。

 荷駄頭のバウコスが、泥にまみれた太い腕で先頭の小型荷車を叩き、レオンに向かって吠えた。


「この曲がり角じゃ、なんぼ短くても車軸の長さが岩に突っかかる。無理に通せば車輪が浮いて、中身ごと谷底へ真っ逆さまだ!」


 レオンは荒い息を整えながら、手元の帳面から目を上げ、前方の「難所」を観察した。

 バウコスの言う通りだった。急峻な九十九折りの曲がり角。しかも道が傾いている。山岳用に取り回しの良いものを選んだとはいえ、重い荷を積んだ荷車は、この角度を曲がりきれない。

 ここら辺が限界だった。

 その背後には、数台の荷車と、数百人の兵たちが数珠つなぎになっていた。前進が止まれば、当然、後続の距離は縮まる。


「押せ! 後ろが詰まってるんだ! 何をしてやがる!」


 後方の重装歩兵ホプリタイたちから罵声が上がる。百人隊長カレスの隊だ。彼らは早くこの「射程圏内」の狭路を抜けたくて苛立っている。


 だが、前が動かない以上、後ろから押せば押すほど、人の列は密集し、身動きが取れなくなる。

 (最悪だ。まさに『家政オイコノミア』の破綻そのものじゃないか)

 レオンは、塔で学んだ管理の基本を思い出し、喉の奥で自嘲した。

 供給が止まった流路に、圧力をかけ続ければどうなるか。それは「流れ」ではなく「壁」に変わる。


「……バウコス殿、落ち着いてください。怒鳴っても道は広がりません」

「落ち着いてられるか! 俺の可愛い駄獣が、後ろの連中に急かされて今にも崖に落ちそうなんだぞ!」


 レオンはバウコスの怒声を受け流し、テオドルスを呼んだ。

「テオドルス、今のうちに後ろの隊へ伝令を。カレス殿に、あと五十歩は下がるように伝えてください。これ以上詰めると、荷車を回す空間がなくなります」

「えっ、でも、カレス隊長にそんなことを言ったら……」

「『ここで止まれば、頭上から来る石の的になる時間を増やすだけだ』と言ってください。論理的に、彼らの損になることを強調するんです」


 テオドルスが怯えながら走っていくのを見送り、レオンは目の前の荷車を見据えた。

 この荷車には、予備の投槍と重い天幕杭が積まれている。幅広の荷枠が、岩肌の突起に干渉しているのだ。

 (車輪の幅ではない。荷の積み方が、この地形に適していないんだ)

 レオンは頭の中の計算盤アバコスを弾く。

 一台の荷車の詰まりを解消するのに一刻をかければ、軍全体の一日の進軍距離は半減する。それはすなわち、食糧の消費日数が増え、兵たちが飢える確率が上がるということだ。


「バウコス、この車の荷を一度全部下ろします。この先の五百歩は、車ではなく『背』で運ぶしかありません」

「はあ!? この状況でか! そんなことをしてたら日が暮れるぞ!」

「いいえ、無理に通そうとして脱輪させるよりは早いです。バウコスは、荷車をバラして担げる形に組み替える指示を。僕は、運び手を集めます」


 そう、荷車を捨てられないのも理由があるのだ…たとえ背負子で担がせようと、兵に持たせようと、数の限界はある。


 だからここを超えたら、また組み直す必要があった。

 小型とはいえ、やはり車輪がついてるだけで効率は段違いなのだ。


 その後、レオンは後方の隊列に向かって歩き出した。

 そこには、立ち往生して苛立ちを募らせる軽装歩兵ペルタスタイの若手たちがいた。その中には、火番のカリアスの顔も見える。

 

「カリアス、あなたの隊の分隊長をよんできてください」


火番を束ねる分隊長が、おっとりがたなでやってくる。

「なんだい、主計殿、ここいらはあぶなくてしょうがないんで、早く抜けたいんだがね」

「君の分隊から十人貸してください。この先の荷を一時的に担いで越えます」


「ええっ、主計殿、俺たちはさっきから石を警戒してクタクタなんだぜ? そんなの荷駄引きの仕事だろう」


「荷駄引きの数には限界があります。……わかってください。ここで進軍が止まれば、君たちが一番嫌っている『石』が降ってくるのを、指をくわえて待つことになる。君たちが運べば、この詰まりは一刻で解消できる。どっちがマシですか?」


 火番の分隊長は嫌そうな顔をしたが、レオンの淡々とした、だが拒絶を許さない理屈に負け、仲間の背中を叩いた。

「……チッ、わかったよ。おいお前ら、主計殿の御命令だ。今のうちに身体を動かして温まろうぜ!」


 現場に活気が戻った。荷車から槍の束や杭が下ろされ、兵たちがそれを肩に担いで、狭いカーブを歩いていく。

 空になった荷車は、バウコスたちの手によって車輪を片方浮かせるような荒業で、岩肌を滑るようにして曲がり角を抜けていった。


 その様子を、岩棚の上から見下ろす影があった。

 前衛の状況を確かめに戻ってきたケイリソポスだった。彼は馬を降り、汗だくで兵に指示を出すレオンの姿を、数瞬だけ無言で見つめていた。


「……主計殿。後ろが止まっていると聞いたが、これがその原因か」

 低く響くケイリソポスの声に、レオンは反射的に居住まいを正した。


「はい、将軍。地形と荷の幅が噛み合っていませんでした。ですが、今、兵をお借りして手運びに切り替えさせています。あと半刻もあれば、この区間の荷駄はすべて通せます」


「兵に、荷を運ばせているのか」


「そうです。流動性の確保を優先しました。……不服を申し立てる兵もいますが、とりあえず理屈でおし通しています」


 ケイリソポスは、レオンが持つ、泥と汗で汚れた帳面を一瞥した。

 そこには、どの車に何が載り、誰がどこを運んでいるのか、驚くほど緻密な「通行設計」が記されていた。


「ラケダイモン(スパルタ)では、戦は力で決まる。だが……」

 ケイリソポスは短くそう言い、微かに顎を引いた。


「通らぬ道は、いかなる精鋭も通せぬ。その帳面の通りに、速やかに後ろを流せ。これ以上の遅滞は全体が危機になる」

 ケイリソポスは、周囲の頭だったものにそう指示をした。

 残念ながらミュロンが付近におらず、やむを得ずやった越権行為だったが、ケイリソポスが追認してくれたことで、周りも動き出した。


「……ありがとうございます」


 短い言葉だったが、レオンにはそれが十分な評価に感じられた。

 (「速やかに」か……なかなかにしんどい言葉だな)

 内心で愚痴りながらも、レオンの指先は計算のために熱を帯びていた。


 ようやく荷駄の第一陣が難所を抜け、隊列が再び動き出したとき、日はすでに大きく西に傾いていた。

「レオン、飲んで」

 いつの間にか隣にいたダフネが、水袋を押し付けてきた。彼女は、兵たちが荷を担いで移動する間、ずっと岩壁の上を睨み、石を投げる機会を伺っていた「姿なき殺意」を牽制し続けていたのだ。


「……ありがとうございます、ダフネ。助かった」

「私は何もしてない。皆が勝手に走り回ってただけ。私はそれを見てただけ」

「君がそこにいてくれなければ、怖くて帳面なんて見ていられませんよ」

 レオンが水を一口含むと、ダフネはわずかに目を逸らし、「……お世辞はいいから。早く行くこう。夜が来る」と短く返した。


 ダフネの言う通り、状況は決して好転してはいなかった。

 荷駄の通過順を組み替えた影響で、全体の進行は遅れている。


「おい! これ日暮れまで宿営地につけるんだろうな?」

 後方のカレス隊の兵たちが、空腹と苛立ちから再び騒ぎ始めている。


「主計殿、マズいな。兵たちの腹が鳴り始めてる。

 この先、日没までに予定の夜営地に着けるかどうか……」


 ミュロンがやってきて、レオンの横で眉根を寄せた。


 前衛は進んでいるが、後衛はまだ狭路の出口でもがいている。

 もし、このまま夜を迎えれば、暗闇の中、この切り立った崖道で残りの荷を通さねばならない。それは不可能に近い賭けになるだろう。

 夜になっても、石の音だけは止まらなかった。

 見えない場所で、荷駄獣が一頭、短く鳴いた。

 カルドゥコイ人の石は、光を失った夜にこそ、その「音」だけで我々を絶望へと追い込んでくるのだ。


(一日の成功が、次の失敗の種を撒く。……まったく、家政オイコノミアというやつは、どこまで行っても一息つかせてくれない)


 レオンは、震える足に鞭を打ち、再び「通過順」の計算を始めた。

 夜明けまでに、あとどれだけの荷を、誰の肩で運ばせなければならないか。その数字だけが、今の彼に残された唯一の武器だった。

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