第80話 後ろから来る石
「止まるな! 止まればそれだけ、頭上から狙われる時間が延びると思え!」
ミュロンの枯れた怒鳴り声が、険しい岩壁に反響して耳元を叩いた。
空が白み始めた直後に出立した軍勢は、昨夜のかりそめの温もりを提供したすり鉢状の村を抜け、再びカルドゥコイの細い山道へと取りついていた。
だが、昨夜の「火の輪」が告げていた通り、道は昨日までとは比較にならないほど血なまぐさいものとなっていた。
山道は曲がりくねり、右は切り立った岩肌、左は底も見えない深い谷底である。
先頭を行くケイリソポスの前衛部隊は、すでに二つ先の曲がり角を抜け、レオンたちの視界からは完全に消えていた。前衛は身軽に難所を突破していくが、その後ろに続く荷駄隊と後衛はそうはいかない。
「主計殿、三番の車がもう駄目だ。左の車輪が歪んでる」
泥にまみれたバウコスが、息を切らせながらレオンの元へ報告に走ってきた。
小さく取り回しが良かったので。あえて残した荷車の一つだった。
レオンは湿って重くなった帳面から顔を上げる。
「積荷は何ですか」
「 重装歩兵どもの私物袋だ。昨日村で拾った青銅の器まで後生大事に詰め込んであるせいで、獣の足も限界にきてる」
レオンは舌打ちを飲み込んだ。ケイリソポスが「置いていけ」と命じたにもかかわらず、一部の兵が隙を見て私物袋に隠し持ってきたのだろう。
(全く、どこの世界にも命令より自分の欲を優先する馬鹿はいる。だが、今はその馬鹿のせいで全軍が死にかねない)
「……来たぞ! 崖上だ! 盾を上げろ!」
最後尾を務める軽装歩兵の分隊長が叫ぶが、敵の姿は見えない。
ただ、頭上の霧に隠れた稜線から「乾いた音」だけが響いてくる。
最初は小さな小石の落下音。それが岩肌にぶつかり、跳ね、周囲の土砂を巻き込みながら、重力という名の無慈悲な速度を伴って巨大な質量へと変わっていく。
「ああっ!」
短い悲鳴とともに、五十歩ほど後ろで嫌な破壊音が響いた。
大人の頭ほどもある岩が、一台の荷車の側面に激突したのだ。乾いた木材が砕け散り、車軸がへし折れる。積み上げられていた麦袋が裂け、貴重な中身が泥の上にぶちまけられた。
岩はさらに跳ね、荷車の横を歩いていた兵の肩を容赦なく砕いた。
「ぎええっ!」
「おい、麦がこぼれたぞ! 拾え!」
悲鳴と怒号が入り混じる。数人の兵が反射的に足を止め、泥に散らばった食糧や、傾いた荷車からこぼれ落ちた私物を拾い集めようと群がった。
(最悪だ)
レオンは喉の強い渇きを覚えた。
山地戦というのは、これほどまでに一方的なのか。こちらが槍を投げても到底届かない高所から、相手はただ石を転がすだけでいい。姿を見せずに、確実にこちらの「足」を削ってくる。
そして何より恐ろしいのは、石そのものの殺傷力ではない。石によって「列が止まる」ことだ。
「どけ! その荷車は捨てる! 負傷兵だけ肩を貸して前に運べ!
おい、坊ちゃん構わねえな?!」
「わかりました!」
ミュロンが駆け寄り、麦を拾おうとする兵たちを怒鳴りつけた。
レオンは問いかけに即座に回答する。
だが、兵の一人が血走った目で食ってかかる。ソテリダスと同じシキュオン出身の重装歩兵だった。
「ふざけるな、主計殿! この麦を捨てたら、明日の俺たちの配給はどうなる! それにこの車には俺たちの荷物も乗ってるんだぞ!」
「計算してください!」
レオンは相手の言葉を強い声で遮り、手元の帳面を指で叩いた。
「その麦や荷物を拾い集めるために、百人がここで立ち止まれば、頭上から来る石の数は十倍になります。一袋の麦のために十人の兵が死にます。その麦を食う口は減るが、残りの荷を運ぶ手はもっと減る。これは算術の問題です。立ち止まった者も、軍勢も皆死にます!」
「だが……!」
「……おい、お前ら。主計殿の言う通りだ」
反論しようとした兵の背後から、血のついた槍を握るミュロンがぬっと顔を出した。その低い声には、戦場を生き抜いてきた者特有の重い圧があった。
「坊ちゃん。どうする気だ」
「荷駄の順を入れ替えます。ミュロン殿、重い穀物袋を積んだ本隊の車を前へ。そして、私物や予備の衣類を積んだ軽い車を一番後ろに下げてください。……壊れてもいいものから順番に、敵の石に差し出すんです。それを『盾』にして、本隊の食糧と足を前に通します」
ミュロンは一瞬だけレオンを凝視した。
その目は、帳簿役の冷徹な計算と、現場の残酷な現実が一致したことを認めていた。
「……聞いたな、お前ら! 主計殿の命令だ。私物車を最後尾に回せ! 文句がある奴は、谷底に落ちた自分の荷物を自分で拾いに行け! 行って、頭を割られて死ね!」
ミュロンの容赦ない罵声とともに、混乱していた列が強引に組み替えられていく。
本来なら、兵たちの私物や予備の外套は、これからの冷え込みを考えれば命の次に大切なものだ。
山ように徹底的に荷を絞った中で…あえて持たせたものでもある。だが、今はそれを「防壁(緩衝材)」として使うしかない。石の直撃を受けて車が壊れても、中身が私物であれば未練なく谷底へ蹴り落とせる。
なんとか取り回しの良い荷車は残してはいるが、どうせどこかで全てを人手で担ぐことになるのだ…と割り切った。
「危ない」
ダフネの声がした瞬間、レオンの体が背後から強く横へ引き倒された。
直後、彼が立っていた場所の泥を、鋭い剥片を伴った拳大の石が抉り抜いた。
地面に倒れ込んだレオンの頬を、跳ねた石の破片が掠め、熱い血が滴る。
「……助かりました。礼は、後で」
レオンが身を起こしながら言うと、ダフネはレオンの腕を掴んで乱暴に引き上げた。
「いらない。早く動いて。石はあんたの理屈なんて待ってくれない」
ダフネの言葉は短く、その視線はすでに頭上の岩壁を射抜いている。彼女の右手には短い槍が握られ、いつでもレオンの上に覆い被されるよう低い姿勢を保っていた。
彼女もまた、この山地が「姿なき殺意」で満ちていることを肌で理解している。
列が再び動き出す。
最後尾に回された私物が、次々と降り注ぐ石の犠牲になっていく。
車輪が砕け、木枠が折れる音が谷に響く。動けなくなった車は、ミュロンの指示のもと、後衛の兵たちによって無情にも谷底へと突き落とされた。
足元には、裂けた荷袋からこぼれた麦や、持ち主を失った水袋、誰かの予備の外套が、血の混じった泥にまみれて散乱している。
それは、この軍が「守る」ことを諦め、「逃げ切る」を選び始めた代償だった。
(塔で習った『自制』とは、こういうことだ)
レオンは痛む頬を押さえながら、重い足を引きずった。
(ただ我慢する美徳ではない。足りないものを足りないまま扱い、失うべきものを意図的に失わせる技術。……なんて嫌な技術だろうか)
ようやく一つの難所を抜け、少しだけ視界が開けた岩棚に出た。
石の雨が止み、兵たちが荒い息を吐きながらその場にへたり込む。
だが、そこでレオンを待ち受けていたのは、安堵ではなかった。
(前方の道がまた細くなってる……)
「主計殿……まだ、あんなにあるんですか」
血の気を失った顔で前方を指差すテオドルスの声が震えている。
レオンが視線を向けると、そこには、今抜けてきた道よりもさらに細く、さらに高く、そして両側を切り立った崖に囲まれた「次の狭路」が、巨大な顎のように口を開けて待っていた。
頭上の霧の向こうから、また遠くで石が転がる音が響いた。
この戦いに、華々しい勝利などない。
あるのは、どちらの「削り合い」が先に限界を迎えるかという、ひたすら地味で、残酷な計算だけだった。
レオンは頬の血を外套の袖で雑に拭い、湿って重くなった帳面を再び開いた。
捨てた荷の分だけ、明日の配給を減らさねばならない。そして、これからまた荷と足を天秤にかける。
その嫌な計算が、背後から迫る石の音よりも鋭く、彼の心を削り始めていた。




