第79話 七つの火の輪
山道を下り、すり鉢のような窪地にある村に辿り着いたときには、日はすでに山の端に隠れようとしていた。
深い谷底を抜けてきた兵たちの息は白く上がり、足取りは鉛のように重い。前衛と後衛を繋ぐ隊列は、疲労と山道の険しさのせいで、ところどころで千切れそうに間延びしていた。
「主計殿。獣の足も、限界だ。これ以上進めば、荷ごと谷底に持っていかれるぞ」
荷駄頭であるバウコスが、泥と脂にまみれた深い皺の刻まれた顔をしかめて吐き捨てた。
レオンは自身の膝の震えを隠すように、誰かを走らせようかとも思ったが、自身で隊列の前方へと走った。前衛を預かるケイリソポスと、新体制の指揮の柱であるクセノポンが、馬を下りて地形を見定めているところだった。
「将軍。荷駄の限界です」
レオンは短い礼とともに、二人へ手元の板を突き出した。
「これ以上の行軍は、ちょっと…困難なようです」
ケイリソポスは鋭い目でレオンの顔を一度だけ見据え、次いで村の地形と周囲の稜線へと視線を走らせた。前衛の指揮官としての判断は一瞬だった。
「わかった。前衛を村の入り口で止める。今日はここまでだ」
「この窪地なら風も凌げる。各隊に荷を下ろさせよう」
クセノポンが同意し、傍らに控えていた伝令のトルミデスに頷く。
トルミデスが肺腑を震わせるような大声で「全軍、停止! ここに宿営する!」と触れ回ると、軍全体から一斉に安堵の溜息と、どさりと盾を地に置く音が連鎖して響いた。
だが、その安堵は長くは続かなかった。
村に入り込んだ兵たちは、すぐに奇妙な違和感に気づいた。異様なほどに、静かなのだ。
本来なら、見知らぬ一万の大軍が近づけば、犬の一匹も吠え立てるだろう。子供の泣き声や、逃げ惑う家畜の足音があってもいい。だが、ここには風が石組みの家の壁を叩く音しかない。
レオンは、従者のテオドルスを連れて一軒の家の中へ足を踏み入れた。
そこには、生活の匂いが驚くほど色濃く残っていた。かまどにはまだ微かに温かい灰が残り、棚には見事に磨かれた青銅の器や鉢、水差しが秩序正しく並んでいる。つい一刻前まで、ここに家族がいて、温かな粥を囲もうとしていたことが痛いほどに伝わってきた。
「おい、これを見ろ。全部置いて逃げやがった! 金目のものばかりだぞ!」
重装歩兵の百人隊長カレスが、血走った目で青銅の鉢へと手を伸ばそうとした。彼らにとって、この過酷な撤退戦における目に見える戦利品は、数少ない慰めなのだ。
しかし、その強欲さを遮るように、外からケイリソポスの鋭い声が響いた。
「食い物と薪以外には一切手を出すな! 青銅器はそのままだ!」
カレスをはじめとする重装歩兵たちの間に、あからさまな不満の舌打ちが広がる。だが、将軍の命令に逆らうわけにはいかず、彼らは渋々と手を引っ込めた。
無用な略奪でカルドゥコイ人の敵意をこれ以上煽らないためか。
いや、レオンは帳面を見つめながら別の現実を考えていた。
(塔で習った古い哲学者の言葉に、欲望は腹から始まり目で膨らむ、という一節があった。だが、あんな重い青銅の鍋を背負って明日の急勾配を登れるわけがない。目よりも先に足が拒絶する。将軍たちは、兵の足が潰れることの方を恐れたのだ)
「テオドルス、手当たり次第に散らさないでください。家ごとに穀物の量を確認して、隊ごとに配分を割り当てます。略奪じゃない、これは軍を維持するための、家政の延長としての徴発です。記録を正確に」
「は、はい! 主計殿!」
テオドルスが震える手で蠟板と尖筆を取り出す。
レオンは一軒一軒、床下に隠された貯蔵庫や、屋根裏に吊るされた干し肉を検分していった。幸い、村には豊かな食糧が残されていた。粗い麦、豆の袋、保存の効く干し野菜。これなら、全軍に十分な粥を配ることができる。
広場では、兵たちが家々から持ち出した薪を積み上げ、火を熾し始めていた。
レオンは数少ない火床の一つに歩み寄り、冷え切った指先を組んだ。わずかな精神集中。指先から小さな火花が弾け、火口にじわりと熱を移す。この微弱な火魔法は、風の強い山地では火打石を叩くよりも確実に、そして静かに火を呼ぶ。
「主計殿の魔法は、こういう時だけは本当に役に立つな」
火番を任されていた若い軽装兵のカリアスが、鼻をすすりながら笑った。
「こういう時だけ、は余計ですよ」とレオンは内心で毒づいたが、言葉には出さなかった。
次第に大きな火が熾り、鍋の中の濁った水が煮立ち始める。配給された粗い穀物を放り込み、干し肉の脂が溶け出すと、周囲の兵たちの顔に、ようやく人間らしい生気が戻ってきた。
「飲んで」
不意に横から、木椀が突き出された。護衛のダフネだった。
彼女の頬はすすで汚れ、鋭い目は周囲の闇を警戒していたが、差し出された手は迷いなくレオンの胸元へ椀を押し付けてくる。
「……ありがとうございます。あなたの分は?」
「もう飲んだ。大丈夫」
相変わらずの辛口だ。だが、椀から立ち上る湯気と、そこに溶け込んだ動物の脂の香りが、凍えたレオンの肺腑を内側から温めていく。
レオンは黙って熱い汁をすすった。喉の奥を火傷しそうな熱さが通り抜け、胃に落ちる。それだけで、千切れるように痛んでいた脚の疲れが、ほんの少しだけ和らぐ気がした。
(よし、これを飲んだらまた、あたまをはたらかせよう。この泥沼のような撤退の計算は綱渡りだ。僕が軍全体のアバコス(計算盤)として機能しなければ、弱い者から順に死んでいく)
そこへ、ミュロンが音もなく近づいてきた。使い古された槍の石突を雪混じりの泥に突き立て、油断なく稜線を睨んでいる。
「主計殿。飯は行き渡ったか」
「ええ。ですが、妙ですね。住民たちはこれほど豊かな生活の品をあらかた残して逃げています。急いで退避したにせよ、あまりに不自然だ。あるいは、まだ話し合いの余地が……」
ミュロンは鼻で笑い、レオンの淡い期待を無惨に踏みにじった。
「坊ちゃん、平和なときの頭で考えるな。こいつらは逃げたんじゃねえ。退いたんだ」
「退いた?」
「そうだ。俺たちが村に入り込むのを、安全な場所からじっと見下ろしてるのさ。人がいねえってことは、どこかから『見てる』ってことだ。平和な交渉なんて夢は見ねえことだな。こいつらは、獲物が餌箱の底を漁るのを待ってるんだよ」
ミュロンの言葉は、煮え切らない粥よりも重くレオンの腹に沈んだ。
(つまり、僕らを誘い込み、動きを止めるための罠にすぎないということか。住民を一人も捕らえられなかったのは、僕らの手落ちじゃない。最初から、そうなっていたんだ)
すっかり日が落ちると、火のありがたさは宗教的な崇拝に近いものになる。
だが、鍋が温まり、火床が明るく周囲を照らすほど、村を包囲する暗闇の底知れなさが浮き彫りになっていく。
レオンがふと視線を上げ、村を囲む急峻な斜面を見上げたとき、背筋に一本の氷を流し込まれたような感覚を覚えた。
「あれは……」
漆黒の闇に、ぽつり、ぽつりと赤い点が浮かび上がっていた。
一つではない。十、二十、……いや、数え切れない。
山の稜線に沿って、ぐるりと円を描くように、無数の火が灯っていた。
カルドゥコイ人の見張り火だ。
彼らは険しい岩山に潜み、互いに火の合図を送り合いながら、こちらの動向を完全に、そして残酷なまでに把握している。村の中で火を囲む一万の軍勢。それは、彼らにとって格好の標的を闇の中に照らし出す、巨大な灯籠でしかなかった。
「七つの火の輪、といったところか」
ミュロンが低く、だが鋼のように硬い声で呟く。
「明日は今日より石が飛ぶぞ。今のうちに腹に詰め込み、荷を縛り直しておけ。夜明けの合図はいつもより早い」
温かい汁で少しだけ安堵を取り戻しかけた兵たちの頭上に、明日の復讐と報復を誓う火が赤々と燃えていた。
逃げ場はない。火がある夜ほど、安堵できない。
ここから先は、山そのものが明確な殺意を持って襲いかかってくる。
レオンにはそう思えた。
そして、レオンは震える指先を火にかざしながら、明日の荷駄の通過順を、頭の中の計算盤で必死に組み替え始めた。




