第78話 谷底からの声は届かない
夜明け前に出立した軍は、冷たい湿気を纏った谷底を抜け、いよいよカルドゥコイの山地へと取りつこうとしていた。
足元はぬかるみ、踏み出すたびに生皮の靴が重く泥を吸う。谷底には、夜の間に沈殿した冷気と湿度がねっとりと張り付いており、歩く兵たちの吐く息は一様に白かった。上を見上げても、切り立った崖が空を狭く縁取っているだけで、太陽の光はまだ差し込んでこない。
空が白むにつれ、両脇に迫る地形の険しさが、はっきりと輪郭を現し始めた。なだらかな丘陵など一つもない。見上げるような岩壁と、かろうじて駄獣が一頭通れる程度の狭い踏み跡が、空へと蛇のようにうねっているだけだった。
前衛を率いるケイリソポスは、地形の悪さなど気にも留めない様子で、重装歩兵の完全武装のまま黙々と登っていく。彼らの兜の飾りが、曲がりくねった山道の陰に吸い込まれ、あっという間に見えなくなった。
レオンは、前衛が視界から消える早さに嫌なものを感じた。
前衛の役割は前をこじ開けることであり、後方の都合で足を止めることではない。彼らが立ち止まれば、後ろの隊列までまとめて行き詰まるからだ。
だが、その「止まらなさ」が、軍の距離感を壊し始めている。
問題は、前衛に続く後衛と、軍の命綱である荷駄だった。
兵士一人なら体を横にして抜けられる岩の隙間や、少し段差のあるだけの道も、重い荷車や駄獣にとっては致命的な障害になる。狭い踏み跡では、荷駄獣が横に並べない。必然的に、車列は一本の細長い糸のように引き延ばされる。
ガタン、と嫌な音が響いた。
レオンの少し前方で、荷車の車輪が岩の割れ目に噛み、不自然な角度で動きを止めたのだ。
木の車軸が悲鳴を上げ、荷締め革が限界まで引き延ばされて軋む。積まれているのは今日と明日の分の麦袋だ。駄獣が苛立って首を振り、鼻息とともに白く濁った涎を散らした。手綱を引く兵が鞭を入れるが、重い荷はびくともしない。
「おい、押せ! 車輪が引っかかった!」
「前の隊、少し待て! 荷駄が詰まってるぞ!」
百人隊長の一人が、谷の底から上へ向かって怒鳴った。
だが、その声は両側の岩壁にぶつかり、わんわんと反響するばかりで、意味のある言葉として上には届かない。
怒鳴り声は届いている。
だが、命令の形を保っていない。
レオンは、歩きながら帳面をめくろうとしていた手を止めた。
平地であれば、端から端まで声は通る。だが、この谷底では、足音、車輪の軋み、獣の荒い息、武具の触れ合う音、そして無意味な反響音だけが増幅され、言葉の輪郭が完全に溶けてしまう。誰かが何かを叫んでいるのは分かる。怒気を孕んでいるのも分かる。だが、何を要求しているのかまったく聞き取れないのだ。
「おい、どうなってる! 前が進まねえぞ!」
後ろからは、さらに別の怒鳴り声が重なる。
「進め」という命令も、「止まれ」という警告も、言葉として届かなければ命令にならない。これでは、前衛と後衛が完全に分断されているのと同じだった。距離が開いているというより、意思の疎通が途絶しているのだ。
(軍の統率が機能していない。いや、そもそも山道で一万の人間が一つの塊として動けるはずがないんだ……へびみたいに長くのろのろとした動きになってしまう……いやミミズかな)
レオンは、皮肉な思いをかみしめつつ、ふと、隣を歩くダフネを見た。彼女は短い槍を杖代わりにしながら、視線を上の方角――岩肌の陰へと向けている。警戒を怠ってはいないが、その目にも張り詰めた色が混じっていた。
「前の隊列、見えますか?」
「見えない。音も反響して、どこにいるか分からない」
ダフネは短く答えた。彼女の言う通りだった。視覚も聴覚も塞がれている。この谷の底では、自分たちの前後数十歩の現実しか把握できない。
「主計殿、このままじゃ最後尾が置いてけぼり喰らうぞ」
ミュロンが、苛立たしげに顎で後ろをしゃくった。
「車輪が岩に噛んで、一台止まるたびに後ろが全部止まる。だが、前はそれに気づかずに進んでる。そのうち、列の真ん中に穴が空くぜ、敵に狙われたらイチコロだ」
言い方は荒いが、現場の真理だった。
まったくその通りだ、とレオンは内心で毒づいた。紙の上では、一日で進める距離が出ている。だが、山道では「一台分の目詰まり」が半刻の遅れを生む。
声が届かないなら、どうする。放っておけば、前衛だけが突出して孤立し、後衛は谷底で立ち往生する。それでは荷駄の運用が破綻する。
レオンは、自分の持つ帳面から目を離し、列の少し前方を歩いている若き指揮官、クセノポンの背中を探した。
「クセノポン殿」
足場の悪い岩を乗り越えながら、レオンは彼に声をかけた。クセノポンもまた、頻繁に後ろを振り返り、隊列の乱れを気にしているようだった。
「声が谷底に反響して、指示が通りません。このままでは列が伸びきって弱点をさらします」
レオンは、丁寧な口調のまま、理屈で現状を突きつけた。
「伝令を最後尾から前衛まで、声の届く間隔……五十歩ごとに一人ずつ配置してください。言葉をそのまま中継させるしかありません」
クセノポンは、立ち止まってレオンを見た。彼の目は、英雄のそれというより、現場の目詰まりを解消しようとする実務家のそれに近かった。
「なるほど。ただ走らせるより、中継地点を置くわけか。理にかなっている」
クセノポンはすぐに周囲の軽装歩兵を指名し、間隔を空けて配置につかせた。
「いいか、後ろが止まったら、前の者に『止まれ』とだけ伝えろ。動いたら『進め』だ。理由は要らん、結果だけを中継しろ」
伝令の配置によって、情報の途絶はひとまず防げた。
「前へ、後続止まりました!」
「後ろ、止まった。前へ伝えろ!」
中継される声が、バケツリレーのように降りてくる。これで少なくとも、前衛が勝手に進みすぎて後衛が孤立する事態は避けられるはずだった。
列が止まる。岩を退ける。また進む。尺取り虫のような歩みだが、完全にちぎれるよりはましだ。
だが、レオンの帳面が示す現実は、別の残酷な事実を突きつけていた。
(列の長さと、伝令の数……。足りない、いやギリギリだけど…これはずっとは無理だ)
レオンの指先が、無意識に帳面を握りしめた。書字版の文字が汗で少しだけ滲む、蝋が緩むのだ。
伝令を置いて連絡を保とうとすればするほど、隊列はさらに間延びする。伝令の数だけ人が散らばり、結果として最後尾の荷駄が、物理的に援護の届かない距離まで遠ざかっていく。
レオンは、歩きながら頭の中で配置図を組み替えた。
前衛。中衛。そして、最後尾に押し込められた食糧の荷車と、昨日の行軍で足をやられた負傷兵たち。血の滲んだ包帯を引きずる彼らは、ただでさえ遅い歩みをさらに遅くし、軍の尾を無防備に晒している。
もし後ろが襲われても、前の部隊は戻れない。最後尾は、事実上「守り切れない」位置にあった。
自分が提案した伝令の配置によって、軍全体の瓦解は免れた。だがそれは同時に、「最後尾を見捨てる」という構造を固定化したに等しかった。
なんせ、後続が敵に食いつかれても、そのすきに逃げる以外に手がないのだ。
自分がその計算をしたという、嫌な手応えが手のひらに残った。
(何が実務だ。僕はただ、切り捨てる線を引いただけじゃないか)
帳面の端に引いた一本の線が、そのまま山道の最後尾へ伸びていく。
そこにいる誰かの顔までは見えない。
見えないからこそ、線は引けてしまう。
自分が引いた線によって、誰かが取り残される。その事実が、帳面の重さ以上に肩にのしかかる。
横から、ごつり、と硬いものが押し付けられた。
ダフネが無言で、自分の持っていた干し肉の欠片を突き出してきたのだ。
「ダフネ、これはあなたの分でしょう」
「齧ってれば気分も変わる。それくらい顔色が悪い」
ダフネらしい、短くそっけない言葉だった。慰めではないが、そのおかげで、少しだけこころが一息付けた。
まったく救いになっていないのに、変に正しい。
そうだ、今は止まっているわけにはいかない。
列が、再びゆっくりと動き出した。
その時だった。
カラカラ、という乾いた音が、頭上から降ってきた。
小石が転がり落ちる音。いや、一つや二つではない。
誰かが足を滑らせた音ではない。意図的に、何かを落としている音だ。
「上だ!」
ミュロンの短い怒鳴り声が響いた。
その直後、ドスッ、という鈍い音が、レオンのすぐ後ろで鳴った。
振り返ると、荷駄獣の背に縛り付けられていた麦袋に、何かが深く突き刺さっていた。
折れた矢柄だった。
幸いにして……いや、不幸中の幸いとして、声の伝達を妨げる谷あいの複雑な地形と、それが生み出す風が、矢を逸らしたのだ。
とはいえ、見えない角度からの投射。
カルドゥコイの山地は、軍を地形に押し込め分断したうえで、一番弱いところから削りにかかってきたのだ。




