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第77話 暗いうちに出立する

 暗いうちに出る。

 それが、昨夜の軍議で決まったことだった。


 谷の底は、光よりも先に重い冷気を溜め込んでいる。夜半に消した火床の匂いが、まだかすかに鼻を突いた。灰は夜露を吸って嫌な湿り気を帯び、踏みしだかれた草は凍りつきそうなほど冷たい。

 出立の号令はまだかかっていない。だが、兵たちはすでに立っていた。

 半分眠ったまま前を向いているような者もいれば、暗闇の中で虚空を睨みつけている者もいる。荷束はすでにきつく締められ、駄獣の背に乗せられているか、兵自身の肩に深く食い込んでいた。重装歩兵の青銅のすね当ては霜を帯びて白く濁り、外套の薄い軽装歩兵たちは身を寄せ合って震えを堪えている。


 レオン・カルディアスは、自分の荷を縛る濡れた革紐の冷たさを指先に感じながら、小さく白い息を吐いた。

 北へ向かう。

 その一語で、兵たちは少しだけ息を吹き返していた。道がある、と思えるだけで人は足を動かせる。たとえ、その道が山へ突っ込む細い傷口のようなものでも。

 進路が決まったことで、敗戦直後の陣を覆っていた絶望的な停滞感はいくらか薄れていた。兵たちは「帰るための道がある」ことに安堵している。とにかく足を動かす準備はできていた。

 だが、その道がどれほど過酷なものか、彼らはまだ実感していない。

 レオン自身も、だ。


「出るぞ」

 前衛の方から、低く押し殺した声が波のように伝わってきた。角笛の音はない。敵に気づかれないよう、ひっそりと闇に紛れて進むのだ。

 重装歩兵の金属音が鳴り、荷車の車輪が嫌な軋み声を上げる。出立そのものは、驚くほど乱れがなかった。恐怖が規律を生んでいるのか、あるいはただ寒さから逃れるために身体を動かしたいだけなのか。


「喋るな、息を残せ」

 半隊長のミュロンが、通り際に短く言った。

 怒鳴り声ではない。だが、その声は確かな重みを持って若い兵たちの耳を打った。火床の残骸の横で無駄口を叩いていた何人かが、慌てて口を閉じる。

 言い方は荒いが、まったくその通りだ。

 レオンは内心で頷き、自分の足元を見た。

 谷の底では、声は湿った空気に吸い込まれて消える。代わりに、一万を超える人間の足音と、駄獣の蹄が泥を蹴る音だけが、不気味なほど大きく響き渡っていた。


 隣を歩くダフネが、不意に手を伸ばした。

 レオンの荷束の上に括りつけていた小さな革袋を一つ外し、何も言わず自分の肩紐へ通す。

「……ダフネ?」

「いいから」

 短い。彼女は前を向いたまま、歩調を緩めなかった。

 それは親切というより、荷の付け替えだった。

 レオンを少しでも歩かせる。あとで倒れられると、自分が困る。

 そう言われた気がした。

 慰めの言葉はない。なのに少しだけ息ができる。


 暗闇の中の行軍は続く。

 レオンの頭の中は、今更ながら未知の領域へ踏み込む恐怖で満たされていた。

 地図では、ただ山地と書かれていた。だが今は違う。そこは、荷車が曲がれない道であり、水場の見えない斜面であり、火を焚く薪を奪い合う土地だった。塔で見た地図の知識など、この濡れた泥と肌を刺す冷気の前では何の役にも立たない。

 だが、恐怖に震えている暇はなかった。兵站監督代理という不釣り合いな重責が、彼からただ怯えるだけの権利を奪い取っていた。

 明るくなってから数え始めたのでは遅い。

 レオンは、足の運びを機械的な動きに任せながら、頭の中で勘定を始めた。


 水袋の残りはどれくらいか。食糧の備蓄はいつまで保つ。今夜、乾いた薪はどこで手に入る。

 いや、計算すべきは物資だけではない。駄獣の足はどうだ。蹄が割れ始めている馬がいなかったか。負傷兵や、昨夜の冷え込みで熱を出した者の数は何人いる。

 希望なんてものは、将軍たちが語ればいい。クセノポンが力強く示してくれた方針は、確かに兵を立たせた。

 だが、軍を生かして実際に動かすのは、言葉や大方針ではなく現物だ。

 水が尽きれば、歩みが止まる。

 食糧が尽きれば、隊列が瓦解する。

 足が潰れれば、その場に置き去りになる。


 塔で学んだ哲学の言葉が、ふと頭をよぎる。

 自制エンクラテイア。己の欲求を制し、理性のままに動くこと。教師たちはよくその言葉を口にした。

 なんとも立派な響きだ、とレオンは内心で吐き捨てた。だが、腹が減って凍えた兵に自制を説いて何になる。配給帳の数字が合わなければ、兵は自制などという高尚な概念より先に、隣の仲間の麦袋に手を伸ばすだけだ。

 今は哲学より、数えなければならない。

 百人隊長たちに「足りない」と怒鳴り込まれる前に、こちらから現物を配分する計算を立てておくのだ。それが、自分を引き立ててくれたフィロンがいなくなった今、レオンが引き受けるべき責任だった。


 やがて山への取りつきが始まると、傾斜が急にきつくなった。

 谷底から尾根へと向かう道は、踏み跡すら曖昧で、ところどころ岩が剥き出しになっている。出立直後の規律は、道の狭さと勾配の前で早くもほころびを見せ始めた。


「おい、止まるな! 前が詰まってるぞ!」

 前方から怒声が飛ぶ。

 レオンが目を凝らすと、暗がりの中で一台の荷車が止まっていた。車輪が泥と岩の間に深く沈み込み、動けなくなっている。荷台に積まれた麦袋と予備の槍柄が、今にも崩れ落ちそうな角度に傾いていた。

「押せ! 足を止めるな!」

 古参の荷駄頭であるバウコスが、ひときわ大きな声で怒鳴る。兵たちが群がり、無理やり車輪を持ち上げようとするが、足場が悪くなかなか抜け出せない。

 その間にも、後ろに続く隊列は立ち止まり、人の波が圧縮されていく。

 最悪だ。

 山道での停止は、単なる遅れではない。体力の無駄な消耗であり、何より「いつでも止まれる」という気の緩みを生む。人、獣、荷車が同じ細い道幅を取り合う地獄が、すでに始まっていた。

 さらに悪いことに、道の端では早くも足を引きずり始めている兵の姿があった。

 昨日までの傷が塞がっていない者。荷の重さに耐えきれず、膝を落としかけている奴隷たち。

 一刻歩いただけでこれだ。

 この先、どれだけの人間が脱落していくのか。

 レオンは帳面を開くまでもなく、頭の中で数字が削り落とされていくのを生々しく感じた。


「主計殿、死人みたいな顔をしてる」

 横から、ダフネの呆れたような声が降ってきた。

「……死んでいません。頭の中で計算しているだけです」

「そう。ならいいけど」

 彼女はそれ以上は何も言わず、ただレオンの前を歩く兵との距離を詰め、隊列の隙間を作らないように動いた。

 つまり、自分がやるしかないということだ。

 誰が倒れ、どの荷を捨て、誰を歩かせるか。その嫌な選択を、これからずっと強いられ続ける。

 ぼくは、本当にこの荷駄の流れと兵の隊列を、海まで破綻させずに押し出せるのだろうか。

 弱音が漏れそうになるのを、レオンは濡れた革紐を強く握りしめることでかろうじて噛み殺した。


 やがて、谷の底から少しずつ高度を上げていくにつれ、周囲の闇が薄らいできた。

 夜明けが近い。

 だが、白み始めた空が照らし出したのは、希望に満ちた平坦な道ではなかった。

 見上げるほど高く、威圧的にそびえ立つカルドゥコイの山々。そこには、軍を迎え入れるような温かさは微塵もなかった。

 そして、その山腹に点々と、無数の赤い光が灯っていた。

 星ではない。


「……火だ」

 誰かが呟いた。

 見張り火だ。一つや二つではない。尾根伝いに、まるで輪を描くように、こちらの動きを監視する無数の炎が揺らめいている。

 カルドゥコイ人たちは、すでにこちらの侵入に気づいているのだ。

 前進への安堵は、一瞬にして冷や水を浴びせられた。北へ向かう道は、敵の懐へ飛び込む道でもあった。

 レオンは冷え切った指先で外套を握り直し、大きく息を吸い込んだ。

 怖さを抱えたまま、それでも足だけは止めずに、前へ進むしかなかった。

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