補章10 友への報告
ティグリス川の畔、湿った夜風が天幕を揺らしている。
私、クセノポンは、遠く山脈の影を飲み込む北の空を眺めていた。この先に待つのは、地図すら定かではないカルドゥコイの険しき山々だ。一万の兵を連れてそこを抜けるという判断が、果たしてどれほどの血を要求するかは、神のみぞ知るところだろう。
「プロクセノス。君の愛馬は、今は別の主を乗せているよ」
私は、今は亡き友――ボイオティアの将軍プロクセノスの、穏やかな微笑みを思い出していた。彼はこの無謀な遠征に私を誘い、そして王弟キュロスの死とその後の流れの中で、この異国の地で散っていった。
ふと視線を落とせば、宿営地の一角で、一本の燈明を頼りに……しかもあれは多分、そこら辺の棒きれの先に自分の魔力で火を点けている…まあ、節約もあそこまで行けば立派なものだ。
彼は補給が苦しくなり出した最初のうちは、自分の水は自分でだしていたが、いつの間にか、傷病兵に自分が出した水を回すようになっていた…彼自身は気づいていないと思うが、傷ついた仲間を見捨てない姿勢というのは、末端の兵にとっては非常にウケがいいんだよ…残念ながら、まだまだ自分のことでいっぱいいっぱいみたいで、きづいていないようだけれど…
かれは何時も蝋版とパピルス、羊皮紙と格闘している。
レオン・カルディアス。
君が実家との縁で、無理やり主計官補佐の椅子に押し込んだ……いや、遠征費用の出資と一緒に押し込まれたんだったかな……あの学者崩れの若者。
最初は、場違いな迷い子が紛れ込んだものだと思って見ていた。
とても器用そうには見えない若者だ。きっといろいろうまくいかなかったのだろう…ずいぶんと荒んだというか、劣等感と優越感がないまぜになって…未熟さが丸出しの若者に、現場の兵は「帳簿役の坊ちゃん」と揶揄していたね。
だが、プロクセノス。あの河原で彼がペルシア人たちの謀略を見破った時に、感じたように…彼は、優秀でもないし頭がいいわけではないが、……持っているね。
定量的なものの見方と抜け漏れがないかを常に検証する批判的な考え方。
中央の塔などでは教えない、実学的な考え方だ。
地方の塔では、こういうことを教えているのかな?
軍の支柱であった君やフィロンがいなくなり、絶望が泥のように宿営地を覆ったあの夜、彼は逃げ出さなかった。それどころか、宙に浮いた「軍を生かすための兵站のつじつま合わせ」を、その細い肩で一つずつ拾い上げ始めたのだ。
今、彼は配給の帳面を睨みながら、明朝の出立に必要な薪の数と、駄獣の蹄の状態を数えている。
兵が剣を振るうために、まず腹を満たさねばならず、火を絶やしてはならないという、泥臭くも残酷な現実。それから目を逸らさず、数字という名の秩序で軍を繋ぎ止めようとしている。
彼は傷口を洗うための水を用意し、飲み水と食事の都合をつけ、火床を整えるための薪を調達する。
一連の家政が、凍える兵の生存率を僅かに押し上げている。その地味な献身こそが、今のこの壊れかけた軍には、どんな勇壮な演説よりも必要なのだよ。
「君が気にかけていた若者は、少しづつ化けてきたよ」
私は暗闇に向かって、独り言ちた。
彼はまだ、自分を「なりそこない」だと思っている。
顔を見ればわかる、私を見る目が、いつも恐れを抱いている…無能といわれるのではないか?これだから地方の塔出身者はといわれるのではないか?……とね。
だが、今の彼は、誰の秘書でも代筆係でもない。軍を飢えさせず、凍えさせず、生きて海へと辿り着かせるための、実務の柱として立とうとしている。
アテナイ人の私と、ボイオティアの彼は、本来なら出会うことはなかっただろう。しかし、同じ学統の語彙を共有し、教養ギリシア語を解する者として、私には分かる。彼が数字を書き留めるその筆先には、この一万の人間の命が乗っているという、恐るべき責任の重みが。
「君にはわるいが…楽しいよプロクセノス。
われわれが、この『負け戦』をどこまでマシなものに変えてみせるか
かかっているものがわれわれの命なだけに、まったく気は抜けないがね」
私は、レオンが燈明を消し、ようやく短すぎる眠りにつくのを見届けてから、自分の天幕へと戻った。
北の空には、相変わらず冷たい星が瞬いている。明日からは、本当の地獄が始まるだろう。だが、あの帳簿役が目を開けている限り、この軍の裏方は大丈夫だと確信ができた。
あとは、われわれ将軍職の後を受け取ったものたちの責任だ。




