第76話 北を向くしかない(改)
「カルドゥコイ人の山地……か」
軍議の幕の端で、レオンは泥だらけの指先で帳面を強く握りしめた。
王の支配すら及ばない、険しい山に住む好戦的な民。かつてペルシア王が派遣した十二万の軍勢が、地形と彼らの抵抗によってただの一人も戻らなかったという伝説を持つ魔境だ。塔での講義で聞いた地理の断片が、容赦のない現実として目の前に突きつけられている。
「だが、捕虜はこうも言っている。その山地を抜ければ、道幅の広いアルメニアの地に出られると」
クセノポンが、集まった新将軍たちを見回して言った。その双眸には、寝不足の充血と、それを上回る異様な熱が宿っている。
「東へ行けば王の心臓部。西は焦土。南は敵陣だ。北の山だけが、王の追手も踏み込めない道筋となる。我々は、北へ向かう」
その方針が言葉になった瞬間、レオンの頭の中では凄まじい勢いで「勘定」が回り始めていた。
(北へ向かうとなれば、当然ながら平地のような補給は望めない。山越えに最低でも七日。その間の水は? 谷川の水を当てにするにしても、一万の人間と獣を満たす量がある保証はない。飼葉はどうする? 岩山では駄獣の餌すら現地で刈り取れない。では穀物の積載量を増やすか? いや、急勾配の山道で重い荷車は間違いなく詰まる)
次から次へと湧き上がる実務の破綻に、レオンは吐き気すら覚えた。
だが、同時に理解していた。これは「死ぬための行軍」ではない。「生き残るための計算」なのだと。
「主計殿、顔色が悪いぞ」
いつの間にか隣に立っていたケイリソポスが、短く声をかけてきた。前衛を預かるこの将軍は、すでに山道での突破の段取りを頭に描いているらしい。
「……越えるしかないのなら、計算を合わせるだけです」
レオンは無理に喉の渇きを飲み込み、声を絞り出した。
「ケイリソポス殿、前衛はとにかく足を止めないでください。山道で列が止まれば、荷駄は斜面で立ち往生し、獣の足が潰れます。そして……軍全体を本格的に山岳向けに組み替えないと……荷車はほとんど役に立たなくなりそうです」
「つまり、兵にも持たせるわけだね?」
「はい」
北へ行く。
軍議のあと、その一言が軍の中を回り始めると、宿営地の空気がわずかに変わった。
明るくなったわけではない。安心したわけでもない。むしろ、向かう先に待っているものを知れば知るほど、兵たちの顔は硬くなる。
「主計殿」
泥のついた木札を抱えたテオドルスが、駆け寄ってきた。若い記録係の頬には、疲れの色が濃い。だが、手元の札は落としていない。そこは褒めてやりたいが、今それを言う余裕はなかった。
「各隊から、残荷の報告が上がり始めています。水袋、穀物、干し肉、矢束、投石紐、鉛弾、包帯布、それから……火口袋です」
「火口袋を先に出してください。数と状態を」
「水と穀物ではなく?」
「山では、火が消えた時点で飯も湯も傷口の洗浄も止まります。水は谷を探せる。穀物は背負える。けれど、濡れた火口は、祈っても燃えません……わたしが頑張っても一つか二つがいいところです」
テオドルスが息を呑んだ。
言ってから、レオン自身も嫌になった。いつから自分は、こんなふうに物の優先順位を人の生死に直結させて言えるようになったのか。塔にいた頃の自分が見たら、きっと顔を引きつらせる。
いや、あの頃の僕なら、まず最初に現場から逃げだしている。
レオンは泥の上に膝をつき、広げられた木札と羊皮紙を覗き込んだ。
以前の配給と貸し借りを裏づける古い控えは、もうない。軽量化の時に、自分の手で灰にした。数か月分の配給記録も、支払いの未払い控えも、今は戻らない。
だから今、頼れるのは最新の配給札と、目の前の現物だけだった。自分で燃やしておいて、今さら手元の心もとなさに困るな。まったく、その通りだ。
「テオドルス。古い帳面はない。
だから、今日からは各隊の報告だけでなく、現物を見て数え直します。
札の数字だけを信じないでください」
「はい」
「火口袋は乾いたものと湿ったものを分ける。水袋は半隊ごとに均す。穀物は一箇所にまとめない。山道で隊列が千切れたら、前と後ろで飢える日が変わる……こんなところでしょうか」
「……一箇所にまとめた方が、管理は楽では」
「管理は楽です。
一遍で終わる。
全滅する時も……一遍で終わってしまいます」
テオドルスが黙った。言い方が悪いのは分かっている。だが、今は柔らかく説明している時間がない。
レオンは泥の上に、荷駄の簡単な並びを指で描いた。
「負傷者を乗せた駄獣は中央のやや前。遅れすぎると後衛の速度を殺します。水と穀物は中央に厚く置く。ただし、三つに分ける。火口と包帯布は各百人隊に少量ずつ。鉛弾と投石紐は後衛寄り。山で後ろから叩かれた時、すぐ出せるように」
「矢束は?」
「重装歩兵の後ろではなく、軽装歩兵の手の届くところへ。飾りではないので」
背後で、誰かが低く笑った。
振り返ると、ミュロンが立っていた。隣には荷駄頭のバウコスもいる。二人とも、泥と煤でひどい顔をしていた。
「坊ちゃんの言う通りだ。矢束を偉そうな盾持ちの後ろに置いても、山じゃ何の役にも立たねえ」
「ミュロン……その言い方は角が立ちますよ」
「坊ちゃんの言いざまも大概だがな。
気づいてないのか?
帰りの工程が始まってから、ずいぶん明け透けにものを言ってるぜ?」
言い返せるはずもなかった。
バウコスが、太い指で泥の図を指した。
「荷車はどうする。まだ使えるのがある。車輪も軸も、今すぐ捨てるにゃ惜しい」
「山の取りつきまでは使います。そこから先は車として持ち込まない。車輪は外して、軸材は担架か補修材へ。板は、火床の台にするか、ぬかるみを越える時の敷き板に回す」
「燃やさねえのか」
「燃やすほど余っていません。もう、余分を捨てて身軽になる段階は終わりました」
レオンは、泥の上の線を指で消した。
「ここから先は、残ったものに別の役目を割る段取りです。何か一つ失えば、その分だけ別の用途も失う。荷車を捨てるのではなく、車ではないものに変えます」
バウコスが、少しだけ目を細めた。
「……なるほどな。車として殺して、木材として生かすわけか」
「ええ、だいたいそうです」
「よし。おい、聞いたな!」
バウコスが荷駄引きたちへ向けて怒鳴った。
「車は山へ連れていかねえとおもっとけ!
だが、軸も板も捨てるな!
どっかでばらす心づもりをしとけ!外せるものは外すぞ! 壊すなよ、使うんだからな!」
荷駄引きたちが一斉に動き出した。車輪大工が楔を打ち、荷車大工が軸の割れ目を確かめる。若い荷駄引きが縄をほどき、別の者が麦袋を獣の背へ移していく。
最終確認と組み替え作業だ。
どうせあの主計殿のいう事だ、どっかで、「事情が変わりました」とか言い出すに違いない……と皆が内心思いながら作業をしている。
それでも、文句を言わないのは、その坊ちゃんが居ないと、ギリシア人の集団は、もうとうに瓦解していたであろうということを知っているからだ。
兵たちの顔つきが少し違った。
次の行軍の形へ変えている。
しょうがねぇ。
そう見えれば、不満は完全には消えなくても、手は動く。
あまりに小さな心の動き。だが、この小ささを積み上げなければ、この一万を超える軍は山へ入る前に自壊する。
「主計殿!」
今度はカリアスが、火口袋を抱えて走ってきた。息を切り、額に汗を浮かべている。
「状態が良いものが、思ったより少ないです。ここまでの酷使でだめになったものやらなんやらが……」
「どれくらい」
「半分……いえ、しばらくは大丈夫と胸張って言えるのは三分の一くらいかと」
最悪ではない。だが、あまりよくもない。
レオンは火口袋の一つを受け取り、中を確かめた。乾いた苔、細かく裂いた布、樹皮の薄片。それらが、指先に嫌な湿り気を返してくる。
山地では、火を起こせる場所が限られる。濡れた火口しかなければ、兵は冷えた麦粥を噛み、傷口を洗う湯も作れず、夜の見張りは震えながら立つことになる。洒落にならない。
「乾いたものは、各隊に均等配分しないでください」
テオドルスが目を上げた。
「均等ではないのですか?」
「均等に少しずつ渡すと、全部が中途半端になります。まず前衛、後衛、傷治師のいる区画に厚く置きましょう。中央の荷駄には湿ったものを集めて、移動中に乾かしながら進めます」
「不満が出ますよ」
「出ます。ですが、山で仲良く凍死したいのかと、答えるしかないでしょう」
自分で言っていて、嫌になる。公平と生存は、同じ顔をしていない。フィロンなら、もっと冷たく言っただろう。おそらく、結論、理由、責任の順で逃げ道を塞いだ。レオンはそこまで上手くない。ただ、目の前の湿った火口を握りしめているだけだ。
「主計殿、これ」
カリアスが、小さな革袋を差し出した。
「自分の予備です。乾いてます。火番で使うつもりだったんですけど、傷治師の方へ回してください」
「いいんですか」
「う~ん……でも、あとで火がつかない方がもっと嫌です」
若手兵にまで、そういう得失の判断をさせている。レオンは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……記録します。カリアスの火口袋、一つ。傷治師区画へ」
「記録しなくてもいいです」
「します。こういうものを記録しない主計は、現場に信用されません」
カリアスは照れたように顔を背けた。
その時、横からダフネが手を伸ばした。彼女は何も言わず、レオンが握っていた湿った火口袋を取り上げると、自分の外套の内側に入れていた小袋と取り替えた。
「ダフネ?」
「そっちは濡れてる。こっちは乾いてる」
「君の分では」
「私は火番じゃない」
短い。相変わらず、慰める気配など欠片もない。ただ、彼女はレオンの手から濡れた袋を奪い、代わりに乾いたものを押しつけた。それから、レオンの腰に結ばれていた革紐を見て、眉をひそめる。
「結びが甘い」
「今それを言う?」
「山道でほどける」
ダフネは膝をつき、レオンの荷束を勝手に締め直し始めた。指の動きに迷いがない。革紐を強く引き、余った端を短くまとめ、揺れてもほどけない形にする。
「自分でできます」
「できてない」
反論できなかった。
横でミュロンが、知らん顔をして腕を組んでいる。だが、その視線だけはちらりとこちらへ向いていた。レオンではなく、ダフネの肩にかかる荷の重さを見ていた。いつものことだ。いつものことなのだが、あれは荷駄を見る目とは少し違う。
「主計殿」
今度は、重装歩兵側の顔役であるカレスがやってきた。青銅の兜を小脇に抱え、明らかに不満を押し殺した顔をしている。
「うちの連中に、さらに麦袋を背負わせると聞いた」
「はい」
「重装歩兵は、盾と槍だけでも重い。山道で余計な荷を背負えば、いざ敵が出た時に動けん」
「承知しています」
「なら、軽装歩兵に回せ。あいつらの方が身軽だ」
出た、とレオンは内心で天を仰いだ。こういう時、重装歩兵と軽装歩兵の話は必ずそこへ行く。花形と裏方。盾の誇りと荷駄の泥。どちらも必要なのに、どちらも相手が楽をしていると思っている。まったく、腹が減る前から揉めないでほしい。
「軽装歩兵には、投石紐、鉛弾、矢束、斥候用の水を持たせます。山では彼らが先に動けなければ、重装歩兵は敵のいる場所すら分かりません」
「だから、うちが麦を背負えと?」
「全員ではありません。各組から、足の残っている者を選んでください。代わりに、中央の水袋は重装歩兵の列に近づけます。戦闘になった時、あなた方が一番長く盾を構える。水を遠くに置く方が危ない」
カレスは黙った。完全には納得していない顔だ。だが、ただ理不尽に押しつけられたわけではない、と理解した顔でもある。
「……足の残っている者、か」
「はい。いまは武芸に秀でたものや力の強い者ではありません。明日の夕方まで歩ける者が一番の強者です」
「嫌な選び方をさせるな…」
「僕も嫌ですよ」
カレスは舌打ちした。
「隊の序列を変えるんだぞ、そんなに簡単にいうな。
……だが分かった。これが、最善なんだな?
だったらあとは、こちらで選ぶ。ただし、倒れたら担ぎ手を寄こせ」
「倒れる前に報告してください。それから、担ぎ手だって、歩けば減ります。人手は壺の中から湧くものではありません。倒れてからでは遅い」
「主計殿は、ずいぶん偉くなったな。フィロン殿と話してる気分だ」
「偉くなった覚えはありません。仕事だけ増えました」
カレスは鼻を鳴らし、背を向けた。
すこしは打ち解けてきたのかなとレオンは思った。
いや、多分気のせいだろうけど。
小さな失敗も、もちろん残った。不満は消えていない。火口も足りない。麦袋の重さは確実に誰かの肩に乗る。荷車を木材に変えたところで、山道そのものが広くなるわけではない。
それでも、少しずつ軍の形は変わっていった。荷駄獣の蹄を確かめる者。革紐を切って、足を守る巻き布を作る者。火口袋を外套の内側に入れて湿気を避ける者。傷治師が包帯布を数え、担ぎ手が棒を二本ずつ束ねていく。
夜が深くなるにつれ、宿営地の火は一つ、また一つと小さくされた。敵に見つからないためだけではない。燃やすものを惜しむためでもあった。火床係が灰を寄せ、まだ熱を持つ炭を土器の中へ移している。明日の火種にするためだ。
火まで背負って歩くのか。レオンはそう思い、すぐに首を振った。
背負うのだ。この軍は、火も、水も、傷も、不満も、全部まとめて背負って北へ行く。
「主計殿」
テオドルスが、最後の木札を差し出してきた。
「前衛、後衛、荷駄、傷治師、火床係への割り振り、ひとまず終わりました」
「ひとまず、ですね」
「はい。ひとまずです」
いい返事だ。完璧などと言われたら、逆に不安になる。
レオンは木札を受け取り、薄い灯りの下で目を通した。数字は合っている。いや、正確には、数字だけなら合っている。だが、現物は湿っているし、獣は疲れているし、人間は嘘をつく。それでも、何もないよりはましだった。
「これで、明け方には動けます」
レオンが言うと、ミュロンが低く笑った。
「動ける、か。越えられる、じゃねえんだな」
「そこまで大きな嘘はつけません」
「上等だ」
ミュロンは短く言い、荷駄の方へ戻っていった。
ダフネはレオンの横に立ったまま、北の暗がりを見ている。水袋を一つ、無言でレオンの胸に押しつけてきた。
「飲んで」
「今ですか」
「飲め」
レオンは逆らわず、水を飲んだ。冷たい水が喉を通り、空っぽの胃に落ちる。少しだけ、息ができた。
あ、これ、少しだけ葡萄酒が混じってる、ダフネのとっておきのヤツだ……
遠くで、触れ役のトルミデスが声を抑えて命令を回している。今夜は角笛を鳴らさない。敵に気づかれないよう、夜明け前、声と手振りだけで列を立たせることになっていた。
兵たちは冷たい土の上に腰を下ろし、荷を背負ったまま短い眠りに落ちていく。眠るというより、目を閉じて体を止めているだけだ。
レオンは帳面を閉じた。
北へ向く形は、どうにか作った。だが、北を越える力があるかどうかは、まだ誰にも分からない。
見えない山壁が、夜の向こうに横たわっている。そこには道がある。捕虜はそう言った。だが、その道が一万の人間を通してくれるかどうかは、別の話だった。
あとは、暗いうちに立つだけだ。
レオンは膝の上に帳面を抱えたまま、短く息を吐いた。
ぼくは、今夜も眠れる気はしない。
それでも、そっと目を閉じた。次に目を開けた時、この軍は北へ歩き出している。




