第75話 焦げ跡のない村へ戻る
来た道を引き返すというのは、想像以上に「軍」という巨大な生き物の体温を奪うものらしい。
ティグリス川の深く冷たい水流と、行く手を遮る険しい山地。その絶望的な行き止まりを突きつけられた一万の軍勢は、今、重い足取りで北から南へと反転していた。
(また戻るのか、という溜息が、砂埃と一緒に肺の奥まで入り込んでくるようだ)
レオンは、軋む荷車の列の脇を歩きながら、内心で苦いぼやきを漏らした。
兵たちの足取りは鉛のように重い。彼らにしてみれば、昨日まで命を削って稼いだ距離を自ら捨てるようなものだ。重装歩兵たちの自慢の盾は心なしか低く構えられ、青銅の兜の下の顔は一様に暗い。
「主計殿、本当にこっちで合ってるんだろうな? 俺たちの歩みは、そのまま兵たちの『進んで動く気』を削ってやがるんだ。無駄足なら、早めに言ってくれ」
横を歩くミュロンが、渇いた声で釘を刺してきた。彼の視線は、行軍の乱れを敏感に察知している。疲労は規律を蝕む。列が少しでも滞れば、そこから「戻るよりは投降したほうがましだ」という腐敗が始まりかねない。
「わかっています。ですが、あの川は渡れません。皮袋の橋など、敵の騎兵が対岸にいる状況では『勘定』にすら入りません。僕たちが今すべきなのは、無駄な前進ではなく、情報の空白を埋めることです」
レオンはそう答えながら、頭の中にある不完全な地図を弄っていた。
今目指しているのは、昨日の行軍中に視界の端に捉えていた、まだ焼かれていない村だ。敵の将軍ティッサフェルネスは、自分たちの進路を断つために焦土戦術を徹底しているが、この反転の速さなら、放火の触手が届く前に食糧と情報を確保できる。
一刻ほど歩いた頃、ようやく煙の上がっていない村の家並みが見えてきた。
村に入ると同時に、レオンは帳面を広げた。
「バウコス、獣を休ませてください。ただし、荷は解かない。
テオドルス、村の貯蔵庫を回って穀物の種類と量を数えさせて。
シラクサ、村人に土地の呼び名と、四方の道の行き先を聞き出して下さい。
『どちらが安全か』ではなく『どこに繋がっているか』を正確に」
レオンの指示に、みなが動き出す。兵たちが地面に座り込み、乾いたパンを齧る中で、レオンだけは泥にまみれた村の中を走り回った。
村の中央、即席の軍議の場では、クセノポンが険しい表情で捕虜たちと対峙していた。
「レオン、君の『目』が必要だ」
クセノポンが、こちらに気づいて手招きした。彼の周囲には、ケイリソポスや他の新将軍たちが集まっている。中心には、縄で縛られた数人の地元民が跪かされていた。
「彼らは四方の道について語っている。だが、どれも『死地』に見える。君なら、この情報をどう整理する?」
レオンは泥の地面に描かれた、歪な十字の図を覗き込んだ。
東は、エバタナとスサへ続く道。
「王の心臓部ですね。行けば間違いなく、軍としての形を保つ前にすり潰される。論外です」
西は、リディアとイオニアへ続く道。
「僕たちが来た道ですが、ティッサフェルネスの本隊が蓋をしています。食糧はすでに僕たちが食いつぶし、敵が焼き払った。今の消耗した軍で、あの広大な焦土を逆走するのは自殺行為です」
南は、バビロンへ続く道。
「敵の本陣へ飛び込むようなものです。論ずる価値もありません」
クセノポンが、残る一本の道――北を指差した。
「そして、この北だ。捕虜は、この先の山を越えればカルドゥコイ人の土地に出ると言っている」
レオンはその地名を聞いた瞬間、脳裏に古い塔の講義で聞いた、地理学者たちの記述を呼び出した。
「カルドゥコイ……王に従わず、険しい山地に住む好戦的な民ですね。かつて王が派遣した十二万の軍勢が、地形と彼らの抵抗によって、ただの一人も戻らなかったという……」
周囲の将軍たちの間に、戦慄が走った。これまで相手にしていたペルシアの正規軍よりも、はるかに恐ろしい「未知の敵」の存在。
「ですが、」
レオンはあえて声を張り、泥の上の地図を指でなぞった。
「捕虜はこうも言っています。そのカルドゥコイの山地を抜ければ、豊かなアルメニアの地に出られると。そこはサトラップ(総督)の領地ですが、王の支配は弱く、統制が効いてない。
何より道が広い」
レオンの頭の中では、数字が激しく入れ替わっていた。
(カルドゥコイの山を越えるのに、最短で七日。実際にはその倍はかかる?か。
その間の補給は現地調達に頼らざるを得ない。山地民との戦闘を考慮すれば、荷駄の損失は二割から三割。だが、アルメニアに出れば、冬を越すための穀量と飼葉は確保できる。追撃してくるティッサフェルネスの騎兵は、あの険しい山地には入ってこられない)
「クセノポン殿。東、西、南は、敵が僕たちの『死』を待っている道です。ですが、北だけは、敵が『追ってこられない』道だ」
レオンはクセノポンを真っ直ぐに見据えた。
「地形と民の抵抗は、僕たちで防げる範囲かもしれません。
ですが、王の大軍に囲まれれば、実務もクソもありません。僕たちは今、後ろに下がったのではない。北へ舵を切るための、助走に入ったんです」
クセノポンの瞳に、確信の光が宿った。
「決まりだな。諸君、我々は北へ行く」
クセノポンが立ち上がり、兵たちへ向けて声を張り上げた。その声には、単なる鼓舞ではない、レオンが提示した「生存の理屈」が裏打ちされていた。
レオンはふぅ、と長い溜息を吐き、帳面を閉じた。
すぐ傍らで、ダフネが無言で水袋を差し出してくる。受け取ると、水は驚くほど冷たく、渇いた喉を焼くように通り過ぎていった。
「……北の山、越えられると思うか?」
ダフネが、険しい北の稜線を見つめたまま、短く問う。
「越えるしかないんです。僕が、越えさせるための数字を出すから」
レオンは自分に言い聞かせるように答え、再び帳面を開いた。
軍は今、盲目ではなくなった。だが、その開いた目の先に映るのは、これまでで最も過酷な、神々すら見放したような険しい山脈だった。




