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第74話 皮袋の橋は夢のなかだけなら渡れる

 ティグリス川の深く重い水流が、灰色の空を映しながら音もなく流れていた。

 左手に巨大な川、右手に険しくそびえ立つ山壁。後方からはアルタクセルクセスの重臣ティッサフェルネスが率いる追撃軍の影が迫り、前方には見たこともないほど広く深い水面が横たわっている。

 一万の軍勢は今、文字通り袋の鼠となっていた。


(水深が人の背丈を超えれば、重装歩兵ホプリタイはただの鉄の塊だ。泳ぐことすらできず、川底の砂を掴みながら死ぬのを待つことになる)

 レオンは、川縁に立って濁流を見つめながら、帳面を握りしめた。渡河点を探るために派遣された偵察兵の報告は、どれも絶望的なものばかりだった。槍の柄をいくら突っ込んでも底に届かない。無理に渡ろうとすれば、溺死者の山が築かれるのは火を見るより明らかだった。

 将軍たちの幕舎では沈黙が支配し、実務官たちは顔を青くして数字の合わない配給帳を弄っている。このまま立ち往生すれば、飢えるか、背後から敵にすり潰されるか。二つの破滅が、じわじわと軍の輪郭を削り取っていた。


 その重苦しい沈黙を、一人のロドス人が破った。

「将軍諸君。私に考えがあります」

 ロドス人といえば投石の達人たちだが、彼らは同時に、島の人間らしい水の扱いにも通じていた。男はクセノポンとケイリソポスの前に進み出ると、自信に満ちた表情で地面を指差した。

「皮袋があれば、この大河を渡れます。それも、兵を一人も濡らさずにだ」


 皮袋。レオンは眉をひそめた。水やワインを運ぶ、あの獣の皮を剥いだ袋のことか。

「羊や山羊、牛の皮を剥いで袋にし、空気を吹き込んでしっかりと結び合わせる。それを二千ほど並べて繋ぎ、筏の土台にするのです。浮力は十分。その上に薪や木材を敷き詰め、土を被せて足場を固めれば、重装歩兵が列をなして歩いても沈まない『浮橋』が完成します」


 男が地面に図を描きながら滔々と語るにつれ、沈みきっていた将軍たちの顔に、一筋の光が差し込むのが見えた。

「浮きを固定するために、大きな石をおもりにして川底に沈めます。さらに、橋の上には砂を撒いて滑り止めにする。どうです、名案でしょう?」

 幕舎の周りに集まっていた兵たちの間に、熱を帯びたざわめきが広がった。

「皮袋なら、先ほどの村で奪った家畜が腐るほどあるぞ」「薪だって、村の廃屋を壊せば……」「行ける、これなら助かる!」

 絶望に打ちひしがれていた人間ほど、魅力的な工夫アイデアには脆い。クセノポンの瞳にも、かすかな期待が宿るのがレオンには見えた。


「素晴らしい発案だ」クセノポンが身を乗り出した。「主計。実務の面から見て、実行は可能か?」


 全軍の視線が、レオンに注がれた。

 期待。懇願。そして「できないとは言わせない」という無言の圧。

 レオンは帳面を開いたまま、頭の中で「勘定ロギスモス」を激しく回転させた。その思考は、熱に浮かされる兵たちとは対極の、氷のように冷たいものだった。


(川幅はおよそ四スタディオン。ロドス人の言う通り、二千袋の皮を繋げば対岸には届く。だが、その計算の先にあるのは何だ?)

 レオンの後ろで、古参の荷駄頭にだかしらであるバウコスが、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「無理だな。帳面の上では繋がっても、現場の現実は繋がらねえよ」

 レオンは頷き、重い口を開いた。

「……ロドス人の提案は、技術的には極めて賢明です。ですが、二つの致命的な欠落があります」


 レオンは、指を二本立てた。

「一つは資材の物理的な限界です。二千の皮袋を繋ぐための革紐かわひもはどこにありますか? 全軍の荷駄から荷締め革を解いて集めたとしても、四スタディオンもの長さを繋ぐことは不可能です。布を裂いて紐にすれば強度が足りず、川の勢いで千切れる。さらに、橋の上に敷く木材と土の総重量を計算してください。それを運ぶために、僕たちは貴重な駄獣の足を何頭潰すことになるか」


 ロドス人の男が顔を赤くして反論しようとしたが、レオンはそれを手で制した。

「それ以上に、致命的な欠落がもう一つ。……将軍。対岸を、よく見てください」


 レオンが指し示した対岸の砂浜には、豆粒のような影がいくつも動いていた。

 それは敵の騎兵だった。ティッサフェルネスの尖兵か、あるいは現地の太守の兵か。いずれにせよ、彼らは悠然とこちらを監視している。


「橋を架けるには、まず誰かが対岸に紐を渡し、固定しなければなりません。それは完全に無防備な水仕事です。敵の騎兵がそれを見逃すと本気で思っていますか?」

 レオンの言葉が、冬の風のように宿営地を吹き抜けた。

「橋が形をなす前から、敵は対岸で矢を構えて待っている。最初の数人が橋を繋ごうとした瞬間、彼らは一方的に狩られる。盾も構えられない、足場も安定しない水の上では、防戦すら不可能です。この橋は、『敵がいない』ことを前提にした、あまりに贅沢な夢物語に過ぎません」


 幕舎の周りの熱気が、急速に引いていくのがわかった。兵たちの顔に、再び濃い絶望の影が差し込む。

(……嫌な役回りだ。自分の仕事への執着が、みんなの希望を殺しているみたいで)

 レオンの内心に、ドロリとした自己嫌悪が広がる。だが、ここで「やってみましょう」などと甘い顔をすれば、何百人、何千人という兵が、皮袋と一緒に川底へ沈むことになるのだ。


「主計殿の言う通りだ」

 沈黙を破ったのは、ケイリソポスだった。この寡黙な前衛の将は、最初から対岸の敵情を測っていたらしい。

「ロドス人、知恵には感謝する。だが、我々には敵の目の前でこれほどの大工事を行う『安全な時間』がない。この案は却下する」

 クセノポンもまた、深く溜息をつき、レオンを見た。

「正しい判断だ、レオン。……諸君、夢は終わりだ。現実に戻ろう」


 ロドス人の男は肩を落とし、兵たちは呪詛のような溜息を漏らしながら散っていった。

 期待が大きかった分、反動もまた凄まじい。レオンに向けられる視線には、明らかな敵意すら混じっていた。

「坊ちゃん、冷てえこと言うじゃねえか」

 ミュロンが近づいてきて、嫌味っぽく笑った。だが、その目は笑っていない。

「……僕が言わなくても、誰かが言わなきゃいけなかったことです。できないことを『できる』と言うのは、実務官のすることじゃない」


 レオンがそう答えながら帳面を閉じようとすると、不意に視界の端で水袋が差し出された。

 ダフネだった。彼女は相変わらずの無表情で、だがレオンの乾いた喉を見透かすように水袋を差し出した。

「……飲め」

「あ、ああ。ありがとう」

 水は驚くほど冷たく、胃の腑に落ちるたびに、自分を縛り付けていた緊張が少しだけ解けるのを感じた。ダフネは、慰めの言葉など一つも口にしない。ただ、レオンが泥を被って「不可能」を宣告したその現場に、当然のように居合わせ、当然のように水を渡す。


「……嫌な役だったな」

 ダフネが短く、本当に短く呟いた。

「ええ、最悪です。でも、これでお互いの不得手が埋まるなら、帳簿役としては及第点でしょう?」

 レオンの精一杯の皮肉に、ダフネはわずかだけ口角を上げたように見えた。


 空はさらに暗さを増し、ティグリス川の濁流はいっそう不気味な音を立てていた。

 川は渡れない。山は険しい。後ろには敵。

 魅力的な逃げ道が潰えた今、軍に残された道は、より泥臭く、より危険なものしかなかった。


「……地図がないなら、知っている者から剥ぎ取るしかありません」

 レオンは、捕虜たちが収容されている天幕のほうを見据えた。

 希望を自分で潰したのなら、代わりの「確信」を泥の中から拾い上げるしかない。

 レオンの指は、再び帳面を強く握りしめていた。

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