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第73話 略奪と罠──統制を失った集団は烏合の衆と呼ばれる

 血を吐くような尾根の争奪戦を制し、急斜面を下りきったギリシア軍の眼下に広がったのは、拍子抜けするほど豊かな光景だった。

 ティグリス川に沿って広がる平原には、豊かな水を引いた用水路が走り、土壁で囲まれた大きな家屋がいくつも立ち並ぶ村落が点在していた。果樹が影を落とし、遠目にも丸々と太った牛や羊の群れが草を食んでいるのが見える。


「……嘘だろう。天国か、ここは」


 泥と血にまみれた重装歩兵ホプリタイの一人が、兜を脱いで呆然と呟いた。

 ほんの数刻前まで、山肌を這うように上がりながら死の恐怖と戦っていたのだ。極限の飢えと疲労の果てに、唐突に目の前に現れた「豊かさ」。それは、死線を越えた兵士たちの理性を吹き飛ばすには十分すぎる劇薬だった。


「飯だ! 村の中に穀物があるぞ!」

「羊を捕まえろ! 今夜は肉が食えるぞ!」


 誰かが叫んだのを合図に、ギリシア軍の強固な方陣ファランクスが、内側から弾けるように崩壊した。

 兵士たちが列を乱し、我先にと村へ向かって駆け出していく。槍を放り出し、重い盾を背中に回して、彼らはただの飢えた群れと化していた。


「おい、待て! 列を崩すな! まだ安全が確認されたわけじゃ……!」

 誰かが叫んだが、その声は歓喜の怒号に完全に掻き消された。


 それを見ていたレオンの背筋を、尾根の上の戦闘とは全く違う種類の、冷たくねっとりとした恐怖が這い上がった。


 まるでバルバロイだ。理性と知性はどこへやってしまったのだ、同胞たちよ。


 目の前の光景は、軍隊の死に直結していた。部隊の統制が失われ、兵が散り散りになること。それは、ティッサフェルネスの騎兵にとって「狩りの時間」が始まったことを意味する。


「主計殿! こいつは極上のヤシ酒だ! 絨毯や銀の器まであった!」

 騒ぎの中、隻眼のシラクサがどこからか抱え込んできた壺と布を誇らしげに掲げて戻ってきた。現地の商売と略奪に長けたこの男の目は、すでに金銭の計算に染まっている。

 従軍商人というのは、自分たちが狩られる側になることも多いので、略奪に躊躇が無い。というか手慣れている。


 今日か明日には、市が開かれ略奪品がならぶだろう。



「絨毯なんか捨てろ! 銀の器もいらない!」


 レオンは帳面を片手に、シラクサの腕から壺をひったくって凄んだ。

「僕たちに必要なのは、そんな重いだけの戦利品じゃない! 馬用大麦、小麦の粉、干し肉、それから清潔な布と傷薬だ! 戦利品で荷車を潰す気か!」


 レオンも十分に、山賊だった。

 同胞の醜態を見て、背筋を凍らせたレオンは、自分の管理する帳面を思い出した瞬間、理性と知性を備えた山賊になった。

 かれも十分にバルバロイ(何言ってるのかわからない連中)のひとりだ。


 豊かな物資を前にして、兵士たちの自制エンクラテイアは完全に崩壊していた。

 村のあちこちから、鶏の悲鳴や、扉を蹴り破る音が聞こえる。中には、食糧ではなく、持ち運びさえ困難な家具や飾り物を背負い込もうとしている愚か者までいる。


「おい貴様ら! 持ち場に戻れ! 散るなと言っているだろうが!」

 百人隊長ロカゴス、半隊長、分隊長たちが声を嗄らして怒鳴るが、一度「奪う快楽」に取り憑かれた兵士の耳には届かない。


 その時、欲に駆られて村の奥に向かって走っていこうとした若い兵士の足を、ダフネが無言で引っ掛けた。

 派手に泥の中へ転がった兵士が怒って振り返るより早く、彼女は冷たい目でその兵士の尻を蹴り飛ばし、荷車の方へと追いやった。


「痛えな! 何しやがる!」

「戦利品が欲しければ、死体になってから拾え。ここはまだ敵地だ」


 ダフネは剣こそ抜かなかったが、その立ち位置は明確に「これ以上列を離れる者は斬る」という意思を示していた。彼女は奪う側に回ることなく、ただレオンの周囲の荷駄だけを固守している。


 ダフネの警告が現実のものとなるのに、時間はかからなかった。

 村の東側、用水路の向こうから、黒い煙が上がり始めたのだ。


 減ったとは言え、約二万人の集団だ。

 それなりの広さに拡がっていた。

 隊列を組んで進むと先頭と最後尾は、それぞれ視認できない程度には長い列になる。


 その集団がさほど大きくない…集落よりは大きいが、控えめに言っても大きめのムラで、町の手前程度でしかないところに、押し寄せ…挙げ句、それが統制を無くしかけていたのだ、混乱の収集は容易では無い。


「火だ……!」

 誰かが叫んだ。一つではない。二つ、三つと、平原のあちこちの村落から一斉に黒煙が立ち上り始めた。風に乗って、焦げた麦の匂いが流れてくる。

 ペルシア側も、ただ逃げたわけではなかった。ティッサフェルネスは、ギリシア軍の進路上にある村々に自ら火を放ち、食糧と補給の拠点を焼き払い始めたのだ。焦土戦術だった。


「ぎゃあっ!」

 同時に、村の外れまで略奪に走っていた数人のギリシア兵が、突然現れたペルシアの軽騎兵に矢を射掛けられ、麦畑の中で倒れ伏すのが見えた。散り散りになった兵士たちは、重装の固い陣形を組むこともできず、格好の的として狩り殺されていく。


「 隊列を組み直せ!」

 前衛から駆け戻ってきたクセノポンが、血相を変えて叫んだ。

「敵は我々が略奪に夢中になるのを待っていたんだ! 燃やされる前に、必要なものだけを集めろ!」


 だが、混乱した現場はすぐには止まらない。煙の恐怖と、目の前の略奪品の執着が混ざり合い、兵たちは右往左往するばかりだ。前衛のケイリソポスが「火の回りが早すぎる、この村を捨てて前へ進むぞ」と伝令を飛ばしてくるが、このまま進めば、また食糧を持たずに荒野を歩くことになる。


(駄目だ。ここを凌いでも、次は焼け野原の中で飢え死にする)


 レオンは帳面を閉じ、荷車の上に立って息を吸い込んだ。軍議の理屈は要らない。今必要なのは、彼らの「腹の計算」を現実に引き戻すことだ。


「ミュロン!!」

 レオンの張り上げた声が、混乱する荷駄の列に響いた。古参の下士官が、血走った目でこちらを振り向く。


「兵を殴ってでも止めてください! 銀も絨毯も全部その場に捨てさせて!

 拾うのは『食える分』の穀物と、馬の飼葉かいばだけだ!

 他の荷物を持ってきた奴は、荷駄列から追い出してでも、捨てさせて下さい!」


「あぁ!?

 坊ちゃん何言ってやがる?!?

 気でも狂ったか?」


「燃やされるなら、ぼくたちが食う分だけ奪って、あとはどうでもいい!

 じゃ無いとみんな揃って飢え死にだ!


 荷駄の周りに円陣を組ませて、穀物袋だけを車に放り込ませて!」


 レオンの指示は、軍規でも道徳でもなく、ただ純粋な「生存の配分」だった。

 ミュロンは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに獰猛な笑みを浮かべた。若造の帳簿役が、ついに現場の論理を完全に飲み込んだのだ。


「聞いたな、てめえら! 坊ちゃんの言う通りだ! 光るガラクタを持ってる奴は腕を切り落とすぞ! 麦だ! 麦と豆だけを荷車に積め!」


 ミュロンが手近にいた兵から銀の水差しを叩き落とし、代わりにずっしりと重い小麦の袋をその腕に押し付けた。

 その光景が、周囲の古参兵たちにも伝播していく。ダフネが逃げ遅れた兵を強引に引き戻し、シラクサは、(少しだけ残念そうな顔をして)部下へ指示を出し、本人も素早い手つきで食糧の袋だけを選別して荷台へ放り投げる。


「そこだ! 盾を並べろ! 穀物を積んだら、荷車を囲んで槍を構えろ!」

 クセノポンもレオンの意図を即座に察し、散っていた重装歩兵たちを指揮して、火の手が迫る村の中心で防衛の円陣を急造させた。


 周囲の家屋が炎に包まれ、熱風が頬を焼く中、ギリシア軍は間一髪で必要な物資の確保に成功した。燃え盛る村を背に、彼らは重い穀物袋と飼葉を積んだ荷車を守り抜き、再び隊列を整える。


 だが、全員が戻れたわけではない。遠くの畑では、欲をかいて散った数名の兵士の遺体が、容赦なく燃え広がる炎に飲み込まれようとしていた。豊かさに目が眩んだ代償は、確かに支払わされたのだ。


「……助かったぜ。

 ありゃあ、いい感じに若え奴らの頭に水をぶっかけてくれた。

 主計殿が、あそこでああもキッパリ「食い物とって来い!じゃ無いと飢えるぞ!」って言ってくれなきゃ、もっと死んでいた」


 煤けた顔を拭いながら、ミュロンが言った。彼はレオンの指示に一切の疑問を差し挟まなかった。数字と生存を直結させるこの若者の判断と欲得づくででも兵士の頭を冷やさせた彼を、現場の頭として完全に受け入れたのだ。


 夜になり、軍は燃え残った村の端で宿営を張った。

 確保した食糧のおかげで、久しぶりに腹を満たすことはできた。兵士たちの顔には、ささやかな充足感が漂っている。


 しかし、見張りの火床のそばで、レオンの心は冷え切っていた。

 彼は帳面を開くこともせず、暗闇の先をじっと見つめていた。ダフネが無言で隣に座り、水袋を差し出す。


「……食糧はなんとかなった…でも、道がないな…


 ペルシアも酷いことをする。


 焦土戦略か…塔で見てたけど、実際やられると、かなり効果的だな…


 これ、どうするのが正解なんだ?…」


 レオンの形にならない呟きに、ダフネは何も答えず、ただ静かに同じ方向を見た。

 豊かな平原の先。右手には渡ることの不可能な深く激しいティグリス川が立ち塞がり、左手には、天を突くような険しい山脈が黒々とした壁のように連なっている。

 彼らは豊かな平原に辿り着いたのではない。川と山、そして焦土戦術に出た敵軍に挟まれた、巨大な袋小路に追い込まれただけなのだ。


 このまま平原に留まれば、やがて燃やす村すらなくなり、すべてが尽きる。

 腹が満たされた静寂の中で、次の絶望が彼らを待ち構えていた。

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