補章9 頂の争奪戦
肺が破れそうだった。喉の奥からは血の匂いがし、兜の中で流れる汗が目に入って視界を滲ませる。
だが、ステュンパロス出身の百人隊長アガシアスの足は止まらなかった。
「止まるな! あと少しだ! 敵の顎の下に喰らいつけ!」
アガシアスは吠えながら、泥だらけで急斜面を蹴り上げた。
右腕に握った長槍を杖代わりに突き立て、左腕に縛り付けた分厚い木と青銅の大盾で頭上を覆う。
バラバラと、雨霰のような音を立てて石や矢が盾の表面を叩いていた。上を取っているペルシア側の弓兵や投石兵が、死に物狂いでギリシア軍の登頂を阻もうとしているのだ。
ペルシア兵の矢は鋭いが、重装歩兵の青銅の兜と大盾を真っ向から貫くほどの重さはない。問題は、この斜面という地形そのものだった。重さ二十キロを超える武具を背負い、急斜面を登りながら石の雨に耐えることは、兵士たちの体力を限界まで削り取っていた。
だが、軍の士気は異常なほどに発熱していた。
少し前、斜面の中腹でクセノポンが馬を降り、一人の兵士から盾を奪って泥の中を歩き出したあの瞬間から、前衛の熱量は爆発していたのだ。
将軍にあんな真似をさせて、俺たちがこの斜面を登りきれないわけがない。
そして「前へ!前へ!前へ!」だ。
理屈ではない、男たちの狂気にも似た闘争心が、重い青銅の塊を山頂へと押し上げていた。
「来るぞ! 盾を合わせろ!」
アガシアスが叫んだ直後、ついに斜面の傾斜が緩やかになり、頂上の稜線が視界に開けた。
待ち構えていたペルシア兵の部隊が、剣と短い槍を構えて一斉に殺到してくる。彼らは小札を編み込んだ鎧を着こみ、柳の枝を編んだ籐盾を横に並べて即席の壁を作っていた。
ガガァンッ! と、耳を劈く金属音が轟いた。
アガシアスの放った長槍の穂先が、ペルシア兵の籐盾をいとも容易く貫き、その背後にいた兵士の胸元に深々と突き刺さった。
ペルシアの籐盾は矢を防ぐには軽くて優秀だが、ギリシア重装歩兵の全体重を乗せた長槍の刺突を防ぐ強度は持っていない。
「押し込めえぇぇッ!」
アガシアスは槍を引き抜かず、そのまま自らの大盾の表面を敵の身体に叩きつけた。後ろに続く兵士たちも、左右の盾の端を重ね合わせるようにして、隙間なく分厚い青銅の壁を形成する。
これこそが、平原で無敵を誇ったギリシアの方陣の圧力だ。山の頂という狭い戦場において、彼らは密集し、ただ前へ前へと力任せに押し込んだ。
「ひっ……!」
ペルシア兵の顔に、明確な恐怖が浮かんだ。
下から這い上がってきたはずの敵が、息も絶え絶えに倒れ伏すどころか、獣のような咆哮とともに殺戮の壁となって迫ってきたのだ。
ペルシア兵が振るうアキナケス(短剣)が、アガシアスの兜を掠め、火花を散らす。しかし、アガシアスは瞬き一つせず、踏み込んだ右足の力だけで敵の陣列を強引に数歩後退させた。
前列の圧力が敵の籐盾の壁を歪ませたその瞬間、アガシアスの後ろから飛来した無数の短い投げ槍が、無防備になったペルシアの後列に降り注ぐ。後方から追いついてきた軽装歩兵たちの援護射撃だった。
「崩れたぞ! 踏み潰せ!」
前線に復帰し、馬上で剣を抜いたクセノポンの通る声が響いた。
将軍の檄を受け、アガシアスは躊躇なく敵の陣列の裂け目へと突っ込んだ。盾の縁で敵の顎を砕き、折れた槍を捨てて腰の短剣を引き抜く。
肉を断ち切り、骨を砕く鈍い音が頂上のあちこちで響き渡った。
もはや戦術の差ではなかった。
ただ単に、「何としてもこの頂を奪わなければ後が無い」というギリシア軍の生存本能が、「わざわざ死兵と化した重装歩兵と真っ向から殴り合いたくない」というペルシア側の戦意を完全に凌駕したのだ。
「逃げろ! 奴らは狂っている!」
ついにペルシア兵の一人が籐盾を放り出し、山の反対側へと逃げ出した。
それは決壊の合図だった。一人、また一人と、ペルシアの陣形が内側から瓦解していく。彼らは自らの足枷となる重い防具を捨て、背中を見せて斜面を転がり落ちていった。
逃げているのか転落しているのか…あれでは無事には済まなそうだ。
斜面を転がり落ちると簡単にいっても、あちこちで石や岩などが突き出している斜面だ。下に転がり落ちるころには、確実に身動きが取れなくなるか、死に至るような状態だろう。
「追うな! 陣形を保て! ここが我々の新たな砦だ!」
血に飢えた兵士たちが深追いしようとするのを、ケイリソポスとクセノポンが即座に制止する。
アガシアスは荒い息を吐きながら、敵の血で赤く染まった剣を振り下ろして血糊を払った。
槍はどこかで捨てていた。
いつ、剣を抜いたのかも覚えていない。
そのくらいの激闘だった。
眼下に広がるのは、遥か遠くまで続くティグリスの平原と、燃え盛る村々の煙。そして、背後の眼下には、レオンやミュロンたちが死に物狂いで守り抜いている、自分たちの命綱である荷駄の長い列があった。
「……ざまあみろ」
アガシアスは兜を脱ぎ捨て、夕焼けに染まる空に向かって雄叫びを上げた。
それに呼応するように、頂を制したギリシアの重装歩兵たちの咆哮が、地鳴りのように轟いた。彼らは自らの力で、死の袋小路を…なんというか謂わば力尽くでこじ開けたのだ。




