第72話 前へ!前へ!前へ!
肺が焼けるような、鉄の味がした。
急峻な山の斜面を、数千の足が踏み荒らしていく。道などない。あるのは剥き出しの岩肌と、滑りやすい赤土、そして行く手を阻む低い灌木だけだ。
レオンたちは、後衛の荷駄列を守るために足を止めていた。
前方の山頂へと続く斜面では、重装歩兵たちが、重い青銅の兜と大盾を抱えながら、血を吐くような喘ぎ声を漏らして登っている。
「……信じられない。あの斜面を、重装で行くつもりか」
レオンは、土手の陰に荷車を固定しながら、上方の光景を仰ぎ見た。
競争だった。
敵の占拠した尾根よりさらに高い、山の頂。そこを先に取った方が、この戦域の支配権を握る。ペルシア側もそのことに気づき、山側から登頂を試みているのが見える。どちらが先に、あの雲に近い頂に槍を立てるか。その一点に、軍の生死が懸かっていた。
その時、斜面の中ほどで馬のいななきが聞こえた。
クセノポンだった。彼は馬に跨り、岩場の合間を縫うようにして、登坂に苦しむ兵士たちのすぐ側まで駆け上がっていく。
「諸君、急げ! 頂を取ればこの苦しみは終わる! 今この一刻を耐えることが、我々を故郷へと繋ぐのだ!」
通る声だった。アテナイア仕込みの弁論の技術が、恐怖と疲労で凍りつきかけた兵士たちの耳に、温かい火を灯すように届く。クセノポンの存在は、今のギリシア軍にとって、進路を示す北極星のようなものになりつつあった。
だが、その輝きを「疎ましい」と感じる者も、またこの荒れた軍の中には存在した。
「……勝手なことを言いおって。お前は馬の上で、我々を見下ろしているだけではないか」
一人の兵士が、膝をついて喘ぎながら呪うように吐き捨てた。
シキュオン人の重装歩兵、ソテリダス。彼は泥にまみれた大盾を岩に立てかけ、憎悪に満ちた目で馬上のクセノポンを睨みつけた。
「クセノポン殿! あんたはいいさ、足元を気にする必要もない馬に乗って、我々に『急げ』と命令していれば済むのだからな。こっちは重い盾と槍を背負い、死に物狂いで泥を這っているんだ。馬上の人間と、地の底を這う人間が対等なわけがないだろう!」
その言葉は、周囲で限界を迎えていた兵士たちの心に、毒のように浸透した。
そうだ、という小さなざわめきが広がる。不公平。それは極限状態の組織を内側から食い破る、最も鋭い刃だ。レオンは後方からそのやり取りを見守りながら、胃の奥が冷たくなるのを感じた。
(まずい……ここで足が止まれば、頂は取られる)
理屈はソテリダスの側にある。馬上の将軍と、重装の歩兵。その負担の差は、誰の目にも明らかだ。クセノポンがどう弁明しようと、その事実を消し去ることはできない。
だが、次の瞬間、クセノポンの取った行動は、レオンの――そして、全兵士の想像を絶するものだった。
「そのとおりだ!分かった! 実にまったく、君の言う通りだ!」
クセノポンは馬から飛び降りた。
躊躇いも、屈辱の色もなかった。彼は驚愕するソテリダスの手から大盾を「奪い取った」のだ。
「どけ。君がそこまで重いと言うのなら、私がその盾を持とう。私が君の代わりに歩く。さあ、馬に乗れ。君には馬上で命令する権利をやろう」
一瞬、空気が凍りついた。
クセノポンは、本当に兵士の重い青銅の盾を腕に通し、泥だらけの甲冑のまま、歩兵の列の中へ踏み込んだ。彼は馬上の優雅な客分ではなく、土の匂いと汗の蒸気にまみれた、一人の重装歩兵としてそこに立ったのだ。
「な、何を……」
「さあ、急げ! 頂が敵に取られようとしている。私が盾を持って登る。君は馬の上で、私を追い越して行け!」
クセノポンは、盾を構えて斜面を蹴った。
その背中は、ソテリダスのそれよりずっと小さく見えた。だが、その足運びには、単なる勇気とは異なる、ある種の「異様な冴え」があった。
彼は盾の重さに顔を歪めながらも、一歩、また一歩と、自分を呪った兵士の代わりに泥を掴んで登り始めたのだ。
その光景を見た兵士たちの目に、火が走った。
「何をしているんだ、ソテリダス! 将軍を歩かせ、お前が馬に乗るつもりか!」
「盾を返せ! クセノポン殿、我々が、我々こそがその盾を運ぶ!」
クセノポンの大きな声が、レオン達のところまで聞こえてきた。
「みな!行こう! 前へ!前へ!前へ!」
それは、演説の美しさでは決して生み出せない熱狂だった。
兵士たちがソテリダスを突き飛ばし、あるいは石を投げつけ、クセノポンから盾を取り戻そうと群がった。ソテリダスは馬に乗ることもできず、ただ周囲の激しい怒りに晒され、這うようにして再び歩き出すしかなかった。
「……見たかよレオン。人を動かすってのは、ああいうのをいうんだな」
いつの間にか隣に立っていたミュロンが、皮肉めいた、しかし隠しきれない敬意の混じった声で呟いた。
レオンは、言葉を失ってその光景を刻みつけていた。
クセノポンは結局、兵士たちに懇願される形で馬に戻ったが、その時にはすでに、軍全体の「足」は変わっていた。
(理屈じゃないんだ……。あんな無茶苦茶な、効率の悪いやり方で……)
レオンのような実務の人間から見れば、将軍が盾を持って体力を削るのは、リスク管理として最低の愚策だ。だが、現場の体温を上げるための燃料としては、それは最高級の劇薬だった。
兵士たちの足音が、変わった。
先ほどまでの死を待つような重い足取りではなく、地を削り、岩を砕くような、猛烈な行軍の響きへと。
「競争だ! 頂を取れ!」
叫びがこだまする。
ギリシアの重装歩兵たちは、もはや人間ではなかった。怒りと誇りに突き動かされた青銅の塊だった。
頂上付近で、ペルシア側の歩兵と激突する。
だが、結果は明白だった。山の下から将軍と共に「這い上がってきた」者たちの勢いは、守備的に配置されていた敵の想像を絶していた。
一番槍が頂に立った。
ギリシア軍の咆哮が、雲を裂くようにして四方に轟いた。
「……取った。これで、首が繋がった」
ダフネが、剣の柄から手を離して短く息を吐いた。
レオンは、震える手で帳面を開いた。
頂を占拠したということは、進路が開かれたということだ。荷駄列も、負傷者も、まだ先へ進むことができる。
しばらくして、斜面を下りてきた兵士たちの顔を見た時、レオンは言いようのない戦慄を覚えた。
彼らの目は、死にかけていた敗残兵のそれではない。自分たちはこの極限状況の中で、自らの手で道を選び取ったのだという、傲慢なまでの自信に満ちていた。
そして、その中心には常にクセノポンがいる。
(クセノポン……。あの人は、本当に・・・前へ!前へ!前へ!なんだ)
レオンは、かつて自分がいた学問の塔を思い出した。そこでは言葉がすべてだった。言葉で定義し、言葉で分類し、言葉で解決を図った。
だが、この戦場という巨大なオイコノミア(家政・運営)においては、言葉以上に重い「身体」が必要とされる瞬間があるのだと、レオンは身をもって知った。
「主計殿、感心してる暇はなぞねえぞ。頂が取れたってことは、これからあの絶壁を荷車で越えるってことだ。帳面の顔をしてる場合じゃない、腕を貸しな」
ミュロンが、レオンの肩を乱暴に叩いた。
そうだ。英雄が頂を取った後には、必ず「実務」という名の泥沼が待っている。
レオンは、自分の小さな、まだ指の白い手を見た。
クセノポンのように盾を持って兵を鼓舞することはできない。だが、その英雄たちが飢えないように、その足音が止まらないように、帳面と配分を死守することはできる。
「分かってますよ。……テオドルス!上に着いたら 欠員を数え直しましょう。頂上で使った槍の補充、予備の紐、それから水だ。日のあるうちに配り切るぞ」
レオンは、夕闇が迫る尾根の上で、自分の役目へと走り出した。
頂は取った。だが、旅はまだ、始まったばかりなのだ。
背後で、再び軍全体の出立を告げる角笛が鳴り響いた。
その音は、もはや恐怖の調べではなく、北へと向かう力強い鼓動のように聞こえた。




