第71話 先回りされた尾根
あれから四日目の夕刻。ティグリス平原を抜けようとしていたギリシア軍の行く手で、不自然に隆起した細い尾根が見事に塞がれていた。
道なりに進めば必ず通らねばならないその高みには、夕闇を背にした無数のペルシア兵がすでに陣を敷いていた。青銅の鱗鎧や、小札を編み込んだ籐盾が、沈みゆく太陽の赤い光を反射して不気味に瞬いている。彼らはただ道を塞ぐだけでなく、完全な見下ろす位置からギリシア軍の縦隊を射程に収めようとしていた。
「どういうことだ……。昨夜も我々は、陽が落ちてから進んだはずだぞ」
止まった荷車の上から背伸びをして前方を見たレオンの口から、乾いた声が漏れた。
ティッサフェルネスは愚かではなかった。夜の行軍で距離を離されると悟った敵は、こちらのさらに上を行く強行軍で大きく迂回し、ギリシア軍の進路を完全に塞ぐように先回りしていたのだ。
前衛の歩みがピタリと止まったことで、玉突き事故のように中衛から後衛にかけての荷駄列が急激に詰まり始める。
「止まるな! 荷車を右の斜面へ寄せろ! 射線から外れるんだよ!」
ミュロンの割れ鐘のような怒鳴り声が飛ぶが、平原が尽きかけて狭くなった道幅では、荷車を避けるにも限界がある。慌てた荷駄獣のいななきと、車輪が石に乗り上げて軋む悲鳴のような音が連鎖し、宿営の静けさを求めるはずだった夕暮れの空気を引き裂いた。
レオンは停滞した荷車の車輪止めを蹴り込みながら、前方の尾根と、そして――嫌な予感に駆られて振り返り、後方を見た。
背筋に、氷の刃を当てられたような冷たいものが走る。
後方の地平線から、おびただしい土煙が立ち上っていた。ティッサフェルネスの本隊だ。
夜の行軍で引き離したはずの彼らは、前方の別働隊が道を塞ぐこの瞬間に合わせ、一気に間合いを詰めてきている。
(前と後ろ、完全に挟まれた……!)
前列からは尾根の上の敵が降らせる矢と石の恐怖が、後列からはティッサフェルネスの騎兵が迫る土音が、同時に荷駄を圧迫してくる。
レオンの頭の中で、生存のための勘定が激しく弾け飛んだ。前を突破できなければ、前衛から順に削り殺される。だが、後ろの防御を薄くして荷駄が襲われれば、食糧と水と替えの武具を失い、結局は全員が死ぬ。どちらを選んでも、待ち受けているのは破滅だ。
前衛と後衛の間には距離があり、伝令が走るタイムラグの間にも、軍の腹部である荷駄列は刻一刻と圧迫されていく。
「主計殿! 道を開けろ! 前のケイリソポス将軍から伝令だ!」
息を切らせた若手の兵が、後衛を指揮するクセノポンの元へ駆け込んでくるのが見えた。レオンも思わず帳面を抱えたまま、護衛のダフネを伴ってその場へ近づく。
「ケイリソポス将軍より! 『尾根の上が占拠された。ただちに軽装歩兵をすべて率いて前衛へ合流せよ』とのことです!」
その言葉を聞いた瞬間、レオンの口から悲鳴に近い反論が飛び出しそうになった。
(軽装歩兵をすべて前へ? 冗談じゃない!)
撤退戦において、軽装歩兵は単なる下働きではない。重装歩兵の分厚い盾の壁は堅牢だが、彼らには機動力がない。その後ろから迫るペルシアの弓騎兵を、投石や短い投げ槍で牽制し、距離を保たせているのは身軽な軽装歩兵たちなのだ。彼らをすべて前衛に引き抜けば、後ろの荷駄列はティッサフェルネスの騎兵の前に丸裸になる。
「ふざけるな、前が勝っても荷が死ねば終わりだぞ!」
横から、ミュロンがレオンの内心をそのまま言葉にして吐き捨てた。古参下士官の目は、後方から迫る土煙を鋭く睨みつけている。
重装歩兵の顔役であるカレスも、青銅の兜を揺らして不満を爆発させた。
「軽装の連中がいなくなれば、俺たちが騎兵の的になるだけだ! ケイリソポスの将軍殿は、後ろの都合なんてこれっぽっちも考えちゃいねえ!」
怒号が飛び交う中、後衛の指揮を執っていたクセノポンは、レオンたちの切迫した顔をちらりと見た。
ケイリソポスは前衛を預かる将軍として「目の前の壁をどう突破するか」しか見ていない。だが、それは前衛将軍としての正しい判断だ。突破できなければ全滅するのだから。
しかし、後ろを預かる現場としては絶対に呑めない命令だった。
クセノポンの決断は速かった。彼はすぐに伝令へ向き直る。
「ケイリソポス将軍にはこう伝えろ。『後衛をティッサフェルネスに晒すわけにはいかない。軽装歩兵はここに残し、私自身が前へ向かう』と」
言うが早いか、クセノポンは馬に飛び乗り、後衛の指揮を重装歩兵の隊長たちに短く引き継ぐと、少数の騎乗護衛だけを連れて前衛へと駆け出していった。
レオンは、巻き上がる土煙の中に消えていくその背中を見送るしかなかった。
前方の尾根の危険と、後方から迫る大軍の圧力。軍議で長い言葉を交わす暇はない。誰が前へ出て突破口を開き、誰が後ろに踏みとどまって血と荷を死守するのか。軍事判断と実務の切り分けが、この極限の状況下で否応なくはっきりと線を引かれたのだ。
前へ出る者がいるなら、後ろの瓦解を防ぐ者がいなければならない。
「ぼやっとしてる暇はねえぞ、坊ちゃん!」
ミュロンの荒い声で、レオンは現実に引き戻された。
しばらくして、前衛の様子が異様なざわめきと、遠く響くトルミデスの怒号に乗って伝わってきた。
「クセノポン将軍が、さらに上を取るつもりのようだぞ!」
カレスが重装歩兵の列の中から声を上げる。
レオンは目を凝らした。敵が陣取る尾根は、さらに高い山の頂へと連なっている。敵の頭上を押さえる山の頂を、どちらが先に取るか。その競争に勝たなければ、この道は抜けられないのだ。
前衛からの号令が、風に乗って微かに響く。
『あの頂まで競争だ! 遅れるな!』
(あそこまで登るのか……!)
見上げるような急斜面だ。馬など登れるはずもない岩肌を、重い青銅の兜と大盾を持った歩兵たちが、這うように登り始めているのが見える。
「前の連中が上を取り切るまで、俺たちはここを動けねえってことだ。後ろの敵が突っ込んでくるぞ!」
ミュロンが剣を抜き放ちながら吠えた。振り返れば、ティッサフェルネスの前衛騎兵の姿が、もう肉眼ではっきりと馬の毛色まで判別できる距離に迫っていた。彼らが放つ矢が、乾いた音を立てて後方の荷車の木枠に突き刺さる。
「ダフネ! 負傷者の乗った車を最前列の内側へ押し込め! 投石兵は重装歩兵の盾の陰に入って応戦させろ!」
ミュロンが叫ぶ。
レオンには、恐怖を感じる暇すら、今の彼には与えられていない。ただ圧倒的な忙しさと、自分の周りで、また数十人の命が消えるという重圧だけがそこにあった。
「分かった」
ダフネは短く答え、レオンの肩を掴んで分厚い木材を積んだ荷車の太い車軸の陰へ強引に押し込んだ。自身は小さな革張りの盾を構え、飛んでくる矢の射線を遮る位置に立つ。
戦闘になると完全にお荷物だった。
彼女の言葉の慰めはない。だが、彼女が死線とレオンの間に立つという事実が、レオンにとって何よりの支えだった。
前衛ではクセノポンが言葉と身体を使って兵を立たせ、山の頂を目指している。
ならば、自分がここで後ろの荷駄と兵の命を繋ぎ止めなければ、軍は真っ二つに引き裂かれて終わる。
(ここで荷駄列を崩すわけにはいかない。荷を守るのが、僕の……いや、僕たちの仕事だ)
頭上を風を切って矢が通り過ぎる中、レオンは自分の持ち場を刻み付けるように帳面を帯にねじ込み、震える手で荷駄獣の革手綱を握りしめた。
前衛が山のさらに上を目指す、血を吐くような競争が始まった。




