補章8 助かるものから先に...
丘からの矢と石の雨を抜け、ティグリス平原の村へ転がり込んだ軍は、泥と血の匂いに包まれていた。
勝ったわけではない。かといって、全滅したわけでもない。ただ、動けなくなって止まっただけだ。一番腹が減り、一番苛立ちが募る種類の静けさだった。
村の広場には臨時の天幕が張られ、八人の外科医が刃と煮沸用の鍋を並べていた。だが、すべてが足りない。水も、傷を縛る布も、何より彼らの手が足りていない。
次々と運び込まれる負傷兵の列を見て、レオンは帳面を握る手にぐっと力を込めた。誰から先に診るかで、すでに怒鳴り合いが始まっていたからだ。
「おい、こっちの列を先にしろ! 前衛が崩れたら誰が矢を弾くと思ってやがる!」
重装歩兵の百人隊長であるカレスが、血まみれの部下を指差して怒鳴った。
「ふざけんな。その前列の重たい体をここまで担いで戻したのは俺たちだぞ!」
軽装歩兵の一人が言い返し、互いの槍の石突が地面を強く叩く。
痛みに呻く者たちの上で、五体満足な者たちが怒鳴り合う。物が足りないのに人の声だけが増えていく。
レオンは小さく息を吐いた。
怒鳴っている者、呻いている者、もう声も出ない者。
同じ負傷者の列に見えても、そこにはすでに順番が生まれていた。
情で動けば、救えるはずのものたちまで、崩れ去ってしまう。
「声が大きければ血が止まるわけではありませんよ、カレス殿」
レオンは配給帳を片手に、怒鳴り合う男たちの間に割って入った。丁寧な口調の裏に、冷ややかな棘を混ぜる。
「主計殿。引っ込んでろ、帳簿役が出る幕じゃねえ」
「帳簿役だから出ているんです」レオンはカレスの威圧を真っ向から受け流し、外科医の前の列を指差した。「誰から先に診るか。兵科で分けるのはやめてください。外科医の手は八つしかない。傷の深さと兵科は関係ない」
「なら何で分けるってんだ」
「歩けるか、運べるか、です」
レオンはためらわずに言い切った。
「歩ける者は後回しでいい。傷を洗って布を巻けば自力でついて来られる。次に、処置をすれば『担ぎ手二人』で運べる者。……今夜を越えられない者、手足を切っても三日もたない者は、最後に回します」
場が水を打ったように静まり返った。それは、助からない者を見捨てると口にしたに等しかったからだ。
「てめえ……坊ちゃんよ…自分の言ってることがわかってんのか」
カレスが剣の柄に手をかけた時、その後ろから太い声が飛んだ。
「主計殿の言う通りだ。怒鳴る暇があったら担ぎ手を作れ!」
半隊長のミュロンだった。彼は肩に担いでいた血まみれの布束をどさりと放り投げ、カレスを睨み返した。
「前列を治しても、そいつが歩けねえなら置いてくしかねえんだ。主計殿、担ぎ手は何人要る」
「……重傷者の数を考えると、最低でも四十組。荷駄獣も五頭は怪我人用に回したい」
「わかった。軽装歩兵から手の空いてるやつを引っ張る。荷駄頭のバウコスに言って、空になりかけの穀物車を一つ空けさせろ」
ミュロンはレオンの冷たい数字を、そのまま現場が動ける言葉へと訳し直して叩きつけた。彼が荷駄獣の差配に動き出すと、カレスも忌々しげに舌打ちをして、自陣の怪我人の選別に渋々戻っていった。
ダフネは何も言わなかった。ただ、怒気を含んで立ちふさがる重装歩兵の肩を無言で押し退け、レオンの視界と動線を確保する位置に立っていた。
助かる者から先に運ぶ。
助からない者には、水も布も、できるだけ少なくする。
それは計算としては正しかった。正しすぎて、吐き気がした。
(僕だって、切り捨てられた側だったのに)
塔に席がないと言われた日のことを、こんな場所で思い出すとは思わなかった。
不要だと判断され、外へ押し出された。あのとき自分は、切り捨てる側の人間を憎んだはずだった。
なのに今、僕は帳面の上で線を引いている。
この者は運ぶ。この者は後に回す。この者には、もう布を使わない。
(僕は、同じことをしているのか)
答えは出なかった。
ただ、答えが出るまで待てるほど、この集団に余裕がなかった……目に見えない血がだらだらと流れているのだ...待てば、全体が失血死する。
列の整理がつくと、次は現物の不足が牙を剥いた。
水だ。村の井戸だけでは、泥と血を洗い流すための清水が圧倒的に足りない。
「レオン殿、これでは傷が洗えません」
外科医の一人が血まみれの手を上げて叫んだ。
「……今出します」
レオンは空の桶の前にしゃがみ込み、目を閉じた。集中し、手のひらから微弱な水魔法を絞り出す。半日かけてようやく桶一杯程度の清水にしかならない、役に立たないと見なされた魔法。だが今、この泥にまみれた村では、不純物のない水は何よりも値打ちがあった。
桶の底に水が溜まっていく。それだけでは足りず、レオンは外科医の横に立ち、煮沸用の鍋の下で消えかかっている火種に弱い火魔法を送り込んだ。さらに、湿気を吸って使い物にならなくなった古い包帯や火口の束を手に取り、乾燥の補助をかけていく。
奇跡は起きなかった。
水を出したからといって、一瞬で傷が塞がるわけではない。レオンの魔法は、外科医が仕事をするための土台をほんの少し整えたに過ぎない。
三度目の水を絞り出した時、激しい頭痛がこめかみを殴りつけた。目の奥が焼け付くように痛み、強烈な疲労が全身から体温を奪っていく。
地面に膝をつきそうになった瞬間、横から無言で皮袋が差し出された。ダフネだった。
彼女は慰めの言葉一つ口にせず、ただレオンの手に冷たい水袋を押し付けると、再び周囲の警戒に戻った。レオンは震える手でそれを受け取り、喉を鳴らして水を飲んだ。
手当てを受けた者の中から、息を吹き返す者が出た。同時に、桶一杯の水も虚しく、冷たくなっていく者もいた。助かる者は助かるし、だめな者はだめだった。魔法が万能ではないことを、レオンは自分自身の手の震えで嫌というほど理解していた。
夜。
火床の数が減った暗い宿営の端で、レオンは記録係のテオドルスとともに帳面を開いていた。
炎の揺らめきの中で、羊皮紙に書き込まれていく名前。それを三つの束に分けていく。
『歩ける者』
『担げば動かせる者』
『今夜を越えられない者』
「主計殿……この三つ目の名簿の人たちは、どうするんですか」
テオドルスが震える声で尋ねた。
「置いていくわけにはいかない。だが、軍の足より遅れるなら、最後は……」
レオンはそこまで言って口をつぐんだ。
自分が非情になったわけではない。非情な順番を引き受ける側に回ってしまったのだ。顔を知っている兵の名前を三つ目の束に書き込むたび、胃の腑が鉛のように重くなった。あとでこの帳面を見返したくはなかった。
だが、自分がここで決めておかなければ、明日の行軍で軍全体が共倒れになってしまう。
不意に、脛を硬い靴先でこつんと小突かれた。
顔を上げると、ダフネが見下ろしていた。彼女の手には、新しい薪が握られている。
「火が落ちる」
それだけ言うと、彼女は手際よく薪をくべ、火勢を戻した。レオンが抱え込んだ重圧を軽くするような甘い言葉はない。ただ、彼が凍えず、手元が見えるように環境を整えるだけだ。それが彼女なりの「お前は間違っていない」という支えなのだと、レオンにはわかっていた。
翌朝、軍は動かなかった。その次の日も。
三日停滞した。傷兵を抱えたまま進む限界だった。だが、この三日で傷口が塞がり、自力で歩けるようになった者が確かに増えた。
そして、軍が止まって陣を固めたことで、追撃してきていた敵の騎兵たちも、被害を恐れて距離を取り始めていた。
四日目の夕暮れ時。触れ役のトルミデスが、よく通る声で宿営地に号令を響かせた。
『全軍、荷をまとめろ! 敵は夜を恐れる。我々は日が落ちてから長く歩くぞ!』
負傷兵を抱えたまま、今度は夜の闇を歩き続ける軍へと切り替わる。
レオンは帳面を閉じ、革紐でしっかりと縛った。
歩ける者は歩かせろ。担げる者は担げ。
冷たい決断が記された帳面の重さを腰に感じながら、レオンは夜の闇に向かって足を踏み出した。




