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第68話 八人の外科医

 丘を下り、最も近い村の石壁の内側へ逃げ込んだ時、軍はひどい血の匂いと呻き声に包まれていた。


「ここに寝かせろ! 槍の柄を抜いて担架代わりにしろ!」

 怒声と悲鳴が交錯する中、レオン・カルディアスは広場に運び込まれていく負傷兵の数を数え、無意識のうちに奥歯を噛み締めた。

 ざっと見ただけでも六十人を超えている。軽装歩兵ペルタスタイだけでなく、重装歩兵ホプリタイの中にも、兜の隙間や剥き出しの脚に矢を受けた者が少なくない。


 歩けない者が一人いれば、最低でも二人の健常な兵が担ぎ手として列から抜けなければならない。さらに彼らの武器と盾、背負っていた荷物を別の誰かが持つことになる。一人の重傷者は、軍から三人の戦力を奪うのだ。

 この起伏の激しい地形で、これだけの荷と負傷者を抱えたまま、明日も「歩きながら戦う」ことなど物理的に不可能だった。


「村の周囲に防衛線を張れ! 今日はもう動かん!」

 クセノポンの指示が飛び、ケイリソポスが前衛の兵を村の入り口に固める。移動を諦め、固定拠点での防御に切り替えたことで、追撃してきていた敵の矢はようやく届かなくなった。


 だが、安全を確保したからといって、広場に転がる血まみれの兵たちが助かるわけではない。

「軍の中から、少しでも傷の治療に心得のある者を集めろ!」

 将軍たちの決定により、夜の広場に八人の男たちが集められた。彼らが、この軍の命運を託された「八人の外科医」だった。


 レオンに与えられた仕事は、彼らが腕を振るうための実務オイコノミアを整えることだ。

「テオドルス、予備の鍋を全部。 火床を作って湯を沸かしましょう。バウコス、死んだ者の荷から替えの布と予備の外套をありったけ集めてください。包帯の代わりに提供しましょう」

 レオンの指示に、血を見て青ざめていた若い従者と、泥まみれの荷駄頭が弾かれたように走り出す。


「主計殿、洗浄用の水が足りねえ! それに、この傷薬は湿気ってやがる!」

 即席の外科医の一人が、血だらけの手で怒鳴った。

 村には幸い、小麦や馬用大麦、それにワインの備蓄が豊富にあった。だが、井戸から汲み上げた水は泥が混じっており、そのまま傷口を洗うのを躊躇うくらいだった。

 湯を沸かすには時間がかかり、次々に運び込まれる負傷者の出血には間に合わない。


「……そこを開けてください」

 レオンは配給帳を閉じ、血の海と化したむしろの横へ膝をついた。

 目を閉じ、呼吸を整える。塔で学んだ理論の通りに、己の内の魔力を極細の糸のように練り上げる。


 彼の水魔法は、半日かけて桶一杯の清水を出すのが限界という、軍務魔術としては「役立たず」の代物だ。戦況を覆す力など欠片もない。

 だが今、外科医のメスの下で開かれた傷口の直上に、不純物を一切含まない清らかな霧を生み出した吹き付ける。それは、泥水を沸かす時間を省き、兵の脚を腐敗から救う確かな命綱となった。


「よし、泥が落ちた。布を寄越せ!」

 外科医がすかさず傷を縫い合わせる。レオンは休む間もなく、湿気て使い物にならなくなっていた薬草の束に手をかざした。

 ごく微弱な、乾燥・保存補助の魔法。穀物庫全体を乾かすことはできないが、両手一杯の薬草の湿気を払い、効能を保たせることならできる。

 さらに、夜風で冷えそうになる煮沸用の鍋の下へ、指先から細い火魔法を送り込み、火力を無理やり維持させる。


 戦場では敵一人殺せない魔法が、血の匂いが充満する野戦病院においては、水、火、衛生の要として恐ろしく機能していた。


「坊ちゃん、こっちにも一人頼む。腹をやられてる」

 ミュロンが、顔面を蒼白にした若い軽装歩兵を抱え込んでやってきた。

 レオンは無言で頷き、再び水を練り上げる。

 助けなければならない。自分の知識と、この場違いな微弱魔法が、いま目の前で確実に命を繋ぎ止めている。自分がやらなければ、彼らは死ぬ。


 役に立っている。軍を支える中核の仕事をしている。

 その職業的な矜持は、しかし、すぐに別の重さとなってレオンの全身にのしかかってきた。


「……駄目だ、息を引き取った」

 外科医の暗い声が響く。レオンが懸命に綺麗な水で洗い、乾いた布を当てた重装歩兵の男が、大量の血を吐いて動かなくなっていた。

 魔法は、未来を予知することも、失われた血を戻すこともできない。ただ条件を少し良くするだけの補助でしかないのだ。


 ズキリ、と額の奥で激しい痛みが爆発した。

「……っ」

 魔力の反復使用による代償だ。目の前がぐらりと揺れ、指先の感覚が痺れて消えていく。それでも、広場にはまだ手当てを待つ者が列をなしている。


「休め」

 不意に、横から木の杯が差し出された。

 見上げると、ダフネがレオンを見下ろしていた。彼女の顔には何の慰めも浮かんでいない。だが、杯の中には冷たい水がなみなみと注がれていた。

「手が震えている。魔力切れの顔だ。これ以上やればお前が倒れる」

「……まだ、水が足りない」

「お前が死ねば、明日の配給帳は誰がつける。村の井戸水はもう沸いた。お前の役目は終わりだ」


 ダフネはレオンの返事を待たず、強引に彼の手に杯を握らせた。そして、これ以上は手伝わせないというように、レオンと負傷兵たちの間に自分の身体を割り込ませて立った。

 冷たい水を喉に流し込むと、痺れていた指先にわずかに熱が戻る気がした。

 彼女は「よくやった」とも「立派だ」とも言わない。ただ、レオンが抱え込もうとした責任の重さを、物理的な位置取りで断ち切ってくれたのだ。


 夜更け。

 八人の外科医と、レオンの微弱魔法、そして村の豊かな物資の恩恵により、死ぬはずだった十数人の命が持ちこたえた。広場に並べられた負傷兵たちは、布を巻かれ、浅い眠りについている。


「小さな村だが、小麦もワインもある。馬の飼葉も数日は保つでしょう」

 幕舎に戻ったレオンは、震える手で書き上げた帳面を将軍たちに提出した。

「負傷者の手当ても終わりました。この村にいれば、一旦は飢えることはありません」


「そうか。主計殿、よくやってくれた」

 クセノポンは帳面を受け取り、労いの言葉をかけた。だが、その顔は酷く険しかった。ケイリソポスも、腕を組んだまま沈黙している。


 レオンも、その沈黙の理由を嫌というほど理解していた。

 村は豊かだ。止まれば、傷は癒え、腹は満たされる。動かなければ、敵の矢に削られることもない。

 だが、それは同時に「主導権を完全に失う」ことを意味していた。


 自分たちが豊かな村で足を止めている間、敵はどうするか。

 答えは明白だ。後方から追いついてきたティッサフェルネスの軍勢が、村の周囲を完全に包囲するだろう。


 歩きながら戦うことはできないと、今日の丘陵戦で思い知らされた。

 だから、止まった。被害は抑えられた。

 しかし、止まり続ければ、この豊かな村ごと四方からすり潰される。


(……詰んでいるじゃないか)

 レオンはズキズキと痛む頭を押さえながら、暗い夜の底へ沈んでいくような閉塞感に身をすくませた。

 助けた命を抱えたまま、この先どうやって進むのか。誰もその答えを持たないまま、冷たい夜風だけが石壁を越えて吹き込んでいた。

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