第67話 平原の終わり
くすんだ緑色の波のように連なる丘陵地帯に入ると、重装歩兵たちの間に目に見えて安堵の空気が広がった。
「見ろ、あの傾斜だ。これならペルシアの騎兵どもも、そう簡単には突っ込んこれまい」
「ああ。平原での追いかけっこは終わりだ」
ティグリス川沿いの平坦な道に怯えていた兵たちは、前方に点在する小高い丘と、その麓に身を寄せるように建つ村の屋根を見て笑い合った。
レオン・カルディアスも、帳面を抱え直しながら小さく息を吐いた。騎兵の突撃を防ぐという点において、起伏のある地形は確かにこちらに有利に働く。昨日、苦労して組み直した陣形の柔軟性も、この起伏を越える際に役立つはずだ。
だが、現実は羊皮紙の上の論理ほど甘くはない。
「おい、もっとしっかり引かせろ! 車輪が滑ってんだろうが!」
古参の荷駄頭バウコスの怒鳴り声が、登り斜面で響き渡った。
地形の起伏は、敵の騎兵の足を鈍らせるのと同時に、味方の荷車の足をも強烈に削り取っていた。傾斜がきつくなるにつれ、駄獣は泡を吹いて立ち止まり、車輪は乾いた土を無情に削るばかりになる。
必然的に、中央の荷駄の速度が落ち、それを囲む方陣の歩みも遅くなった。
歩みが遅れる。それはつまり、格好の的になるということだ。
「上だ! 稜線を見ろ!」
前衛の方から切羽詰まった声が上がった。
レオンが見上げると、彼らがこれから越えようとしている丘の頂付近、その稜線に無数の人影が並んでいた。ペルシア軍の弓兵と投石兵だ。先回りされていた。
「構わん、撃ち返せ! ロドス人の投石紐なら届く!」
百人隊長の一人が指示を飛ばすが、次の瞬間、空からパラパラと降ってきたものの正体に、レオンは血の気を引かせた。
ヒュン、という鋭い風切り音とともに、拳大の石と矢が雨のように降り注いできたのだ。
「盾を構えろ!」
鈍い衝撃音が連続して響く。平原では、鉛弾を使うロドス人投石兵の射程が敵を圧倒していた。だが、今は違う。
高低差だ。
下から上へ投げる味方の石弾は、重力に引かれて威力を失い、稜線に届く前に落ちてしまう。逆に、上から下へ放たれる敵の石と矢は、斜面を駆け下りるように加速し、恐ろしい威力でギリシア軍の陣形を叩き据えた。
地形という条件が変わっただけで、戦場の都合が完全に裏返ってしまったのだ。
「軽装歩兵! 前へ出て散らせ!」
重装歩兵の壁の間から、ミュロン率いる軽装歩兵たちが斜面を駆け上がろうとする。だが、彼らの持つ小さな籐盾では、上からの集中砲火を防ぎきれなかった。
「ぐあっ!」
「足をやられた! 引け!」
矢を太ももに受けた兵が転げ落ちる。 上からの石弾が肩に直撃し、ガッともゴツとも言えない嫌な音がする。
装甲の薄い軽装歩兵たちは、斜面の中腹で完全に足を止められ、たまらず後退を始めた。彼らが逃げ込む先は、分厚い青銅の盾を持つ重装歩兵の陰か、あるいは中央の荷駄の列しかなかった。
「馬鹿野郎、陣を崩すな! 軽装ども、俺たちの盾の後ろに隠れやがって!」
重装歩兵の顔役であるカレスが、自分の隊の列に潜り込んできた軽装歩兵に向かって怒鳴りつけた。
「この給金泥棒どもが! てめえらの仕事は弓兵を散らすことだろうが!」
「上から撃ち下ろされてどうしろってんだ! てめえのその分厚い鎧を貸してみろ!」
命の危機の中で、兵科同士の感情のぶつかり合い。
レオンは、自分の周囲で急速に崩壊していく秩序に、激しい苛立ちを覚えた。
平原でせっかく見つけた勝ち筋が、丘に入った途端に弱点に変わった。その切り替えの速さに、頭の計算が追いつかない。
逃げ込んできた軽装歩兵と、立ち往生する荷車、そして怯えて暴れる駄獣が、中央の空洞でめちゃくちゃに混ざり合い始めていた。このままでは列が完全に詰まり、動けなくなったところを上からすり潰される。
「どけ!」
鋭い声とともに、ダフネが動いた。
彼女はレオンを背中に庇ういつもの位置から離れると、暴れる荷駄馬の轡を力任せに引き落とし、その反動で空いた隙間へ、足を引きずって逃げてきた軽装歩兵を蹴り飛ばすように押し込んだ。
「邪魔だ。負傷者は荷車の陰へ行け。健常な者は外側へ盾を向けろ」
ダフネは短い槍の柄を使い、パニックになりかけている兵と荷駄の間を物理的に切り分けていく。それは単なる護衛の動きではなく、レオンが帳面の上でやろうとしていた「整理」を、現物の身体で強引に行う相棒としての働きだった。
その動きにハッとさせられ、レオンも動いた。
剣は抜かない。代わりに、配給帳を脇に抱え、荷台から崩れ落ちそうになっていた穀物袋を肩で押し留める。
「ミュロン、戦えないものは荷車の下か影に!動ける人で、盾を構えてください。テオドルス、主計の皆も同じように指示してください」
レオンの指示は、戦うためのものではなく、被害を抑え、荷駄の塊を即席の防壁として機能させるためのものだった。
「坊ちゃんの言う通りだ! 固まれ! 盾を上へ向けろ!」
ミュロンが呼応し、軽装歩兵たちが荷車の周囲に張り付いて、小さな盾で屋根を作る。
上からの投石と矢は止まない。ガンッ、バキッという音が断続的に響き、時折、盾の隙間を抜けた矢が誰かの肉を打つ生々しい音が混じる。
壊走は免れた。だが、斜面に釘付けにされたまま、軍は完全に足を止められていた。
夕暮れが近づき、敵の攻撃がようやく疎らになった頃、レオンは煤けた手で帳面を開いた。
血の匂いが充満する中、彼はざっと見渡しただけでも数十人に上る負傷兵の数を数えていた。歩けない者、手当が必要な者。彼らを担ぐための人員、その人員が本来背負うはずだった荷。
駄目だ。動けない。
レオンは奥歯を強く噛み締めた。これだけ重い負傷者を抱えたまま、この起伏の激しい地形で「行進しながら戦う」ことなど不可能だ。
平原の終わりに待っていたのは、軍を強制的に止まらせる、重く血生臭い現実だった。




