第66話 遊撃隊
「六つの百人隊を本隊から切り離し、遊撃部隊として独立させる」
揺れる見張り火の灯りの中、クセノポンは地面に広げた羊皮紙の上へ、木片を六つ並べて言った。将軍幕に集まった将校たちが、その図を食い入るように見つめている。
「道が狭まり、両翼が押し出されそうになったら、この六つの隊が素早く本隊の背後へ下がる。そうすれば、中央の空洞は保たれ、重装歩兵同士が押し合うこともない。道が再び開けたら、両翼の間にできた隙間へと、彼らが素早く入り込んで壁を塞ぐ」
陣形の柔軟化。カチカチに固まった四角い箱を、伸び縮みする関節を持った鎧へと作り変える案だった。
「なるほど。それなら前衛が進む足をいちいち引っ張らんで済む」
ラケダイモン系の将軍ケイリソポスが、即座に肯定の意を示した。彼にとって重要なのは、先頭の足を止めずに突破できるかどうかだ。
「兵の供出なら、うちの隊から出そう」
新任将軍のティマシオンやフィレシオスも、不足している列を埋めるためにすぐさま応じた。指揮系統の再編は、英雄一人の閃きではなく、こうして欠けた場所へ収まる実務型の将校たちの同意によって形になっていく。
「おいおい、ちょっと待て」
だが、現場からは当然のように反発が上がった。重装歩兵の百人隊長カレスだ。
「俺たちの隊を勝手に切り刻むな。陣を離れてウロチョロしろってのか。それに、隙間を埋めると言うが、百人が一気に入れるほど道が都合よく開くとは限らねえぞ」
カレスの言い分はもっともだった。誇り高き重装歩兵を都合よく端へ追いやるような真似は、現場の心情として受け入れがたい。
そして何より、レオン・カルディアスにとって問題だったのは、カレスの言う「都合よく道が開かない」場合の、中央の物理的な干渉だった。
「移動だけならそれで成立するでしょう。ですが、戻る時はどうするんですか」
レオンは、羽ペンを置いて口を挟んだ。内心で『勝手に切り刻むなと言うなら、こっちの配給帳だって切り刻みたくてやってるんじゃない』と悪態をつきながら、声だけはあくまで実務官としての平坦さを保つ。
「道が広がった時、下がっていた六百人が一斉に本隊の隙間へ戻ろうとする。その時、中央の荷車が同時に横へ広がっていれば、戻ろうとする兵と荷車の車輪が衝突します。結局、そこでまた渋滞(詰まり)が起きる」
レオンは別の木片を置き、荷駄獣の動線を示した。
「隙間が狭い時は分隊(二十五人)ごとの縦列で。少し広い時は半隊(五十人)ごとに。完全に開いた時は百人単位で。そうやって細かく形を変えさせないと、兵と荷駄が移動力の利点を殺し合います。そして、彼らが差し込む位置と、狭所を抜ける順番を先に決め、持ち場印を渡しておかなければ、混乱は防げません」
戦列を組むクセノポンとケイリソポスの視点に、レオンの荷駄と配給の視点が噛み合う。
「……なるほど。兵の配置図と、どの部隊がどの隙間に入るか、その割り振りが必要か」クセノポンが顎を撫でた。
「できますか、主計殿」
「やれと言われれば。ただし、誰を遊撃に回すか、配給の順番をどうするか、今夜中に全て帳面を割り直すことになります」
ため息を飲み込みながら答えると、ケイリソポスが短く言った。
「頼む。明日の出立までに配っておけ」
かくして、レオンと若い従者テオドルスにとっての、実務の地獄が始まった。
「ああ、配給帳が……」
夜更けの陣幕で、レオンは頭を抱えそうになった。ただでさえ複雑な一万人の配給名簿から六百人を抜き出し、さらに五十人、二十五人の単位に再配置し、彼ら専用の持ち場印の木札を書き上げる。誰にどの配給をいつ渡すのか、どこで荷車とすれ違うのか、全てを紙の上で矛盾なく成立させなければならない。
文字通り、軍の新しい秩序を骨組みから作り直す作業だった。
テオドルスが泣きそうな顔で羊皮紙の控えを写している横で、ダフネが黙って、水袋から冷たい水を注いだ木杯を置いた。
「……ありがとう」
「手が止まっている」
慰めなど欠片もない短い言葉だったが、レオンはその無愛想な声に背中を押されるように、再び羽ペンを走らせた。
*
翌朝。ティグリス川沿いの平野を進む軍の行く手に、古い石造りの橋と、両脇から土手が迫る狭路が見えてきた。
これまでの数日なら、ここで確実に陣形が潰れ、盾がぶつかり合い、怒号が飛び交っていたはずの「跨ぎ目」だ。
パラァァッ!
後方から、短いラッパの音が鳴り響いた。
それが合図だった。道が細り始める直前、指名されていた六つの百人隊の分隊長たちが、素早く声を上げた。
「退け! 列を!縦隊!」
両翼を形成していた遊撃の兵たちが、スッと横へ逃げるようにして本隊の背後へと下がる。まるで大きな獣が息を吐いて身体を縮めるように、方陣の幅が滑らかに狭まった。
中央の空洞が保たれたまま、荷車が橋へと差し掛かる。
「止めるな! そのまま抜けろ!」
古参の荷駄頭バウコスのしゃがれ声が響く。軋む車輪の音は続くが、前が詰まる嫌な衝突音は聞こえない。重装歩兵の背中に邪魔されることなく、荷駄の列が止まらずに狭路を通り抜けていく。
橋を渡り終え、再び平原が広がった。
パラァァッ! と、二度目のラッパが鳴る。
今度は後退していた遊撃隊が、小走りで前進を開始する。
「分隊ごとに列を組め! 印の場所へ差し込め!」
ミュロンの荒々しい号令が飛ぶ。道幅の広がり具合に合わせて、兵たちは二十五人の縦列になり、あるいは五十人の塊となって、本隊の間にできた隙間へと次々に滑り込んでいく。
荷車と交差する瞬間も、レオンが指定した橋順と持ち場印の通りに動くため、一回の衝突も起きなかった。
まるで最初からそこにいたかのように、四角い陣形が完璧に復元される。
軍が、初めて「直した形」で動いた瞬間だった。
「……ほ、何とかなったか…これはこれは」
騎馬の上から全体を見渡していたクセノポンが、満足げに頷く。先頭を進むケイリソポスからの「停止」の命令も来ない。
レオンは配給帳を抱えたまま、土埃の中で息を長く吐き出した。
徹夜で書き上げた割り直しの名簿が、現物の人と荷の動きにピタリと嵌まった。自分の組んだ数字の通りに、一万の軍勢が詰まることなく生き物のように収縮し、膨張する。疲労で霞む頭の奥に、職業的な熱と、奇妙な快感が広がっていた。
派手な武勲などない。だが、自分が紙の上で直した秩序が、この軍を前に進ませているのだ。
「坊ちゃん」
横から、割り直した名簿の木札を腰に下げたミュロンが歩み寄ってきた。彼は立ち止まりもせず、レオンの横を通り過ぎざまに短く言った。
「あんたの組んだ順でぴったりだ。荷が一つも止まらねえ」
それは、この粗野な現場男が口にできる、最大級の賛辞だった。
再配置された側のカレス達からは「俺たちを行ったり来たりさせやがって」というぼやきが漏れていたし、レオンの懐にある配給帳は管理の複雑さで地獄のようになっていた。
小さな失敗や不満は確かにある。だが、それでも軍は「動きながら戦う」術を手に入れたのだ。
もう、跨ぎ目で無様に削られることはない。レオンがそう確信しかけた時だった。
ダフネがふと歩みを遅め、前方の空を見上げた。
「……平地が終わる」
レオンも顔を上げる。
いつまでも続くと思っていたティグリスの平原の先に、くすんだ緑色をした小高い丘の連なりが、巨大な波のように姿を現し始めていた。
平原で手に入れた勝ち筋が、あの起伏のある地形でそのまま通用するとは限らない。
条件が変わるたびに試される。背筋を冷たいものが撫でていくのを感じながら、レオンは帳面を握り直した。




