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第65話 方陣の死角

 四角く組まれた軍の形は、平らな地面の上で立ち止まっている時にだけ美しい。


「塔の兵法書には、方陣は全方位に対して鉄壁だと書いてあったはずなんだがな」

 レオン・カルディアスは、舞い上がる土埃に目を細めながら内心で毒づいた。


 ティグリス川沿いの平野を進むギリシア人傭兵一万の軍勢は、現在、巨大な中空の方陣を組んで移動していた。前後と左右の四面を青銅の鎧と盾に身を固めた重装歩兵ホプリタイが壁のように囲み、その中央の空洞部分に、数千の非戦闘員と数え切れないほどの荷駄獣、そしてレオンたち主計や書記官が収まっている。

 地図の上で線を引くなら、これほど安全な陣形はないだろう。だが、現実は羊皮紙の上にはない。


「止まるな! 前の車輪が詰まってるぞ!」

 古参の荷駄頭バウコスのしゃがれ声が響いた。

 荷車の列が、不快な軋み音を立てて急停止した。レオンは即座に首を巡らせ、前方を確認する。道が細くなっているのだ。二つの小高い丘の間に挟まれた浅い涸れ谷が、行軍の動線を極端に絞り込んでいた。


 道幅が狭まれば、どうなるか。

 左右の翼を形成していた重装歩兵たちが、地形に押し出されるようにして中央へとはみ出してくる。

「おい、押すな! 列が乱れるだろうが!」

「そっちが寄ってきたんだろう! 荷駄ども、もっと端へ避けろ!」

 百人隊長カレスをはじめとする重装歩兵たちの怒鳴り声が、土埃の中で交錯した。青銅の盾がぶつかり合い、密集した兵士たちの槍の穂先が危険に揺れる。彼らは重武装ゆえに身動きが取りづらく、一度列が乱れると立て直しにひどく時間がかかった。

 はみ出した重装歩兵の波が、中央の荷駄列の動線を完全に塞いでいた。


 レオンの頭の中で、冷たい勘定ロギスモスが回る。

 右翼から少なくとも二個半隊が中央へ溢れた。荷車が五両完全に停止。これを迂回しようとした後続の駄獣が三頭、足を滑らせて転倒した。前衛は進んでいるはずだから、このままだと方陣そのものが前後に引きちぎられる。

 そして、この忌々しい「詰まり」が起きる地形の変わり目(跨ぎ目)を、後ろからついてくる敵が見逃すはずがなかった。


「来るぞ! 盾を上げろ!」

 誰かの絶叫より早く、ヒュッと風を裂く音が連続して空から降ってきた。

 ペルシア側の弓兵と投石兵による曲射だ。

「動くな」

 短く言い捨てたダフネが、レオンの横へ滑り込むように立ち、軽盾を斜め上に掲げた。ガンッ、という鈍い衝撃音とともに、先端に鉄を被せた矢が弾き落とされる。彼女はレオンを庇う位置から一歩も動かず、周囲の死角だけを冷たい目で追っていた。


軽装歩兵ペルタスタイ、前へ出ろ! 射返せ!」

 後衛から将校の叫びが聞こえるが、無理だ。はみ出した重装歩兵と立ち往生する荷車が分厚い壁になり、機動力のある軽装兵が外へ出る隙間を完全に塞いでしまっているのだ。


「馬鹿野郎、陣形が邪魔で矢が通らねえ! どきやがれ!」

 軽装歩兵の半隊長であるミュロンが、重装歩兵の背中に向かって吠えた。だが、押しくらまんじゅう状態の兵士たちにはどうすることもできない。

 身動きの取れない密集陣形は、敵にとってこれ以上ない的だった。後衛の端から、鈍い音と短い悲鳴が連続して上がる。

 反撃できないまま、ただ耐えるしかない長い時間が過ぎた。やがて地形が再び開け、方陣が元の大きさに膨らむと、敵は潮を引くように距離を取った。


 レオンは乱れた配給帳を抱え直しながら、血の味のする唾を吐き捨てた。

 偶然ではない。この数日、道が細るたび、あるいは橋を渡るたびに、軍は全く同じ形で潰れ、全く同じ形で敵に削られている。この四角い陣形は、条件次第で味方を殺す罠に変わるのだ。


 *


 その夜、宿営地の中心に張られた将軍幕の中で、空気は重く沈んでいた。

「後衛のもたつきが酷すぎる。これでは前衛を進めようにも、いちいち足を止めねばならん」

 ラケダイモン系の将軍ケイリソポスが、苛立ちを隠そうともせずに言い放った。彼の言葉は短い分、責めるような鋭さがある。


「後衛の兵が臆病なわけではない。問題は方陣そのものの構造だ」

 新しく将軍の座に就いたクセノポンが、地面に置かれた羊皮紙の地図を見下ろしながら静かに応じた。

「道が狭まれば、両翼の重装歩兵が押し合いになり、乱れた列を敵に狙われる。逆に道が広がれば、押し合っていた兵たちが慌てて元の位置に戻ろうとし、今度は中央に隙間ができる。敵の騎兵にそこを突かれればおしまいだ」


 将軍たちが戦術上の欠陥について議論を交わす中、幕の隅で記録を取っていたレオンは、羽ペンを持った手を止めた。

 彼らが語る戦術の破綻は、レオンが抱えている実務の破綻と完全に一致していた。


「……速度差と、干渉です」

 口に出すつもりはなかった声が、不意に漏れた。

 幕内の視線が、場違いな書記官補佐へと集まる。だが、レオンは帳面を開いたまま顔を上げ、クセノポンを見た。もう、知らぬふりをして黙っているには、余計な血が流れすぎていた。


「どういう意味だい?レオン殿」

「将軍が仰った隙間と混乱は、兵士の動きだけで起きているわけではありません」

 レオンは冷たく乾いた声で、今日の荷駄の惨状を数字で並べた。

「道が細った時、溢れた重装歩兵がどこへ行くか。彼らは荷駄の流れを塞ぎます。荷車が止まれば、その後ろにいる全軍の足が止まる。軽装歩兵が迎撃に出ようにも、重装歩兵の背中と荷車の車輪が物理的な壁になる」

 レオンは帳面の該当箇所を指先で叩いた。

「逆に道が広がった時、空いた隙間から真っ先に敵の矢を浴びるのは、防具を持たない荷駄獣と担ぎ手です。戦術の綻びは、常に我々の生存物資の動線を直撃しています。このままの陣形では、次の跨ぎ目で確実に荷駄隊が潰されます。荷を失えば、前衛がどれほど勇敢でも軍は歩けなくなる」


 幕内に一瞬、静寂が落ちた。

 軍を動かす「戦術の言葉」と、軍を生かす「実務の言葉」。まったく異なる方向から放たれた二つの理屈が、見事に同じ急所を突いていた。


「……その通りだ」

 クセノポンが、納得の響きを含んだ声で頷いた。

「兵の配置だけを考えて、真ん中にいる荷と人の速度差を見ていなかった。我々は戦法タクティカに気を取られ、家政オイコノミアの視点を欠いていたわけだ」


 その教養語の響きに、レオンは少しだけ微笑んだ。ただの机上の論で終わらせず、自分の実務の数字を「軍の致命傷」として即座に受け止めたのだ。この男とは、意思の疎通ができる、なにより考え方の骨組みを理解している。


 幕の入り口近くに控えていたミュロンが、鼻を鳴らして腕を組んだ。

「要するにだ。四角くて綺麗だろうが、通れなきゃただの棺桶だってことだ。形がいいのと、動けるのは別なんでな」


 古参下士官の身も蓋もない現場の言葉に、反論できる者はいなかった。

 問題の正体ははっきりした。偶然の不運ではなく、陣形の欠陥だ。だが、分かったところでどうするのか。道が細るたびに軍を二つに割るわけにもいかない。


「では、どうやってその『間』を埋める」

 ケイリソポスが、試すような視線をクセノポンとレオンへ交互に向けた。

 明日も平原は続く。橋もあれば、谷もある。

 この巨大で不器用な軍を、どうやって形を変えずに、かつ詰まらせずに通すのか。レオンは帳面を閉じ、次なる実務の地獄を思い描いて小さく息を吐いた。

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