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第64話 死者の都

 ティグリス川沿いに北上を続けるギリシア軍の前に立ちはだかったのは、自然の山ではなく、かつて人が築き、そして見捨てた巨大な石の山だった。


「……高いな。高すぎる」

 レオンは、目前にそびえ立つ城壁を見上げて思わず呟いた。

 ラリッサの廃都。

 中央学都の塔で古い羊皮紙をめくれば、その名前と伝承はすぐに出てくる。かつてメディア人が支配していた巨大な都市。ペルシア王がこの都市を包囲した際、どうしても落とすことができなかったが、太陽が雲に覆い隠されたことで住民が恐怖に駆られ、ついに陥落したという曰く付きの死んだ都だ。

 だが、そんな書物の中の神話や伝承は、今のレオンの腹の足しにもならなければ、明日の行軍の役にも立たない。


 現実としてそこにあるのは、高さ十尋(約十八メートル)、厚さも優にその半分はあるという、圧倒的な質量を持った石積みの壁だった。

 兵たちの間に、ざわめきともため息ともつかない低い声が広がる。彼らは戦場での死には慣れているが、こうした「古い時代の強大な遺物」の前では、自分たちの歩みがひどくちっぽけなものに感じられ、本能的な恐怖を掻き立てられるのだ。


「主計殿、あんな石の壁、煮ても焼いても食えませんぜ」

 列の脇から、隻眼のシラクサが馬の鼻先を撫でながら近づいてきた。調達役の彼は、巨大な遺構を見ても全く感動した様子がない。

「あんなもんより、近くの村で麦の一袋でも探した方がよっぽどマシってもんだ。昔の王様がどれだけ金をつぎ込んだか知らねえが、今の俺たちには一文のケルドスにもなりゃしねえ」

「……全くだ」

 レオンはシラクサの極めて現世的な言葉に、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

 壁は食えない。その通りだ。


「レオン」

 背後から、低く鋭い声がした。ダフネだ。

 彼女の視線もまた、廃都の歴史的な偉容には全く向けられていなかった。

「上が崩れかけている。風で石が落ちてくるかもしれない。それに、あの崩れた塔の陰、あそこは完全に死角だ。敵が潜んでいれば、上から射下ろされるぞ」

 彼女は、景色を「危険」としてしか読んでいない。

 ハッとさせられ、レオンは思考の切り替え(ロギスモス)を行った。

(そうだ、感動している場合じゃない。この壁の横を通る時、隊列はどうなる?)

 見通しが悪い。壁が風を遮り、声が通りにくくなる。もしあの死角から敵の騎兵が飛び出してくれば、荷車の列は壁と敵に挟まれて完全に身動きが取れなくなる。

「バウコス!」レオンは前方の荷駄頭を大声で呼んだ。「列をなるべく壁から離してください! 石が落ちてくるかもしれない」

「分かってるよ! おい、牛の尻を叩け! 止まるな!」

 ダフネの現実的な視点に助けられ、レオンは兵站の実務者としての目線を取り戻していた。


 さらに数パラサング進むと、今度はメスピラと呼ばれる別の巨大な城塞が見えてきた。

 こちらもまた見捨てられた廃都だが、レオンは帳面を持つ手を止めて顔をしかめた。

(……気味が悪い)

 土台の部分は美しく磨き上げられた貝殻石で整然と積まれているのに、その上の城壁は、全く質の違う赤茶けたレンガで乱雑に高く積み上げられていたのだ。まるで、異なる時代に生きた別の巨大な生き物が、古い死骸の上に無理やり自分たちの殻を継ぎ足したかのようだった。


「後方より、土煙! ティッサフェルネスの本隊です!」

 不気味な廃都を横目に進んでいた時、後衛からの鋭い報告が行軍の列を震わせた。

 レオンが振り返ると、地平線の向こうから、昨日のミトリダテス軍とは比べ物にならない数の騎兵と弓兵が、黒い波のように押し寄せてくるのが見えた。

「方陣を崩すな! 盾を構えろ!」

 ケイリソポスの号令が飛び、重装歩兵ホプリタイたちが一斉に青銅の盾を重ね合わせる。


 ヒュンッ!

 距離が詰まると同時、ペルシアの長い弓から放たれた無数の矢が、雨のように降り注いできた。

 だが、ギリシア軍の後衛は昨日までのように、ただ矢の的になるだけではなかった。


「撃て!」

 ロドス人投石兵たちの放つ鉛弾が、低い軌道を描いて敵の最前列に激突した。

 ドグッ、という鈍い音とともに、ペルシアの騎兵が次々と馬から転げ落ちる。鉛の重さと小ささが生み出す射程の優位は、今日のような大軍相手でも十分に威力を発揮していた。

 敵の前衛が鉛弾を恐れて足を止める。


 さらに、レオンの目を釘付けにする光景があった。

「拾え! 折るなよ、そのまま使うんだ!」

 後衛に配置されたクレタ人の弓兵たちが、自分たちの足元の地面に突き刺さったペルシアの長い矢を、次々と引き抜いていたのだ。

 敵の放った矢は、ギリシアの弓には長すぎる。だが、クレタ人たちは弓の引き絞り方を工夫し、拾った敵の矢をつがえ、そのままペルシア軍に向かって射り返し始めたのだ。

 ビュンッ!

 ペルシア人の立派な矢が、放たれた勢いそのままに、今度はペルシア兵の喉元を貫いた。


「ははっ、いいざまだ!」

 ミュロンが、盾の陰からその光景を見て獰猛に笑った。「あいつら、わざわざ俺たちに上等な矢を届けに来てくれたってわけだ。主計殿、これで矢の在庫も心配いらねえな!」

「……悪くない工夫ですね」

 レオンは皮肉を交えて返したが、内心では深い感心と、嫌な納得を覚えていた。


(勇気だけでは矢は敵に届かない。だが、そこに知恵を添えれば届く)


 敵の長い矢を再利用するという現物の調達。そして、鉛弾による射程の逆転。

 昨日、クセノポンと自分たちが夜を徹して組み上げた「届く手」が、確実に敵の圧力を抑え返している。敵の弓兵たちは、自分たちの放った矢がそのまま死を運んでくることに恐怖し、容易には近づけなくなっていた。


 やがて、被害の広がりに耐えきれず、ティッサフェルネスの軍勢は射程外へとゆっくり後退していった。

 ギリシア軍の中に、歓声が上がる。

「やったぞ! あいつら、手も足も出ねえ!」

 昨日の小さな一勝が、今日は明確な「優位」としての実感に変わっていた。軍全体が、自分たちはもう一方的に削り殺されるだけの獲物ではないのだと確信し始めていた。


 だが、レオンの心はそこまで晴れやかではなかった。

 歓声に沸く兵たちの頭上には、依然としてメスピラの気味の悪い巨大な城壁が、無言でそびえ立っている。

 あれだけの巨大な壁を築き、あれだけの富を誇ったメディア人の大帝国でさえ、結局は滅び、壁だけを残して消え去ったのだ。

(……僕たちが今日生き延びたところで、この途方もない荒野と歴史の前では、どれだけちっぽけなことか)

 自分たちの勝利が、この高い壁の足元を這いずる虫の悪あがきのように感じられ、レオンは一人、冷たい虚無感に襲われていた。


 翌日以降も、軍は平原を行軍し続けた。

 敵を近づけさせない「届く手」を持ったことで、重装歩兵の四角い陣形(方陣)は一見、無敵の歩く要塞のように見えた。

 しかし、レオンの実務の目は、この平原の行軍に新たな綻びを見出し始めていた。


「おい、坊ちゃん!主計殿! 前が詰まってる! 荷車が通れねぇ!」


 バウコスの怒鳴り声が飛ぶ。

 平坦に見える平原でも、道が細くなったり、小さな涸れ川や起伏があったりすると、四角く組まれた方陣の両翼は自然と中央に押し潰される。その結果、中央に守られているはずの荷駄の列が、兵たちの身体と武具に挟まれて身動きが取れなくなるのだ。

「押すな! 盾が荷車に引っかかってるぞ!」

「前が遅いんだ! さっさと進め!」


 重装歩兵同士が肩をぶつけ合い、怒声が飛び交う。列が乱れれば、当然そこには隙ができる。

(まずい)

 レオンは帳面を握りしめたまま、その乱れた隊列の「跨ぎ目」を睨んだ。

 敵の騎兵がこの隙を見逃すはずがない。

 四角い軍は、条件が変われば簡単に詰まり、自壊する。

「……しょうがねぇ、一旦止まるぞ」

 ミュロンが低く呟いたのと同時、後方から再び、嫌な風切り音が聞こえ始めた。

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