第63話 望外の結果
ザパタス川の冷たい水を渡り切った時、兵たちの間にはわずかながらも安堵の空気が流れていた。
川という明確な障害を背にしたことで、追撃を一旦は振り切れると考えたのだ。軍は正規の方陣(四角い陣形)を組み直し、荷駄を中央に守る形で平原を北へと進み始めた。
だが、その安堵は長くは続かなかった。
後方から土煙を上げて迫ってきたのは、二百の騎兵と、四百を超える弓兵、そして投石兵を率いたミトリダテス率いる先遣部隊だった。
前回の一方的な展開に気を大きくして、小勢で仕掛けてきたようだ。
確かに射程で負け、速度で負けるギリシア傭兵部隊に勝ち目は無かった。
昨日までは。
「撃て!」
後衛から、裂帛の気合いとともに号令が飛んだ。
鉛の弾が、風を切り裂いて空へ放たれた。
ヒュンッ、という独特の風切り音が響いた。
それは数十の鉛弾が、空気を切り裂く音だった。
前日の夕方、レオンとテオドルス苦心してかき集めた鉛…火床で鋳造した親指ほどの鉛の塊である。それはペルシア兵が使う拳大の石弾よりも小さく、空気抵抗を受けずに鋭い軌道を描き、はるか遠く――敵の矢がこちらに届くよりもさらに向こう側へ――落下した。
「ぐわああっ!」
ミトリダテス軍の先頭を進んでいた騎兵が、顔面を押さえて馬から転げ落ちた。
鉛弾は兜の隙間を的確に割り、鼻の骨を砕いたのだ。一発や二つではない。ロドス人投石兵たちの放った弾は、見えない鞭のように次々とペルシアの騎兵と弓兵に襲いかかった。
「よし、届くぞ!」
「昨日の意趣返しだ、思い知れ!」
ロドス人たちが歓声を上げ、次々と投石紐を回す。
ミトリダテスの部隊は明らかな動揺を見せた。彼らにとって、自分たちだけが一方的に攻撃できる「安全な距離」が突如として奪われたのだ。敵は馬の足を止め、慌てて射程外へと後退していった。
(まずは一勝だ)
レオンは荷駄列の中から、後衛の様子を観察して小さく息を吐いた。だが、鉛弾はあくまで牽制でしかない。本番はこの後だ。
軍は平原を進み、やがて深く抉れた渓谷(涸れ沢)の前に差し掛かった。
谷を渡る時は、必ず隊列が乱れる。重装歩兵の密集陣は崩れ、荷車や駄獣が斜面で泥に足をとられ、渋滞が起きるのだ。昨日、ミトリダテスが最も執拗に攻撃を仕掛けてきたのは、まさにそうした「跨ぎ目」だった。
案の定、ギリシア軍の最後尾が谷を下り始めた時、後退していたミトリダテス軍が再び土煙を上げて接近してきた。今度は谷を渡るギリシア兵を上から一網打尽にしようという腹だ。
だが、今日のギリシア軍は「追われるだけの群れ」ではなかった。
昨夜の軍議で、クセノポンと隊長たちはすでに役割を定めていた。追う者、追われる者、撃つ者。後衛の部隊は谷を渡りきった後、わざと乱れたふりをして陣を敷かずに待機していたのだ。
「……今だ、吹け!」
クセノポンの鋭い声に呼応し、トルミデスら触れ役が持つ真鍮のラッパが高らかに鳴り響いた。
プアーッ、という音が谷間に谺した瞬間。
谷の向こう岸で「追われるふり」をしていた重装歩兵と軽装歩兵の指定部隊が、一斉に反転し、雄叫びを上げてペルシア軍へ突撃を開始した。
「なっ……!?」
谷の斜面を下りようとしていたミトリダテスの兵たちは、完全に虚を突かれた。さらに、歩兵の列の横から、予想もしていなかった影が飛び出してきた。
「突っ込め! 蹴散らせ!」
リュキオスが率いる、五十の急造騎兵だった。
馬の背に直接跨がり、急ごしらえの革紐を握りしめた彼らの動きは、生粋の騎兵に比べればぎこちない。だが、その「足」の速さは、油断していたペルシアの歩兵や弓兵を食い破るには十分すぎた。
「騎兵だ! なぜ奴らに騎兵がいる!」
パニックに陥ったペルシア軍は、前進する勢いを自ら殺し、先を争うように背を向けて逃げ出した。谷底へ転がり落ちる者、味方の馬に踏まれる者が続出する。
リュキオスの騎兵たちは逃げる敵の背中に槍を突き立て、ロドス人の鉛弾がさらにその頭上へ降り注いだ。
その大混乱の中、逃げ惑う自軍の馬と衝突し、派手に落馬した豪奢な鎧の男がいた。
ミトリダテスだった。
「捕らえろ! 逃がすな!」
リュキオスの騎兵が真っ先に群がり、泥にまみれたミトリダテスを槍の柄で殴りつけ、乱暴に縄をかけた。
「……追撃線が延びすぎている」
レオンは、歓声に沸く本隊の中で、ひとり冷徹に距離を測っていた。
リュキオスたちの馬は、昨日まで大麦を引いていた荷駄馬だ。長くは走れない。敵の本隊と合流されれば、たった五十騎などすぐにすり潰される。
「ラッパ! 戻りの合図を!」
レオンが声を上げるより早く、前衛のクセノポンも同じ判断を下し、撤退のラッパが鳴らされた。
リュキオスの騎兵たちは深追いせず、指示通りに素早く馬を反転させて戻ってきた。
「やったぞ! 追いつけた! 大物を生け捕りにしたぞ!」
血塗れの槍を掲げて戻ってくるリュキオスの顔には、高揚感が張り付いていた。馬の尾には、太い縄で縛られたミトリダテスが引きずられていた。
かつて優雅な笑顔でギリシア兵に降伏を説いた男の面影はどこにもない。兜は失われ、美しい紫の衣は泥と血にまみれ、引きずられた拍子に擦り剥いた顔は恐怖と屈辱に歪んでいた。
荷駄の間に潜んでいたダフネが、素早く前に出た。彼女は勝利に沸く騎兵たちには見向きもせず、馬から降りようとしてよろけたリュキオスの腕を無言で掴み、支えた。
「……っ、すまない。足が痺れて」
「馬具が合っていない。そのまま走れば次は鞍から落ちるぞ」
ダフネは短く注意し、手近な布でリュキオスの馬の革紐を縛り直した。彼女は「走る側」ではなく、常に「戻ってきた者を労う側」としてそこにあった。
「上出来だ、主計殿」
ミュロンが、泥と血に汚れた槍の穂先を拭いながらレオンの横に立った。
「追う前に決めておきゃ、形になるもんだな。お前さんが捻り出した騎兵と鉛の弾が、見事に敵の牙を折ったな。おまけに、あの舌の回るペルシア人を這いつくばらせた」
「僕が組んだのはあくまで紙の上の段どりです。それを使って状況を動かしたのはクセノポン……ええと将軍?たちですよ」
レオンが珍しく素直に返すと、ミュロンは目を丸くし、そしてニヤリと笑った。
「まあ、紙の上の理屈もたまには役に立つってことだ。お前の組んだ段取りのおかげで、荷駄もまあ普通な感じに動けてる」
だが、軍が再び行軍を再開した時、レオンの背筋を寒くさせるような「薄気味悪さ」が宿営地全体に混じり始めていた。
「おい、こいつの顔、もっと潰してやろうぜ!」
「騙し討ちのペルシア犬め! これでも食らえ!」
谷の周辺に転がっていたペルシア兵の死体に、ギリシア兵たちが群がっていた。彼らは死体の顔を石で叩き潰し、手足を切り落とし、過剰なまでに報復の刃を向けていたのだ。血の乾いた石が転がり、原型を留めない肉塊が散乱している。
そして、その憎悪の矛先は、生かしたまま荷駄の末尾に繋がれていたミトリダテスにも向かった。
「歩け! 豚め!」
荷駄引きや軽装歩兵たちが、縄を引くたびに石を投げつけ、槍の石突で彼の背中を小突いた。
「やめろ……私は、キュロス殿下の友人……」
「その王弟様を裏切った奴が何をいってやがる…薄汚いゴミめ!」
「ギリシャまで引きずって行って、鉱山奴隷に売り飛ばしてやるからな!」
ミトリダテスが乾いた唇で懇願の言葉を紡いでも、返ってくるのは嘲笑と殴打だけだった。美しい言葉で包まれた交渉は、今や彼自身の口から出た途端に泥の中へ落ちていく。
「……やめさせないのですか?」
レオンは、近くを通りかかったケイリソポスに思わず尋ねた。
「放っておけ」ケイリソポスは前だけを見たまま、短く切り捨てた。
「兵たちには、クナクサからの負け戦と、将軍たちを殺された怒りがどす黒く溜まっている。ここで吐き出させなければ、今度は内部に向かう……それに、あれだけ無残に切り刻まれた死体と、這いつくばる使者の姿を見れば、敵もおいそれとは追ってこなくなる」
理屈としては正しい。
だが、理性や自制のたがが外れ、憎悪を剥き出しにする味方の姿は、軍が決して綺麗な一枚岩ではないことをレオンに突きつけていた。
軍はティグリス川沿いに、渓谷の切り立った崖の上を進んでいた。
道は細く、片側は深くえぐられた谷底だ。
ミトリダテスは両手を縛られたまま、荷車の後方に繋がれた縄に引かれてよろよろと歩いていた。彼の目には、理性を失ったギリシア兵たちにいつ切り刻まれるか分からないという恐怖が極限まで達していた。
ふと、荷車の車輪が轍に深くはまり、列が一時的に止まった。
護衛の兵たちが車輪を押し出そうと一瞬目を離した、まさにその時だった。
ミトリダテスは最後の力を振り絞り、繋がれていた縄を荷車の木枠に擦り付けて強引に引きちぎると、そのまま崖の縁へと向かって走り出した。
「あっ、逃げやがったぞ!」
兵たちが声を上げ、槍を構えて追う。
ミトリダテスは崖のなだらかな斜面を下って逃げようとしたのだろう。だが、恐怖と疲労で目が眩んでいたのか、あるいは木の根か地面の柔らかいところに足をとられたのか。
彼の身体は崖のなだらかな面と切り立った部分の縁……生と死を分けるような境目で大きく傾き、悲鳴を上げる間もなく、そのまま真っ逆さまに深い谷底へと落下していった。
ドスッ、という鈍い音が遥か下から響き、後はただ風の音だけが残った。
兵たちは崖の縁まで寄って行ってから、動かなくなったミトリダテスの死体を無言で見下ろしていた。
「だめだ、死んでやがる......」
「チッ、まだまだこれからだってのによ」
美しい言葉で軍を騙そうとした男の、あっけない最期。彼がどれほどの知恵と弁舌を持っていたとしても、この無慈悲な荒野と、飢えた軍の現物の前では何の役にも立たなかった。
(……結局、言葉だけの約束なんて、足元が崩れれば一瞬で消えるんだな)
レオンは手元の帳面を見つめた。自分が書いているこの数字も、気を抜けばあの男のように虚しく散る日が来るのだろうか。
軍は再び北へ進み、やがて地平線の向こうに巨大な影が見えてきた。
かつてメディア人が住んでいたという廃都、ラリッサのそびえ立つ大壁だ。
古い帝国の死骸が、勝利の余韻と薄気味悪さを抱えたまま進むギリシア軍を、無言で待ち受けていた。
やがて軍は行軍を再開し、ティグリス川沿いの平原をさらに北へと進んだ。
午後になり、地平線の向こうに巨大な影が見えてきた。
「……なんだ、あれは」
若手のカリアスが、口をぽかんと開けて指を差した。
それは、石積みの大壁だった。
高さ十尋(約十八メートル)はあろうかという、圧倒的な質量を持った城壁。それが、地平線の端から端まで続いているように見える。
だが、その巨大な都には、人の気配が全くなかった。風化し、崩れかけた塔。草の生い茂った土台。
古い帝国の死骸。
(……ラリッサか)
レオンは、中央の学問の塔で読んだ古い書物の記憶を呼び起こした。かつてメディア人が住んでいたという巨大な廃都。
彼らは今、歴史の死骸の足元を通過しようとしている。
勝利の余韻は消え、兵たちの顔に、見知らぬ巨大なもの…いや巨大な廃墟…に対する原初的な恐怖が浮かび始めていた。




