第62話 射程が足りないなら……
夜の闇の中、プロクセノス隊の宿営地には無数の小さな火床が点在していた。だが、それは暖を取るためのものでも、飯を煮るためのものでもない。
「鉛を集めます! 予備の荷車の軸受け、水袋の重り、何でもいいから鉛でできたものを持って来てください!」
レオンの指示のもと、テオドルスが声を裏返らせて宿営地を駆け回っていた。
レオン自身は火床の前に陣取り、煤けた帳面を広げている。彼の役割は、クセノポンが軍議でぶち上げた「届く武器」と「追う足」を、明日の朝までに実体化させることだった。
「主計殿、俺の隊の予備の鍋まで持っていく気か! これがねえと……」
「鍋の底の補強に使われている鉛を剥がすだけです」レオンは抗議にきた半隊長を、冷徹な声で一蹴した。「今日の昼間、後衛がどれだけ削られたか見ていたでしょう。明日も一方的に石で頭を割られたいなら、そのまま持って帰ってください。ただし、死んだ後の鍋は僕が回収しますが」
皮肉の混じった正論を叩きつけられ、半隊長は渋々と鍋を置いて去っていった。
集められた鉛の破片は、素焼きの壺に入れられ、火床でドロドロに溶かされる。それを土に指で開けた窪みに流し込み、次々と親指ほどの大きさの「鉛弾」を鋳造していくのだ。
「ただの石じゃ駄目なんですか?主計殿」
火の番をしているカリアスが、熱気で顔を赤くしながら尋ねてきた。
「ペルシアの投石兵が使っているのは、その辺で拾った石です」レオンは帳面から目を離さずに答えた。「だが、鉛なら同じ大きさでもずっと重い。空気の抵抗を受けにくく、はるかに遠くまで飛ぶ。……それに、当たる面積が小さいから、兜ごと頭蓋を叩き割れる」
カリアスの顔が引きつった。
並行して、テオドルスには全軍の名簿から「ロドス島出身者」を拾い上げさせていた。
海に生きるロドス人は、幼い頃から投石紐を遊び道具や狩りに使って育つ。彼らの技術はギリシアでも随一だった。
「約二百名、拾い上げできました」テオドルスが羊皮紙を持って駆け戻る。
「よし。彼らを歩兵の列から外し、独立した『投石兵部隊』として再編しないといけません。各隊の隊長に布告して回ってください。拒否するなら、鉛弾の材料として兜の繋ぎ目の鉛を供出させましょう」
射程の長い「手」の目処は立った。
だが、問題は敵を追う「足」だった。
「冗談言うな、主計殿! この鹿毛は右の後ろ脚に癖がある。荷引きなら誤魔化せるが、人を乗せて走らせたら半刻で腱が切れるぞ!」
馬を繋いでいる区画で、荷駄頭のバウコスが怒鳴り声を上げていた。
レオンは額の汗を拭いながら、名簿の数字と現場の馬を見比べていた。
「ですが、名簿上は三十頭の予備があるはずです」
「それは『歩ける馬』の数だ! 『人を乗せて平原を駆ける馬』の数じゃねえ!」バウコスは太い指で馬の背中を叩いた。「こいつも駄目だ。背の肉付きが落ちてるすぐにばてるぞ。こっちの葦毛は……まあ、いけるか。だが、これを持っていかれたら、こいつが引いていた大麦の袋は誰が背負うんだ?」
「……歩兵に割り振るしかないですね」
レオンが苦々しく答えると、バウコスは深くため息をついた。
「荷車を焼いたばかりだってのに、また兵の背中が重くなるな。不満が爆発するぜ」
「爆発する前に敵の弓で串刺しになりたくなければ、背負うしかないんですよ、バウコス」
「ちがいねぇ」
レオンの数字による割り出しと、バウコスの職人としての目利き。紙の上の理屈と現場の泥臭さが激しくぶつかり合いながら、騎兵に転用できそうな馬が少しずつ選別されていく。
さらに、クレアルコスやプロクセノスといった死んだ将軍たちの遺した馬、そして現在将校たちが乗っている馬も容赦なく徴発の対象とした。
「俺の馬を奪う気か、主計!」
重装歩兵の顔役である百人隊長のカレスが、血相を変えて怒鳴り込んできた。
「将校の馬を歩兵あがりの若造に渡すなど、誇りが許さん!」
「誇りでは敵の騎兵に追いつけません、カレス殿」レオンは怯まずに言い返した。「あなたは馬の上から槍を投げて、ペルシア騎兵に当てられますか? できないなら、馬を下りてください」
「貴様……!」
「これはクセノポン殿とケイリソポス殿の決定です。不服なら彼らに直接どうぞ」
レオンが淡々と責任の所在をすり替えると、カレスは忌々しげに舌打ちをして馬の手綱を投げ捨てた。
こうして、各方面から恨みを買いつつも、レオンとバウコスは夜明けまでに五十頭の馬をかき集めることに成功した。
選別された馬の周りには、馬上槍と盾を持った若手の兵たちが集められていた。彼らは歩兵の中から、少しでも騎乗経験のある者を見繕った急造の騎兵だ。
その先頭に立っていたのは、アテナイ出身の若手士官格、リュキオスだった。
「主計殿、ご苦労!」
リュキオスは、あり合わせの革紐で作った仮の馬具を締め直しながら、前のめりな笑みを浮かべていた。
「これだけ足があれば、敵の後衛を食い破れる。追って、殺して、戻ってくる。任せてくれ」
速さと機動を手に入れた高揚感が、彼の全身から溢れている。
(……頼もしいが、危ういな)
レオンは内心で冷静に評価した。寄せ集めの五十騎だ。相手はミトリダテスが率いる生粋のペルシア騎兵二百。正面からぶつかれば一捻りにされる。彼らの役割はあくまで「敵が近づきすぎないように脅かすこと」であり、深追いは死を意味する。
だが、その運用を考えるのは自分の仕事ではない。
「無理はしないでくださいよ、リュキオス殿。その馬を一頭でも失えば、明日から数十人の兵が飢えますからね」
レオンがチクリと釘を刺すと、リュキオスは苦笑して馬の首を撫でた。
夜が明けた。
東の空が白み始め、宿営地にラッパの音が響く。
出発の準備を整えた軍の形は、昨日とは少し変わっていた。
後衛のさらに後ろには、投石紐を手にし、腰の袋に重い鉛弾をじゃらじゃらと詰め込んだロドス人の部隊が二百名。
そして、列の側面には、リュキオス率いる五十の急造騎兵が、馬の鼻面を並べて待機していた。
射程と追撃。
昨日、彼らを散々に苦しめた「足りない条件」が、一晩で形になってそこにあった。
「見事だ、レオン殿」
背後から、落ち着いた声がした。クセノポンだった。
彼はすでに兜を被り、出立の準備を終えていた。彼自身の馬も徴発に出したため、今は完全に徒歩の重装歩兵と同じ出立ちだった。
「まさか、一晩でロドス人をまとめ上げ、これだけの馬と鉛を揃えてみせるとは。君の実務の腕は、単なる主計以上の価値がある」
「……お褒めいただき光栄です」
レオンは軽く頭を下げたが、その言葉には実感がこもっていた。
「ですが、代償は小さくありません。荷駄の馬を抜いたことで、重装歩兵にも直接荷物を背負わせました。兵の疲労は昨日より確実に早まりますし、不平も溜まっています」
小さな成果の裏には、必ず小さな失敗と負担が張り付く。それが勘定の現実だ。
だが、クセノポンはその報告を聞いても、不快な顔はしなかった。
「分かっている。軍を生かすための君の決断だ。その重みは、私が引き受ける」
クセノポンの真っ直ぐな視線に、レオンは一瞬、言葉に詰まった。
この男は、理想を語るだけでなく、レオンが泥水に手を入れて作った「現物」の重さを理解している。
(人を動かす側と、軍を生かす側……)
レオンの中で、クセノポンの方針と自分の実務が、初めてカチリと噛み合った気がした。それは、身分や教養の共感からくるものではなく、職能と職能の冷徹な結びつきだった。
レオンは、徹夜の作業で指先が痺れ、目は充血していたが、不思議と気分は悪くなかった。むしろ、自分の知識と配分が、この巨大な軍の形を変えたという「職分への熱」が、腹の底で燻っているのを感じていた。
「坊ちゃん」
ミュロンが、槍を肩に担ぎながら近づいてきた。その隣には、相変わらず無表情なダフネが立っている。
「お絵描きと泥遊びは終わったか。形が良くなったからって、勝てるかどうかは別だぜ」
「分かっていますよ。だから、あなたがたがいるんでしょう」
レオンが皮肉で返すと、ミュロンは鼻で笑った。
「言うようになったじゃねえか。まあ、あの鉛の弾がどれだけ飛ぶか、見せてもらおう」
ダフネは何も言わず、レオンの腰帯に挟まっていた木札を一枚抜き、逆さになっていた向きを直して差し戻した。
「落とす」
「……見ていたんですか」
「落としそうだった」
陣形が整い、軍がゆっくりと北へ向かって動き出す。
背中に重い荷を負わされた兵たちの足取りは重い。だが、彼らの目には、昨日までの「一方的に殺される恐怖」とは違う、微かな反逆の光が宿っていた。
陽が昇り切り、平原の土が暖まり始めた頃。
背後の地平線から、再び土煙が上がった。
ミトリダテスの騎兵部隊だった。彼らは昨日と同じように、ギリシア軍を遠巻きにして嬲り殺そうと、一定の距離を保ちながら接近してくる。
レオンは振り返り、後衛に配置されたロドス人たちと、息を潜めるリュキオスの騎兵を見た。
机の上で組んだ手が、現実に通用するのか。
その場しのぎの悪あがきで終わるのか、それとも、この軍が自力で生き残るための「牙」となるのか。
「撃て!」
後衛から、裂帛の気合いとともに号令が飛んだ。
鉛の弾が、風を切り裂いて空へ放たれた。




