第61話 届かない矢
ザパタス川の冷たい水を渡り切った時、兵たちの間にはわずかながらも安堵の空気が流れていた。
川という明確な障害を背にしたことで、追撃を一旦は振り切れると考えたのだ。軍は正規の方陣(四角い陣形)を組み直し、荷駄を中央に守る形で平原を北へと進み始めた。
だが、その安堵は長くは続かなかった。
後方から土煙を上げて迫ってきたのは、二百の騎兵と、四百を超える弓兵、そして投石兵を率いたミトリダテスの部隊だった。
ヒュッ、という風を裂く音が連続して響き、空が黒い飛礫で覆われた。
「盾を構えろ!」
後衛から悲鳴にも似た号令が飛ぶ。
ドスッ、という鈍い音が連続して鳴り、重装歩兵の青銅の盾が矢と石弾を弾く。だが、盾の隙間を縫って飛んできた石弾が軽装歩兵の頭をかち割り、太い矢が太ももを貫く。
「ぎゃあっ!」
「痛え! 足が、足が!」
(また止まる!)
レオンは列の中央で、荷駄の動きがピタリと停止したのを感じ、奥歯を噛み締めた。
敵の攻撃を受けると、どうしても隊列の足は鈍る。荷を引く獣が怯え、負傷者が足元に転がれば、車輪は進めなくなる。
全体の中で最も鈍足な荷駄隊だ。その影響はたちまちに現れる。
「くそっ、撃ち返せ! クレタ弓兵、前に出ろ!」
クセノポンの怒号が響き、後衛に配置されていたクレタ人の弓兵部隊が応射の構えを取った。彼らはギリシア人の中でも弓の名手として知られている。
ビュンッ!
何十本もの矢が、放物線を描いてミトリダテスの部隊へ向けて放たれた。
しかし。
「届かねえ……!」
ミュロンが、前方を睨みつけながら低く唸った。
その言葉通りだった。クレタ人の放った矢は、敵の騎兵の数十歩も手前で、乾いた地面に虚しく突き刺さったのだ。ペルシアの弓はギリシアの弓よりも大きく、その分、射程がはるかに長い。
敵は自分たちの矢だけが届き、こちらの矢は届かない「安全な距離」を正確に保っていた。
そして、ペルシアの投石紐から放たれる拳大の石弾は、弓よりもさらに遠くから飛んできて、ギリシア兵の兜をへこませていく。
「追え! このままでは削られるだけだ!」
クセノポンが剣を抜き、重装歩兵と軽装歩兵の一部を率いて、敵部隊へと突撃を開始した。
「うおおおお!」
勇猛な喊声を上げて、ギリシア兵が土埃を蹴立てて走り出す。
(駄目だ、追いつけるわけがない!)
レオンは手元の帳面を強く握りしめた。
相手は騎兵だ。歩兵がどれだけ重い武具を揺らして走ったところで、馬の足に追いつける道理がない。案の定、ミトリダテスの騎兵たちは慌てる素振りも見せず、ギリシア兵が追ってくると同時に馬を反転させ、一定の距離を保ったまま逃げ始めた。
そして恐ろしいことに、彼らは逃げながら振り返り、馬上から正確に矢を射掛けてきたのだ。
「ぐっ!」
追撃の先頭を走っていた兵が、顔面に矢を受けて仰け反り、血飛沫を上げて倒れた。血で滑った地面に後続の兵が足をとられ、次々と折り重なって倒れる。
投げ槍を投げようにも、距離が遠すぎて全く届かない。
ギリシア兵はただ息を切らして走り、敵の矢の的になるだけだった。
「……退け! 本隊へ戻れ!」
クセノポンの苦渋に満ちた声が響き、追撃部隊は這々の体で荷駄列へと戻ってきた。
ダフネが音もなく動き、足に矢を受けて倒れ込んだ軽装歩兵の襟首を掴み、強引に荷車の陰へと引きずり込んだ。
「痛え、抜いてくれ!」
「黙れ。暴れると傷が広がる」
ダフネは冷徹な声で言い放ち、兵の足に刺さった矢の柄を素早く手折った。矢尻を無理に抜けば出血で死ぬ。彼女は戦場の処置に慣れていた。
レオンは、ダフネが折った矢柄の切れ端を拾い上げた。
(長い)
それがレオンの最初の感想だった。クレタ人が使う矢よりも、明らかに長く、太い。これだけの質量のものを飛ばすのだから、弓の張力も射程も段違いなのだ。
「主計殿、邪魔だ。下がりな」
ミュロンが、新しい負傷者を担ぎ込みながら言った。「追っても届かねえ。あいつら、馬鹿みたいに足が速え上に、弓の長さが違いすぎる」
現場の古参兵の言う通りだった。
どれだけ兵に勇気があろうと、怒りで顔を真っ赤にして突撃しようと、物理的な射程(届く距離)と機動力(追える足)の差はどうにもならない。
結局、その日、ギリシア軍は敵の執拗な嫌がらせを受け続け、行軍距離をまるで稼ぐことができなかった。
夕暮れになり、敵が引き上げた後、ようやく宿営の陣を敷いたが、兵たちの顔は昨日の「ゼウス救済神」の熱狂が嘘のように沈み込んでいた。
無駄な追撃で体力をすり減らし、負傷者ばかりが増えた。レオンの帳面には、またいくつもの「死」と「重傷」の印が書き込まれた。
夜。
将軍と各隊の隊長たちが集まる軍議の場は、重苦しい空気に包まれていた。
「今日の行軍は、控えめに言っても最悪だった」
ケイリソポスが、腕を組みながら短く切り捨てた。「一日中敵の石と矢を浴び続け、進んだ距離はわずか。このままでは、アルメニアの山を越える前に全滅する」
誰も反論できなかった。
その沈黙の中、クセノポンが立ち上がった。
「ケイリソポス殿の言う通りだ。今日の被害の責任は、私にある」
彼は言い訳を一切しなかった。
「私は敵の攻撃に耐えきれず、追撃を命じた。しかし、重装歩兵の足で騎兵に追いつけるはずもなく、結果として本隊との間に隙間を作り、無駄な負傷者を増やしただけだった。勇気だけで敵を退けようとした私の失策だ」
神妙に頭を下げるクセノポンを見て、レオンは少し驚いた。
(この男……自分が間違えていたと、真っ直ぐに認めるのか)
権力を持つ者、特にアテナイの教養人というものは、自身の失敗を美辞麗句で飾ったり、部下のせいにして逃げるものだとレオンは思っていた。しかしクセノポンは、自らの非を明確な言葉で切り出し、反省の材料として場に置いたのだ。
レオンの中で、クセノポンへの見方が少し変わった。この男の言葉は、信用に足るかもしれない。
「だが、今日の失敗から我々が学ぶべきことは明らかだ」
クセノポンは顔を上げ、冷静な声で続けた。
「我々に足りないのは、決して勇気ではない。いくつかの武器だ。第一に、敵の長い弓と投石に対抗できる『届く武器』。第二に、逃げる敵を追うための『騎兵』だ。これらが無ければ、明日も同じように削り殺される」
レオンは帳面を見つめた。
(射程と、騎兵)
言葉にするのは簡単だ。だが、自分たちが今持っていないものを、この荒野のど真ん中でどうやって手に入れるというのか。
「届く武器と言われてもな」アガシアスが頭を掻きながら言った。「クレタ人の弓が一番飛ぶんだ。これ以上長い弓を持ってる奴なんて、うちの軍にはいねえぞ」
「騎兵もそうだ」別の隊長が嘆息した。「我々(キュロス陣営)の騎兵は皆、ペルシア人だけだったしな。いまの俺たちに残っているのは歩兵だけだ」
「無いなら、作るしかない」
クセノポンの目には、諦めの色は全くなかった。
「幸い、我々の中にはロドス島出身の者が多くいる。彼らの投石紐は、ペルシア人の拳大の石弾よりもさらに遠くまで飛ぶと聞いた。彼らに鉛の弾を作らせれば、敵の射程の外から撃ち返せるはずだ」
「なるほど……」ヒエロニュモスが唸った。「だが、鉛はどうする? 騎兵の馬はどうするんだ?」
「鉛なら、予備の武具や荷車から剥ぎ取れる部分があるはずだ」クセノポンは即答した。「馬については、今、荷駄を引かせている馬や、我々将校が乗っている馬を徴発し、騎乗経験のある兵に乗せる。急造の騎兵隊を作るのだ」
レオンの心臓が大きく跳ねた。
(荷駄の馬を騎兵に回す!?それはしんどいぞ)
それは、レオンが管理する実務の世界への、強烈な干渉だった。
荷駄馬を減らせば、当然ながら運べる物資の量は激減する。ただでさえ今日、荷車を焼いて荷物を減らしたばかりだというのに、さらに運搬力を削るというのか。
それに、誰の馬を奪い、誰を歩かせるのか。不公平が出れば、すぐに兵科間の利害衝突(揉め事)に発展する。
「主計殿」
クセノポンが、火床の向こうからレオンを真っ直ぐに見据えた。
「君の管轄する荷駄から、騎兵に転用できる馬を洗い出してほしい。そして、鉛になりそうな金属の在庫もだ。明日の朝までに、編成を組み直す」
レオンは息を呑んだ。
それは命令ではない依頼の形で発せられた。
しかし「軍を生かすための現物のやり繰り」を、完全に任されたのだ。
成果としては、問題の正体がはっきりと見えたこと。
だが失敗としては、今日の行軍で無駄な血を流し、荷駄の余裕をさらに失うことが確定したことだ。
「……承知しました。微力を尽くします」
レオンは丁寧に、だが少し棘を交えて答えた。
「ただし、荷駄の馬を減らせば、また何かを捨てなければならなくなります。騎兵になる者が馬に乗る分、歩兵たちの背中にはさらに重い荷物が乗ることになりますよ」
「分かっている。その恨みは私が被ろう」
クセノポンは短く答え、軍議を締めくくった。
夜の冷気が、陣幕の隙間から入り込んでくる。
レオンは自陣に戻り、テオドルスとバウコスを呼び寄せた。
(勇気では届かないか…だから、手立てを作ると…
なるほどね…しかし、下の恨みや憎しみを、ああも簡単に引き受けるとは…
ここまで一緒に行軍してきたんだ、現場の兵士がどういう生き物かはわかっているだろうに)
明日の朝までに、この「紙の上の案」を、現実に人を動かせる形に整えなければならない。
レオンは削り直した羽ペンを握り、重い帳面を開いた。
苛立たしいながらも、どこか納得させらるものを感じつつ…それでもやっぱり釈然としないところもあり…作業を開始した。
一度手が動けば、職業的な熱が入り始めている自分を、彼は確かに感じていた




