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第60話 薄気味悪い笑顔の男ふたたび

 平原に、三十騎ほどの騎馬がゆっくりと近づいてきた。

 レオンは冷めかけの鍋の灰を見つめていた視線を上げ、干し肉を噛む手を止めてその集団を観察した。

(少ないな)

 交渉の使者という名目なら妥当な数だが、レオンの目は彼らの馬の様子を捉えていた。馬の腹にはうっすらと汗が張り付き、彼らがゆっくり近づいてきたのはごく最近で、それまでは急足で馬を飛ばしてきたことを示している。

 随伴している者たちの質も妙だった。使者にしては重武装、視線が落ち着かない。こちらの陣形の隙間や、残っている荷車の数を数えようとしているように見えた。


 先頭の男、ミトリダテスが笑顔で口を開いた。

「ギリシアの勇者たちよ、どうか武器を下ろしていただきたい。私は諸君に好意を持って、話をしに来たのだ」


 ダフネが動いた。

 音を立てず、レオンの斜め前からスッと横にずれ、ミトリダテスとレオンを結ぶ直線上に立ったのだ。彼女は手にした短槍を構えはしなかったが、足幅はいつでも地を蹴れる広さに開かれていた。

 彼女は相手の美しい言葉など聞いていない。ただ、あの三十騎が突撃してきた場合、どの軌道でここへ到達するかだけを見ている。


 前衛を預かるケイリソポスと、新将軍クセノポンが進み出た。

「私は、かつてキュロス殿に最も忠誠を尽くした者だ」

 ミトリダテスは馬上から、人好きのする笑みを崩さずに言った。

「そして今、諸君らギリシア人にも多大な好意を抱いている。諸君らのような勇猛な者たちが、なぜこのような過酷な道を選ぼうとするのか。もし諸君らが、我々ペルシアに害をなさないという賢明な判断を下すのであれば、私はただちに諸君の友人として同行し、道案内を買って出ようではないか」


 甘く、理路整然とした言葉だった。

 王の側に就いたはずの彼が、今もキュロスへの情を忘れておらず、ギリシア人を救いたいと言っている。

 レオンの周囲にいた兵たちの何人かが、その言葉に顔を見合わせた。昨日まで絶望の淵にいた彼らにとって、「道案内」と「友人」という単語は、あまりにも魅力的だった。

(言葉が通じるから、怖い)

 レオンは胃の奥が冷えるのを感じた。

 ミトリダテスの言葉には、実務の裏付けが一切ないのだ。彼が何人分の食糧を用意できるのか、どのルートの水場を知っているのか、そうした具体的な見積り(ロギスモス)が一つも提示されていない。ただ「好意」と「友人」という、中身のない美しい言葉で包み込んでいるだけだ。


「我々の答えは一つだ」

 ケイリソポスが、短い刃を突き刺すように言い放った。

「我々が無事に国へ帰るのを邪魔しないのであれば、こちらも誰の土地も荒らさずに通り過ぎる。だが、我々の帰路を塞ぐ者がいるならば、持てる力のすべてを使って戦うのみだ」

 余計な理屈を削ぎ落とした、前衛の将らしい硬い返答だった。

 ミトリダテスの笑顔が、ほんのわずかに引き攣った。

「……ケイリソポス殿、それは賢明とは言えない。偉大なる王の意志に逆らって、どうして君たちが無事に生きて帰れるというのだ? 私は君たちを心配して……」


「これ以上の交渉は無用だ!」

 クセノポンが、ケイリソポスの言葉を継ぐように大声で遮った。

「君が誰の差し金で来たかは分かっている。ティッサフェルネスの命令だろう。これ以上、君たちの甘い言葉で我々の時間を奪うことは許さん!」

 クセノポンは振り返り、集まった兵たちに向かって声を張り上げた。

「諸君! これは交渉ではない。我々がどれだけ荷車を焼いたか、どれだけ腹を空かせているか、そして……誰が降伏論に揺れるかを探りに来ただけの斥候だ!」

 その言葉に、兵たちの間にハッとしたような空気が流れた。

「以後の行軍において、敵地を抜けるまで、我々は一切の使者を受け入れない! 休戦の使者を装って近づく者は、すべて敵と見なす!」

 将軍の決定に、重装歩兵ホプリタイたちが一斉に槍の石突で地面を鳴らし、同意の意思を示した。

 ミトリダテスは肩をすくめ、いかにも残念だという表情を作ると、手綱を引いてゆっくりと引き返していった。


(これで、もう甘い言葉で切先を鈍らされることはない)

 レオンは少しだけ安堵の息を吐いた。

 使者の正体を探りだと見切り、完全な敵対へと舵を切った。これは大きな成果だ。


 だが、失敗の種も確実に蒔かれていた。

 その夜、宿営地でレオンが夕食の配給と人数の確認を行っていた時のことだ。

「……また減った」

 レオンは羊皮紙を見つめ、苛立たしげに墨で線を引いた。

「ニカルコスという小隊長が、二十人ばかり連れて姿を消したそうです。南へ向かったとか」

 テオドルスが、怯えたような声で報告した。

「……馬鹿な奴らだ」

 ミュロンが臨時の火床に薪をくべながら、吐き捨てるように言った。

「あのペルシア人の言葉に踊らされたんだ。あいつについていけば、王の慈悲にすがって命だけは助かるってな。……今頃まとめて始末されてるだろうよ」

 レオンは無言で帳面を閉じた。

 将軍たちがどれだけ正論を説き、決意を固めても、末端の兵の中には、美しい言葉と楽な道に流される者が必ず出る。そして、彼らが持ち出した分の武器と、わずかながらも配給した食糧は、二度と軍には戻らない。


 翌朝、軍は行軍を再開した。

 残した荷を厳選し、身軽になったおかげで、彼らは思いのほか早くザパタス川の岸辺に到達し、無事に渡り切ることに成功した。

(川を越えた。これで一つの障害は越えた……)

 レオンがそう思い、水袋の残量を確認しようとした時だった。


「後方より、敵影!」

 後衛の兵が、空気を切り裂くような悲鳴を上げた。

 レオンが振り返ると、そこには昨日のミトリダテスの姿があった。

 だが、今日は三十騎ではない。

 ざっと見積もって二百の騎兵と、四百を超える弓兵、そして投石兵が、一定の距離を保ちながらギリシア軍の背後へと迫っていたのだ。


 彼らの顔に、もうあの親しげな笑顔はなかった。

 ミトリダテスの手が振り下ろされると同時、美しい言葉の代わりに、無数の矢と石弾が、ギリシア軍の後衛へ向かって降り注いできた。

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― 新着の感想 ―
ここからが本番だなぁ 1年掛けてビザンツまで移動する苦難の始まりだ
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