第59話 明日のために荷車を焼こう…
「不要な天幕も、重い荷車も、すべて火へくべるのだ」
クセノポンのその号令は、広場の中央で聞いた時には確かに雄々しく、兵たちの胸を熱くさせた。だが、それぞれの宿営地へ戻り、足元に積まれた自分たちの荷物を前にした瞬間、熱狂は冷や水のように引いていった。
「嘘だろ……。寝床まで燃やすのかよ」
火の番をしている若手兵のカリアスが、重い足取りで自分の陣幕へ戻るなり、泣きそうな声を出した。
「俺がどれだけ苦労して、この分厚い布を手に入れたと思ってんだ。夜露を凌ぐにはこいつがいるんだぞ」
「持っていくなら背負って歩け。誰の荷車にも乗せねえぞ」
横から冷たく言い放ったのは、荷駄頭のバウコスだった。彼は太い腕組みをして、並んだ荷車の一つ一つを値踏みするように睨みつけていた。
「主計殿。車輪が歪んでるのが三台、車軸にひびが入ってるのが二台ある。馬ももう限界だ。食い扶持を減らすためにも、状態の悪い駄獣は荷駄から外して騎兵用に回すんだろ? だったら、荷車は丸ごと置いていくしかねえ」
文字は読めないバウコスだが、獣の疲労と車輪の軋みを聞き分けることに関しては、レオンの帳面よりも正確だった。
「……分かりました。ありがとうございます」
レオンは手元の羊皮紙を見つめながら答えた。
家政とは本来、富を蓄え、適切に管理・配分することだ。だが今、彼がやらなければならないのは、その逆だった。極限まで削り、捨て、燃やすこと。
「軍全体を早く動かすには、荷車が邪魔になる。敵の騎兵に追いつかれない速度を出すなら、すべてを背中に背負える形に縮めなければならない…とのことですカリアス」
レオンはカリアスに向き直った。
「天幕は最低限を残して全て焼きましょう。と、その前に、背負子とか背負用の頭陀袋に加工しちゃいますか…
あとは、外套…いやマントかな…あたりに仕立ててもいいですね。
予備の鍋も、余分な替え布も、今はただの重りです。どうしても必要な物だけを各自の背嚢に詰めてください。余った物資は、まだ手ぶらの者たちで分け合って、それでも余るものは……火へ入れてしまいましょう」
「主計殿!」カリアスが悲鳴を上げふ。
「文句を言うな! 荷が重くて追いつかれたら、全員切り刻まれるんだぞ!」
火床分隊長が横からがなった。
その強い口調に、カリアスは肩をびくつかせ、恨めしそうに陣幕の支柱を蹴り倒した。
宿営地のあちこちから、布を切り裂く音や、木材を叩き割る音が響き始めた。
兵たちは、数ヶ月の遠征で溜め込んできた「財産」を、自分たちの手で壊していく。美しい刺繍の入った布、戦利品の銀の杯、少し重いが頑丈な予備の甲冑。平時であれば銀ミナの価値がある代物も、今日のこの荒野では、命を奪うだけの重りでしかない。
燃え上がる焚き火のあちこちから、黒い煙が上がり始めた。焦げた布や木材の匂いが、冷たい朝の空気を濁していく。
レオン自身も例外ではなかった。
彼の足元には、数ヶ月にわたって記録し続けてきた配給や在庫の「控え」の羊皮紙が山積みになっていた。
(誰に何を渡し、誰がどれだけ未払いか。この記録こそが僕の仕事だったのに)
数字の束は、彼が軍の中で無能ではないと証明するための唯一の武器だった。だが、重い。束になればなるほど、羊皮紙は物理的な重量を伴って荷を圧迫する。
「……最新の在庫と、直近の配給名簿だけを残す。残りは……」
レオンは奥歯を噛み締め、古い控えの束を掴んだ。震える手で、それを火床へ投げ入れようとした時だった。
ダフネが無言でしゃがみ込み、レオンの荷物の山から、火口の入った革袋と、水袋だけを素早く抜き取った。
「これは私が持つ」
「ダフネ……」
「残りは、さっさと燃やす」
彼女は、レオンがどれだけその記録に執着していたかを知っている。だが、慰めなど一切口にせず、ただ「生存に必要な物」だけを切り分け、それ以外を切り捨てる決断を促した。
レオンは息を吐き出し、羊皮紙の束を次々と火へ放り込んだ。
パリパリと音を立てて、彼が積み上げてきた勘定の歴史が、黒い灰へと変わっていく。二度と取り戻せない記憶が削られていく痛みが、胸の奥を焼いた。
「よくやったな、坊ちゃん」
背後から、ミュロンのしゃがれた声がした。
振り返ると、古参の半隊長は、レオンの指示通りに解体され、燃やされていく荷車の残骸を静かに見つめていた。普段なら「羊皮紙を抱えて死ぬ気か」と嫌味を言うところだが、今日は違う。
「帳簿役が自分の手で記録を燃やせば、他の連中も文句は言えねえ。……これで、少なくとも出立の準備では詰まらなくなる」
ミュロンはレオンの選別した荷束を一瞥し、露骨な文句を一つもつけずに背を向けた。それは、現場の責任者として、レオンの実務の判断を黙って認めたという合図だった。
太陽が完全に昇る頃には、元プロクセノス隊の宿営地はすっかり様変わりしていた。
巨大な天幕はなくなり、荷車の列は半分以下に減った。兵たちは煤けた手で顔を拭い、削り直した薄っぺらな荷束を背負っている。
確かに、目に見えて身軽になった。いつでも動き出せる形には近づいた。
だが、その代償として、彼らの「暮らし」の痕跡は消え失せた。ここはもう、彼らが休む場所ではなく、ただ通過するためだけの仮の地面なのだ。切り捨てる痛みが、兵たちの顔に暗い影を落としていた。
「火があるうちに、飯を炊け! 灰になる前に湯を沸かせ!」
ミュロンが声を張り上げ、兵たちが慌てて残った鍋に群がり始める。
レオンもまた、煤で真っ黒になった手をはたき、ようやく朝の飯を口に入れようと干し肉を取り出した。
形だけは、なんとか軍に戻った。身軽にもなった。
これで少しは進めるはずだ。レオンはそう思おうとした。
だが、その時だった。
「……前方より、騎馬の影!」
前衛に立っていた見張りの兵が、鋭い声を上げた。
飯を食いかけていた兵たちの手が止まり、一斉に武器へと伸びる。レオンも咄嗟に腰の小刀に手を当て、視線を平原の彼方へ向けた。
朝靄の向こうから、十数騎の小規模な騎兵部隊がゆっくりと近づいてくるのが見えた。
敵の奇襲ではない。彼らは槍を下げ、盾も構えていない。あきらかに交渉のための使者の動きだった。
先頭を進む馬に乗った男の顔が見える距離まで来た時、レオンは微かな嫌悪感を覚えた。
王弟キュロス側についていたはずのペルシアの武官。
ミトリダテスだった。
彼は美しい馬を優雅に操り、重装歩兵たちの槍ぶすまの手前で止まると、その端正な顔に親しげな笑顔を浮かべた。
「ギリシアの勇者たちよ、どうか武器を下ろしていただきたい。私は諸君に好意を持って、話をしに来たのだ」
甘く、耳に心地よい言葉。
だが、レオンの胃の奥で、警鐘がけたたましく鳴り響いていた。




