第58話 夜明けに上がった手
薄暗い霧が足元を這う宿営地に、腹の底に響くような大音声が轟いた。
「全軍、中央へ集まれ! 武器を持て!」
クレアルコス将軍配下の触れ役、エレイア人のトルミデスの声だった。平時は無駄口一つ叩かない彼の声が、巨大な釘を打ち込むように夜明け前の冷たい空気を切り裂く。将軍たちを失い、命令系統が消滅した軍において、全軍へ響き渡る布告の声は、それだけで彼らがまだ「軍」という一つの生き物であるという錯覚を呼び起こした。
レオンは帳面を小脇に抱え、薄い霧の中を歩く兵たちの波に混じった。
兵たちの顔色は土気色で、虚ろだった。昨夜から火も焚かず、ろくに飯も食っていない。兜の下の目は地面だけを見つめ、引きずるように歩を進めている。手には重装歩兵の槍と盾が握られているが、彼らの背中には、これから戦う者の覇気など微塵もなかった。
ただ「死を待つ群れ」が、音に引かれて集まっているだけだ。
ダフネが音もなくレオンの斜め後ろに立った。彼女の視線はこれから演説を行う指揮官たちではなく、周囲にひしめく兵たちの目つきや、槍の石突の向きを鋭く探っている。彼女は言葉で人が救われるなどとは微塵も信じていない。誰かが発狂して暴れ出した時、どうやってレオンを守り、どうやってこの混み合った陣形から抜け出すか、それだけを測っていた。
広場の中央には、生き残った士官たちと、夜のうちに選ばれた新たな将軍たちが立っていた。
最初に前に出たのは、ラケダイモン系の将軍ケイリソポスだった。
「我々の状況は最悪だ」
前衛を預かる歴戦の将は、余計な慰めを一切省いて短く切り出した。
「クレアルコスをはじめとする将軍たちは騙し討ちにあった。だが、我々までが悲嘆に暮れて座り込んでいれば、敵の思う壺だ。備えを固め、来るなら来いと見せてやらねばならない」
彼の言葉は事実であり、前線を支える重みがあった。だが、短すぎる。絶望に沈み切った兵の心を引っ張り上げるには、温度が足りなかった。
次に立ったのは、アギアスの後任となったクレアノルだった。
「神々への誓いを破ったティッサフェルネスの不義を許してはならない! あの男は、我々と同じ食卓で飯を食い、右手で誓いを交わしながら、その手で我々の将軍たちを罠にかけたのだ! 神罰は必ず下る!」
道義と怒りに満ちた声が響く。だが、兵の反応は鈍かった。
(……正論だ。しかし、怒りだけでは腹は膨れない)
レオンは冷ややかに観察していた。相手が神罰を受けようと受けまいと、今ここにある水不足や、何千スタディオンも続く帰路の絶望感が消えるわけではないのだ。兵の顔は依然として下を向いたままだ。
その重苦しい沈黙の中へ、進み出た者がいた。
プロクセノスの後任として立ったアテナイ人、クセノポンだった。
レオンは目を丸くした。クセノポンは、このような極限状況のただ中であるにもかかわらず、一番上等な武具を身につけ、小綺麗に身を整えていたのだ。それは死を待つ敗残兵の姿ではなく、これから輝かしい勝利へ向かう指揮官の装いだった。
「諸君」
よく通る、穏やかな声だった。
「ケイリソポス殿が言うように、状況は厳しい。だが、私はあえてこう言いたい。ペルシア人が神々への誓いを破ってくれた今、我々には素晴らしい希望が残されている、と」
兵たちが、怪訝な顔で顔を上げた。希望などあるわけがない。誰もがそう思っている。
クセノポンは言葉を続けた。
「誓いを破った彼らは、神々の敵となった。ならば、神々は誰の味方につくか? 誓いを守り抜いた我々だ。巨大なペルシア王の軍勢など恐れるに足りない。神々という最強の同盟者が、今、我々の陣営についたのだから!」
見事な論理のすり替えだった。絶望の根源であった「敵の騙し討ち」を、逆に「神々が味方につく確たる証拠」へと反転させたのだ。
(説得……)
レオンは内心で呟いた。教養ギリシア語の概念が頭をよぎる。理屈で相手の認識の枠組みそのものを書き換える、恐るべき言葉の力。
クセノポンがさらに声を張り上げようとした、まさにその時だった。
「ぶえっくしょん!!」
静まり返った群衆の中から、誰かの大きなくしゃみの音が響き渡った。
張り詰めた空気が一瞬、間の抜けた音によって止まった。緊迫した演説の最中である。普通なら、水を差されたと怒るか、気まずい沈黙が落ちる場面だ。
だが、クセノポンは一瞬の躊躇もなく、天を指差した。
「聞いたか、諸君! 今、我々が救済の話をしているこの瞬間に、ゼウス救済神からの吉兆が下ったのだ!」
くしゃみが神の啓示であるという古い迷信。それを、この男は完璧な間合いで拾い上げた。
「私は提案する。我々がこの死地を抜け、無事に友好的な土地へ辿り着いた暁には、ゼウス救済神にありったけの供物を捧げるという誓いを立てようではないか! この誓いに賛同する者は、手を挙げよ!」
一瞬の静寂ののち。
一人の兵が、恐る恐る手を挙げた。続いて隣の兵が。さらに奥の兵が。
それは波のように広がっていった。夜明けの薄い霧を切り裂くように差し込んできた曙光の中、青銅の腕当てや素肌の腕が、次々と天に向かって突き上げられていく。
「誓おう!」
「ゼウス救済神に!」
誰かが歌い出した。戦いの前に神へ捧げる戦歌だった。一つ、また一つと声が重なり、やがてそれは数千の兵の地鳴りのような合唱となって、ティグリス平原の空へ響き渡った。
ダン、ダン、ダン! と、槍の石突が地面を叩く。兵たちの顔には、昨夜の虚ろな絶望は消え去り、熱を帯びた生気が蘇っていた。
(……信じられない)
レオンは息を呑んでその光景を見つめていた。
たった一人のくしゃみと、それを拾い上げた言葉だけで、バラバラに崩れかけていた軍が、もう一度同じ方向を向いた。
帳面の上では、水も食糧も何一つ増えていない。絶望的な距離も縮まっていない。何一つ解決していないのに、軍は「逃げる群れ」から「帰るための軍」へと、確かにその形を取り戻したのだ。
(これが、人を動かすということか)
レオンはクセノポンという男の真の価値を認めた。自分が持っていない力。理屈でも数字でもなく、人の腹の底に火を点け、立たせる力。
「……腹が減ってちゃ、槍は振れないけど」
ダフネの冷ややかな呟きが、レオンの耳に届いた。彼女は上がった手や戦歌には見向きもせず、兵たちの痩せた首筋や、乾いた唇だけを観察していた。
「全くだ」
ミュロンも横から短く同意した。
「頭ん中がどう変わろうが、馬は荷が重けりゃ歩けねえ。……なあ、主計殿。言葉の魔法はここまでだ。ここから先は、俺たちの仕事だぜ」
古参の半隊長の言う通りだった。
全軍が手を挙げ、歓声が収まった後、クセノポンは冷徹な顔に戻って言った。
「我々は戦うと決めた。ならば、逃げるための足かせはすべて捨てねばならない。不要な天幕も、重い荷車も、すべて火へくべるのだ。身軽にならなければ、追撃の手からは逃れられない!」
歓声が、一瞬だけ戸惑いのざわめきに変わった。
決めたなら、荷を減らし、すぐに動ける形にしなければならない。それは、兵たちにとって自分の財産や暮らしの痕跡を自らの手で焼き捨てるという、具体的な痛みを伴う命令だった。
レオンは帳面を開き直した。
(何を焼き、何を残すか。誰がそれを判断するのか)
兵を立たせるのは将軍の言葉だ。だが、兵を生かし、動かし続けるのは、水と、飯と、現物の割り振りだ。
レオンは胃の痛みを無視し、夜明けの光の中で、今日燃やすべき物の目録を頭の中で組み上げ始めていた。




