第57話 騙されるものと騙されないもの
アポロニデスのひび割れた声が、消えかけの焚き火の上に重くのしかかった。
「川は渡れず、物資もない。王に逆らって生き延びられるわけがない。……助かる道があるとすれば、それは王の機嫌を取り結び、慈悲を乞うことだけだ!」
隊長たちの間に、重苦しい沈黙が落ちた。誰もが心のどこかで恐れていた「正論」だったからだ。
レオンは手元の帳面を強く握りしめた。
アポロニデスの声には怯えが張り付いていたが、彼が並べ立てた要素は、すべてレオンが日々の実務で頭を悩ませている現物そのものだった。
王の軍の規模(勘定、ロギスモス)はどう見積もってもこちらを圧倒している。南には渡れない大河があり、北には峻険な山脈が控え、荷車に積まれた麦と干し肉は確実に底を尽きかけている。
(だからといって、降伏すれば助かると本気で思っているのか?)
レオンは内心で毒づいた。クレアルコスをはじめとする将軍たちは、まさにその「話し合い」の場へ赴いて捕らえられたのだ。敵は約束を守らない。その現実から目を逸らし、ただ自分の命だけを助けてもらえるという甘い理屈に縋ろうとしている。
「黙れ、この臆病者が」
その沈黙を破ったのは、言葉よりも先に身体が動く男、アガシアスだった。
百人隊長格の彼は、地面を蹴りつけるようにして立ち上がると、アポロニデスにずかずかと歩み寄った。
「王の慈悲だと? 貴様、クレアルコス将軍たちがどうなったかもう忘れたのか! 武器を持ったまま降るような奴に、王が麦一粒でも恵んでくれるわけがねえだろうが!」
アガシアスの肩が怒りで大きく揺れている。彼の手はすでに剣の柄にかかっており、今にもアポロニデスの胸ぐらを掴み上げんばかりの勢いだ。
「暴力で解決する問題ではない!」アポロニデスが後ずさりしながら叫ぶ。「私は現実を言っているのだ! 戦って勝てる見込みがどこにある!」
「現実を見る目が腐っているのは貴様の方だ」
静かに、だが場を切り裂くような声が響いた。
アテナイから来た客分、クセノポンだった。彼はアガシアスを片手で制し、前に進み出た。
「アポロニデス。君は、王の弟であるキュロス殿が存命だった頃、王がいかに怯え、我々に休戦を求めてきたかを忘れたのか? 将軍たちが騙し討ちにあったのは、我々が弱かったからではない。敵が正面から戦うことを恐れたからだ」
クセノポンの言葉は、論点を決してずらさない。ただ怒るのではなく、敵の弱さと卑怯さを論理的に突きつける。
「武器を手放し、神々への誓いを破った敵に慈悲を乞うなど、ギリシア人のやることではない。……いや、そもそも君はギリシア人ですらないな」
クセノポンの鋭い視線が、アポロニデスの耳元を捉えた。
「その耳たぶの穴はなんだ。リュディア人の奴隷が空けるものだろう。自由市民の顔をして我々に混じり、奴隷のように降伏を説く。……諸君、このような男を隊長にしておいてよいのか?」
その一言で、場の空気が完全に裏返った。
怯えの伝染が断ち切られ、代わりに「恥」に対する強烈な怒りが火床を囲む者たちに燃え上がった。
「追い出せ!」アガシアスが吠えた。「こいつの荷物を全部剥ぎ取って、荷駄引きにでも落としてしまえ。隊長の席を穢すな!」
怒号に囲まれ、アポロニデスは顔を蒼白にして逃げるように闇の中へ消えていった。
レオンは帳面を開き、帯に挿していた小刀を抜いた。
羊皮紙の表面を削る。カリ、カリ、という嫌な音が夜の空気に混じる。アポロニデスの名前を削り落とし、空欄を作る。
(口で降るやつが一人消えた。だが、これで兵の腹が膨れるわけじゃない)
削りカスを指で払いながら、レオンは冷ややかに息を吐いた。
「卑怯者は去った。だが、空いた席はそのままにはしておけない」
年長者のヒエロニュモスが進み出て、場を仕切り直した。彼の低く落ち着いた声が、怒りで沸いた空気を実務の重さへと引き戻す。
「今は誰が偉いかより、誰が起きているかだ。各隊の将軍、隊長の穴を埋める。クナクサからここまで生き残った我々自身で、新しい頭を選び直すのだ」
火のそばに、アルカディア系の将軍ソファイネトスやクレアノルの姿があった。彼らは崩壊後にも残る将軍団の「残り火」だ。
「神々と誓いを裏切ったペルシアの不義は、必ず罰せられる」クレアノルが短く、切りつけるように言った。「我々は道義において束ねられねばならない。新たな将を立てよ」
そこからは、夜の闇の中で次々と名前が呼ばれ、承認されていった。
クレアルコスの後任には実戦派のティマシオンが。
ソクラテスの後任にはクサンティクレスが。
アギアスの後任にはクレアノル自身が、そしてメノンの後任にはフィレシオスが就いた。
レオンは火床に少しだけ身を乗り出し、小刀で羊皮紙を削っては、新しい名前を墨で書き込んでいく。
(……ティマシオン。クサンティクレス。フィレシオス)
字を書き込むたびに、レオンの指先は冷えていった。
新しい名前を書き込んだからといって、帳面が豊かになるわけではない。彼らが優秀かどうかは別として、これはあくまで「欠けた場所の埋め合わせ」でしかないのだ。
(席が埋まるほど、消えた人間は二度と戻らないのだと痛感させられる。プロクセノス殿も、フィロン殿も、もうこの陣幕には帰ってこない)
「そして、我らがプロクセノス隊だが」
ヒエロニュモスの声が、レオンの思考を現実に引き戻した。
「客分として同行されていた、クセノポン殿。あなたにプロクセノス将軍の後任をお願いしたい」
隊長たちの視線が、一斉にアテナイ人へ向けられた。
アガシアスが力強く頷き、他の者たちも異論を挟まない。先ほどアポロニデスを切って捨てた彼の論理と覚悟は、すでにこの場にいる者たちを動かしていた。
クセノポンは一瞬だけ目を伏せ、しかしすぐに顔を上げて頷いた。
「引き受けよう。私に軍令の経験はないが、この夜に立ち上がる責任から逃げるつもりはない」
レオンの筆が止まった。
(遠い教養人の客分が、将軍の席に入る……)
クセノポンの名前を、プロクセノスの下にではなく、その上に書き直す。
レオンにとって、彼はもうただの客分ではなかった。前に出る者。方針を示し、言葉で軍を立たせる者。
(だが、言葉だけで軍は動かないぞ。あなたが前を向くなら、誰かが後ろの荷車を引かなきゃならないんだ)
レオンは帳面を閉じ、深く息を吸った。
席は埋まった。夜のうちに新しい指揮の種が作られた。それは、絶望の淵にあった軍にとっては、確かに奇跡のような小さな成果だった。
だが、失敗の種も確実に蒔かれている。
彼らが決めたのは「戦う」ということだけであり、まだ水も、食糧も、負傷者も、何一つ具体的な解決を見ていない。
「これで頭は揃った」クセノポンが火床の灰を蹴り、静かに言った。「だが、我々だけで決めても意味がない。夜が明けたら、全軍の兵を集める。彼らの恐怖を払い、同じ方を向かせなければ、この軍は一歩も進まない」
東の空が、わずかに白らみ始めていた。
「朝が来るぞ」ミュロンが背後で低く呟いた。「坊ちゃん、忙しくなるぜ。言葉で兵が奮い立った
、そのあとは、腹が減るからな」
ダフネは何も言わず、レオンの足元に置かれていた水袋を拾い上げ、彼の手の届く位置へ置き直した。
夜が明ける前に、全軍に向けて話さねばならない。
恐怖に痺れていた軍が、再び一つの生き物として動き出そうとする、その重苦しい胎動の音が、冷たい風に乗って聞こえてくるようだった。




