第56話 眠れないものたちの……
空には星一つなく、プロクセノス隊の宿営地は、底知れぬ暗穴の底のように冷え切っていた。
レオン・カルディアスは、蝋燭の頼りない光に目を細めながら、未整理の羊皮紙の束を抱えて座り込んでいた。
周囲には、いくつもの火床がある。だが、その大半は火が落とされ、冷たい灰を晒している。兵たちは武器を抱えたまま地面に座り込んでいるが、誰も飯を食わず、そして誰も眠っていなかった。
静まり返っているのではない。恐怖で身動きが取れなくなっているのだ。
「……ここの班も、三名が未帰還。見張りの穴がまた二つ開きました」
若い従者のテオドルスが、震える手で名簿の空席に墨を引く。その声には隠しきれない怯えが混じっていた。
「仕方がないですね。残りの人数で夜番の順番はミュロンが組みなおすでしょう。それから、配給札の戻りを確認しましょう。死んだ者の分の飯を誰かが二重に受け取らないように帳面を合わせましょう」
レオンはできるだけ平坦な声を出そうと努めた。だが、頭の中はひどく混乱していた。
プロクセノス将軍と、兵站監のフィロンがティッサフェルネスの罠にかかり、戻ってこなかった。
軍の上層部がごっそりと消滅したのだ。命令系統は完全に麻痺している。
レオンは、自分がこの場にいることをひどく恨めしく思った。自分はただの兵站監補の、それも補佐でしかない。落ちこぼれの学者崩れが、家のコネでなんとか押し込まれただけの「お飾り」の帳簿役だ。
それなのに、上の者が消えたせいで、明日の見張りをどうするか、限られた水を誰から飲ませるかという実務の重圧が、すべてこの薄い羊皮紙の束に乗しかかってきている。
逃げたいなぁ
胃の腑が鉛のように重い。だが、ここで自分が帳面を放り出して毛布を被れば、明日の朝にはこの隊の荷駄と配給が完全に死ぬ。それだけは、自制の箍を外してはいけないと、彼の職業的な矜持が警告していた。
ふと、暗がりの中で足音がした。
一つや二つではない。乾いた地面を踏みしめる音が、遠くからこちらへ向かってくる。
「ヒエロニュモス殿」
「アガシアスはいるか」
低く、押し殺したような声で誰かの名を呼ぶ声が交差する。
プロクセノス隊の生き残りの隊長や半隊長格の者たちが、暗がりの中で声を掛け合い、どこかへ集まり始めている気配だった。
「……何をしているんですか、あいつらは」
レオンは苛立ちを隠せずに呟いた。誰も決められない真空の夜に、勝手に動かれては困る。全体の数が把握できなければ、明日の配分も決められないのだ。
背後に気配がした。ダフネだ。
彼女は何も言わなかったが、その立ち位置は明確だった。レオンの背後、いざという時に最も早く剣を抜ける間合い。彼女の存在自体が、ここが安全な中央学都ではなく、敵地のど真ん中であることを否応なく思い出させる。
「主計殿」
さらに横から、しゃがれた声がした。荷駄護衛頭のミュロンだ。古参の軽装歩兵は、暗闇を見透かすような鋭い目で、足音のする方向を顎でしゃくった。
「ありゃあ、死に損ないの寄り合いだ。将軍が消えて、頭の空いた連中がどうすりゃいいか腹を探り合ってやがる。お前さんも、行ってこい」
「僕が? 冗談を言わないでください」レオンは眉をひそめた。「僕はただの兵站の実務官です。隊長たちの夜半の会合に顔を出す権限なんて……」
「権限たぁ、生きてる奴が持つもんだ」ミュロンは吐き捨てるように言った。「フィロンの旦那がいねえ今、お前さんがこの隊の荷と飯の頭だ。今は兵站監代の顔をして行ってこい。あいつらが何を血迷うか、聞いてこなけりゃ明日の配分も組めねえぞ。してみると…兵站監代に任命していたのは、慧眼だったな…いや、勿怪の幸いというやつか?」
レオンは反論しようと口を開いたが、言葉が出なかった。正論だ。腹立たしいほどに。
その時、背中をトン、と軽く押された。
ダフネだった。彼女は慰めの言葉一つかけず、無言でレオンの背を押し、冷たい革の感触で「行け」と告げていた。
レオンはため息をつき、まだ締め切られていない帳面を抱え直して、薄暗い火の方向へ歩き出した。
消えかけの焚き火の周りには、プロクセノス隊の百人隊長や半隊長格の者たちが十数人集まっていた。年長者のヒエロニュモスの姿もある。彼らの顔には、一様に色濃い疲労と、途方に暮れた絶望が張り付いていた。
だが、その輪の中心に立つ男は違った。
アテナイから来た客分、クセノポン。
彼はプロクセノスの友人というだけで、軍の正式な指揮権は持っていないはずの男だ。しかし今、彼は異様に冴えた目をしていた。
熱狂しているわけではない。眠れなかったはずの夜半にありながら、冷水で顔を洗った直後のような、異様な明瞭さを全身から漂わせている。
レオンが輪の端に近づいても、誰も咎めなかった。
プロクセノスとフィロンという二つの大きな柱を失った今、レオンが抱える帳面だけが、彼らがまだ「軍」として機能しているという細い証明になっていたからだ。
レオンはそれがひどくみじめで、嫌だった。自分がこの場に許容されているのは、権限があるからではなく、喪失の結果、代わりの帳簿役としてしか見られていないからだ。
「諸君」
クセノポンが口を開いた。大声ではない。しかし、夜の静寂によく通る、腹の据わった声だった。
「誰も眠れていないようだな。当然だ。私も眠れなかった」
彼はゆっくりと、火に照らされた隊長、半隊長たちの顔を見渡した。
「プロクセノス殿をはじめ、我々の将軍たちはティッサフェルネスの罠にかかった。ペルシア王の意図は明白だ。我々をこの地で完全に叩き潰し、見せしめにすることだ」
絶望的な事実の羅列。兵たちが今、最も聞きたくない言葉だ。しかしクセノポンは、感情を煽ることもなく、ただ事実としてそこに置いた。
レオンは少し驚いた。この男は、ただ嘆くために人を集めたわけではないらしい。
「王は、我々が抵抗をやめ、武器を捨てて降伏するのを待っている。だが、考えてみてほしい。我々は王弟キュロスと共に、王の座を脅かそうとした反逆者だ。降伏したところで、どのような扱いを受けるか。名誉ある捕虜として扱われるか? 否だ。最も惨たらしい死を迎えるだろう」
隊長たちの間に、ざわめきが走った。恐怖ではなく、嫌な現実を突きつけられたことによるものだ。
「座して死を待つか、それとも王の慈悲という名の拷問を待ち、将軍たち同様にむごたらしく殺されるか奴隷として売り払われるか……私はどちらも御免だ」
クセノポンは言葉を区切った。
「私は決めた。夜が明けるのを待つつもりはない。誰かが決定を下してくれるのを待つこともやめる。我々は、自分たちでどうするかを決めなければならないのだ」
レオンは帳面を握る手に力を込めた。
この男の手つきは、レオンが帳面に向かう時のそれに似ていた。
誰が悪いか、何が不運だったかを感情的に嘆くのではなく、「何が残っているか」「どうすれば最悪を避けられるか」を論理で組み立てようとしている。
(人を動かす側にも、そういうやり方があるのか)
レオンは、クセノポンという男を初めて「中央塔の教養ギリシア語の香りがする教養人」ではなく、同じ夜に直面している一人の実務者として認識した。
彼に漠然とした憧れと、羨ましさを感じていた僕にとっては、それは、天啓ともいえる何かだった。
「ヒエロニュモス殿。他の隊の隊長や半隊長たちにも声をかけてきてはくれないか。今夜のうちに、全軍の生き残りの隊長、半隊長格を集める。空いた席は、今日生きている我々で埋めなければならない」
クセノポンの静かだが強い言葉に、年長者のヒエロニュモスが小さく頷き、足早に闇の中へ消えていった。
集まるべき者が集まり始めている。動き出している。それは確かに一つの小さな成果だった。
だが、レオンの胃の痛みは治まらない。
(空いた席を埋める。言葉にするのは簡単だ。だが、将軍の代わりを立てたからといって、荷車の数が戻るわけじゃない。消えた食糧が湧いて出るわけでもないんだ)
レオンは自分の持ち場である「数字と現物」の重さを改めて感じていた。彼らが方針を決めるなら、自分はそれを明日から人・獣・荷の流れに変換しなければならないのだ。
隊長たちの顔が少しだけ上を向いた。痺れたような恐怖が、怒りや行動への意思に変わりつつある。
その時だった。
「……待ってくれ」
輪の端から、ひび割れたような声が上がった。
アポロニデスだった。半隊長格の一人だ。
「自分たちで決める? 馬鹿なことを言うな。我々は敵地のど真ん中、何千スタディオンも離れた場所に孤立しているんだぞ! 川は渡れず、物資もない。王に逆らって生き延びられるわけがない。……助かる道があるとすれば、それは王の機嫌を取り結び、慈悲を乞うことだけだ!」
彼の声には、剥き出しの恐怖と保身が張り付いていた。
レオンは内心で舌打ちした。
せっかくまとまりかけた空気に、最悪の冷や水がぶっかけられた。そして何より不愉快なのは、アポロニデスの言葉が、今のこの絶望的な状況においては、難所と損耗という一つの冷徹な事実に基づいているということだった。
夜はまだ、明けない。




