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第69話 歩きながら戦うのをやめる~機動防御なんて無理

 傷が癒えるのを待つため数日の停滞を余儀なくされた軍は、再び重い腰を上げて平野へと下りた。

 だが、その出立は決して希望に満ちたものではなかった。むしろ、見えない鎖を足首に巻きつけ、泥の中を引きずって歩くような、重苦しい疲労感が全軍の頭上を黒雲のように覆っていた。


「おい、もっと慎重に歩け! 揺らすな!」

「文句を言うな、こっちだって重いんだ! 少しは手伝いやがれ!」

 隊列の中から、棘のある怒鳴り声が絶え間なく聞こえてくる。

 レオン・カルディアスは、泥で汚れ始めた配給帳を胸に抱えながら、その怒鳴り声の元を振り返り、無意識のうちに深い溜め息を漏らした。


 槍の柄を二本並べ、その間に血の染み込んだ天幕の布を張った即席の担架。その上には、先日の丘陵戦で足を射抜かれたり、肩の骨を砕かれたりした重装歩兵ホプリタイたちが、痛みに顔を青ざめさせて寝かされている。

 歩けない者が一人いれば、最低でも二人の兵が担ぎ手として列から抜けなければならない。さらに、その担ぎ手二人が本来持っていた重厚な青銅の盾と甲冑、そして負傷者自身の武具を、誰かが代わりに背負うことになるのだ。


 レオンの頭の中で、冷酷な勘定ロギスモスが音を立てて回る。

 一人の負傷者を生かして運ぶためには、本人を含めて少なくとも四人の戦力が失われる。今回の負傷者は六十人を超えている。単純計算で二百四十人以上の兵士が、戦闘に参加できないだけでなく、荷駄獣のように重い荷を背負って喘いでいる。

 捨てられない青銅の甲冑は、彼らの戦士としての誇りであると同時に、今はただ歩みを遅らせるだけの鈍重な金属の塊でしかなかった。


(……歩きながら戦うなんて、無理だ)

 レオンは誰に聞こえるでもなく、唇だけで呟いた。

 軍の足は致命的に遅くなっていた。怪我人を気遣うあまり、重装歩兵の列は間延びし、荷車の進み具合とまったく噛み合っていない。配給帳の記載も無茶苦茶になりつつある。誰がどこで荷を背負い、誰がどの部隊に組み込まれているのか、数字と現物が急速に乖離していくのを感じていた。

 これでは、先日組み直したはずの陣形の柔軟性など活かせるはずもなかった。


 そして、その死に体のような行軍を、敵が見逃すはずがなかった。


「後方から砂埃! 敵の騎兵が来るぞ!」

 後衛の叫び声が響いた瞬間、ヒュッ、という耳障りな音が空気を裂いた。

 ティッサフェルネスの軍勢だ。彼らはギリシア軍が村から出るのを舌舐めずりしながら待ち構え、平野に下りた途端に背後から食らいついてきたのだ。


「盾を構えろ! 足を止めるな、歩きながら防げ!」

 指揮官たちが怒号を飛ばすが、無理な注文だった。

 担架の端を両手で塞がれている兵士は盾を持てない。大量の予備甲冑を背負わされた兵士は、素早く身を躱すことができない。

 パラパラと降ってくる敵の矢に対し、後衛の重装歩兵たちは足を止めて背中を丸め、防ぐことしかできなかった。彼らが立ち止まれば、その後ろに続く荷駄も連鎖的に止まる。


「押すな! 担架がひっくり返るぞ!」

「なら早く進め! 後ろが詰まってるんだよ!」

 敵の攻撃よりも、味方同士の混乱が軍を内側から崩し始めていた。軽装歩兵ペルタスタイが反撃に出ようにも、間延びした隊列と大量の荷物に阻まれ、後方へ回り込む隙間がない。


 レオンは、自分の周囲の空気が急速にパニックに染まっていくのを感じていた。

 走り続ける癖だ。戦場において、背を見せて立ち止まることは死を意味する。だから兵たちは、どれほど重くても、どれほど隊列が乱れても、本能的に「前へ」と足を出そうとする。


 だが、今は違う。

 レオンは帳面から顔を上げ、進行方向の少し先に見える、放棄された小さな村の石壁を指差した。

「止まりましょう」

 隣を歩く古参の半隊長、ミュロンに向かって言い切る。

「このまま進めば、荷と負傷兵から先に死にます。あの村の壁までだ。あそこに入って、防衛線を張るべきです」


 ミュロンは忌々しそうに舌打ちをした。

 普段の彼なら「立ち止まれば囲まれて全滅だ。兵法を知らねえのか帳簿役」と一蹴しただろう。現場の荒くれ者にとって、敵を前に足を止めるのは最悪の選択だ。

 だが、ミュロンの鋭い目は、担架を落としそうになりながら喘ぐ部下たちの限界を、レオンと同じように見抜いていた。


「……わかった」

 ミュロンは短く応じると、大きく息を吸い込み、雷のような声を張り上げた。

「走るな! 急ぐな! 目の前の村の壁までだ、そこで止まれ!」


 その声に呼応するように、ダフネがレオンの前に進み出た。

 彼女は短い槍の石突を地面に強く打ち付け、パニックになりかけていた兵士たちを物理的に堰き止めた。

「走るな、守れ。壁の内側へ入れ」

 感情のない、事実だけを伝える冷たい声。だが、その声の底知れぬ落ち着きが、浮き足立っていた兵たちに奇妙な安心感を与え、前へ進もうとする暴走を止めた。


「おい、止まるってどういうことだ! ここで囲まれたらおしまいだぞ!」

 重装歩兵の百人隊長カレスが、血相を変えて文句を言いに来た。

「このままだらだら歩いて背中から射殺されるのが好みなら、あんたらだけで行け。俺たちはあの村に入る」

 ミュロンが言い捨てると、カレスは毒づきながらも、周囲の限界を悟ってか「前衛を村へ向けろ!」と指示を出した。


 軍は逃げ込むように村の石壁の内側へと流れ込んだ。

「壁に沿って盾を並べろ! 軽装歩兵は屋根の上か、壁の隙間から弓を構えろ!」

 クセノポンとケイリソポスの迅速な指示により、即座に防衛線が構築される。

 放棄された村とはいえ、石でできた壁と、頭上を覆う屋根がある。それだけで、戦況は劇的に変わった。


 カンッ、ガンッ!

 敵の放った矢や投石が、石壁と青銅の盾に弾かれて無力に落ちる。

 移動しながらではただの的だったギリシア軍は、固定された拠点を得たことで、鉄壁の要塞へと変貌した。

「撃ち返せ!」

 安定した足場から放たれるロドス人の鉛弾が、不用意に近づいてきた敵の騎兵を的確に撃ち落とす。拠点防御の圧倒的な強さだった。


「……被害は抑えられました」

 臨時の火床のそばで、レオンは帳面に短い線を一本引きながら深く息を吐いた。

 村へ入ってからの死傷者はゼロだ。歩きながら戦うのをやめたことで、負傷兵を安全な場所に寝かせ、健常な兵だけが壁の防衛に専念できるようになった。

 判断は間違っていなかった。軍を立て直すための、小さな成果だ。


 だが、広場に座り込む兵たちの顔に、安堵の色はない。

「また閉じ込められちまった」

 火番の若手兵カリアスが、膝を抱えながら不安げに呟いた。

「村に入れば死なねえのは分かったけどよ……いつまでここにいるんだ? 食い物が尽きたら、結局は動かなきゃならねえんだろ?」


 その言葉は、全軍の無言の不安を代弁していた。

 歩くのをやめれば、生き延びられる。だが、それは主導権を完全に手放すことを意味する。

 包囲されたままでは、いずれ飢える。かといって、外に出ればまたあの地獄の行軍が始まる。兵たちの士気は、じわじわと削り取られていた。


「焦るな」

 ダフネが、カリアスの頭越しに冷たく言った。彼女は壁の隙間から外の様子を窺ったまま、微かに眉を動かした。

「敵の動きが、おかしい」


 レオンも立ち上がり、壁の隙間から平野を見下ろした。

 夕暮れが近づき、空が茜色に染まり始めている。先ほどまで村を囲み、執拗に矢を射かけてきていたペルシア軍の動きが、不自然に鈍っていた。


「……陣を、畳んでいる?」

 レオンの視線の先で、敵の騎兵たちが馬首を返し、後方へと遠ざかっていくのが見えた。一時的な後退ではない。彼らは明らかに、この場から完全に引き上げようとしていた。


「なぜだ。完全に包囲できたはずなのに」

 レオンが訝しげに呟くと、横に立ったミュロンが、夕日に目を細めながら低く笑った。


「あいつら、夜が怖いんだよ」

 ミュロンは残忍な手つきで、自分の首元を親指でかっ切る真似をした。

「この前の谷間の追撃で、うちの連中がさんざんペルシア兵の死体の顔を潰して、手足を切り刻んで見せしめにしたのが効いてるんだ。あんな猟奇的な真似をする、得体の知れない重装歩兵の塊のそばで、うっかり夜襲でもかけられて寝首をかかれたくねえのさ。だから、日が沈む前に安全な距離まで引き下がりやがる」


 その言葉を裏付けるように、壁際に陣取っていた血の気の多い歩兵の一人が、逃げていく敵の背中へ向かって野卑な笑い声を浴びせた。

「よし、モノのついでだ! さっき叩き落とした騎兵をとっ捕まえて逆さ吊りにするか、盾代わりに引きずり回してやろうぜ!」


 過剰な報復と残虐行為がもたらした、敵陣営の恐怖。戦場が荒れ果てた結果として生まれたその荒んだ習性が、今、ギリシア軍の首の皮を一枚繋ぎ止めていた。


 敵は夜を嫌う。

 それは、彼らが抱える決定的な弱点だった。

 レオンの頭の中で、その事実が、新しい実務の型となって音を立てて組み合わさっていく。

 敵が夜に動かないのなら、こちらはどうすればいいか。答えは明白だった。


 兵站と行軍の時間を根底から覆す新しいリズムの予感に、レオンは帳面を握りしめ、夕闇に沈んでいく平野をじっと見つめ続けた。

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