第54話 今夜は誰も決めてくれない
ザパタス川のほとりに広がるギリシア傭兵団の宿営地に、完全な夜が降りてきた。
だが、二万近い人間がひしめき合っているはずのその場所には、耳が痛くなるほどの、まるで巨大な墓場のような沈黙が落ちていた。
いつもなら、夕闇の訪れとともに無数の篝火が灯り、干し肉を炙る匂いと、配給を巡る兵たちの喧噪が響き渡るはずの時間だ。
しかし今夜は、軍のほとんどの場所で誰も火を起こそうとしない。
手つかずの薪が組まれた火床の前で、若手兵のカリアスが力なく立ち尽くしていた。彼の手には火打ち石が握られているが、カチリと鳴らす気配さえない。
「……主計殿」
焦点の合わない、ひどく虚ろな目で、カリアスがレオン・カルディアスを見た。
「火、点けますか……? それとも、敵に見つかるから、消しておくんですか……?」
(私に聞くな。私だって分からない)
レオンは奥歯を強く噛み締めた。
プロクセノス将軍も、フィロン兵站監もいない。結構な数の百人隊長も居なくなった。
「火を焚け」とも「火を落とせ」とも命令する者がいない。だから、カリアスは自分自身で火をつけることすらできなくなっているのだ。
命令が消えると、人はこうも簡単に自分の行動を決められなくなるのか。
レオンは、周囲の暗がりを見渡してぞっとした。
誰もが、武器だけは決して手放さず、指が白くなるほどしっかりと握りしめている。重装歩兵たちは青銅の盾を腕から外そうとせず、重い兜すら脱ごうとしない。
だが、彼らは自分の寝床であるはずの陣幕へ戻ろうともせず、地面にへたり込んだり、車輪の壊れた荷車に背を預けたりして、ただぼんやりと座り込んでいた。
手をつけられない干し肉と、石のように硬いパンが、配給袋の横に転がっている。
腹は減っているはずなのに、誰も口を動かさない。畳まれない毛布が、冷たい夜露に濡れていくのを誰も気に留めない。あまりの絶望と、故郷から何千キロも離れた敵地のど真ん中で指揮官を失ったという恐怖が、彼らから食欲も、眠りにつく気力すらも奪い去っていたのだ。
頭脳をもぎ取られた軍隊とは、これほどまでに無力で、不気味な骸に成り果てるのか。
レオンの足が、恐怖でわずかに震えた。
(逃げたい)
あまりにも場違いな本音が、胸の奥で爆発しそうだった。
自分はボイオティアの有力市民の次男で、ただ書類仕事と計算ができるからという理由でここに連れてこられただけの、半端な学者崩れだ。中央の学問の塔で埃っぽい羊皮紙と格闘していたほうが、よほど性に合っていた。
どうして自分が、この異国の暗闇で、首を失った二万の亡霊たちと一緒に立ち尽くしていなければならないのだ。
逃げて、夜の闇に紛れて、どこかへ消えてしまいたい。
だが、どこへ?
ここはティグリス川の支流、ペルシア帝国の奥深くにあたる場所だ。ギリシアの故郷までは、途方もない距離の敵地が続き、行く手には数え切れないほどの越えられない大河が横たわっている。逃げ場など、最初からどこにもなかった。
「……誰も、夜警の配置につきやがらねぇ」
暗がりから、ミュロンが低く押し殺した声で話しかけてきた。
古参の半隊長である彼の顔からは、いつもの粗野な嫌味や、怒声が完全に消え去っていた。ただ、静かに剣の柄に手を置き、崩れかけた集団の空気を慎重に測っている。
「どの隊も、分隊長や半隊長連中まで、ただそこに座ってやがる。残された百人隊長どもも同じだ。大将が死んだんだ、無理もねえが……このまま誰も見張りに立たなきゃ、夜明け前にペルシアの騎兵に撫で斬りにされるぞ」
「だからといって、私が『見張りに立て』と命令するわけにはいかない……!」
レオンは、握りしめていた未決裁の帳面を胸に押し当てたまま、絞り出すように言った。
「私には権限がない! 役職の階梯で言えば、彼ら百人隊長より兵站監補の私の方が下だ。それに……もし私の指示で動いて全滅したら、誰が責任を取るんです!」
自分で自分の声が、情けなく、ひどくヒステリックに響いているのが分かった。
言い訳だ。自分が責任を負うのが怖いだけだ。全体を立て直すための「答え」なんて、何一つ持っていないからだ。
ミュロンは、反論しなかった。
ただ、レオンのその弱音を、底知れぬ暗い瞳で受け止めている。
以前の彼なら「役に立たねえ坊ちゃんだ」と足元に唾を吐き捨てていただろう。だが今、ミュロンの目に軽蔑の色はない。あるのは、この絶望の中で「まだ立っている」帳簿役に対する、重苦しいまでの期待と、逃れられない依存だった。
(やめろ。そんな目で私を見るな)
その時、レオンの目の前に、すっと重い革の水袋が差し出された。
ダフネだった。
彼女は何も言わない。
震えるレオンの肩を抱くことも、「大丈夫だ」という安っぽい慰めの言葉をかけることもない。
ただ、ずっしりと重い水袋を、レオンの震える手に無言で強く押し付けただけだ。
「……」
レオンは両手でそれを受け取り、木製の栓を抜いて一口飲んだ。
生ぬるい水が喉を通る。だが、その確かな重さと水分の感覚が、パニックを起こしかけて宙に浮いていたレオンの意識を、強引に「現実」の泥の中へ引き戻した。
ダフネは、レオンの顔をじっと見据えている。
『逃がさない』。
その鋭い瞳が、はっきりとそう語っていた。
お前をただの帳簿役扱いしてやる時間は今日で終わったのだと。お前の頭の中にある数字と地図だけが、私たちが明日を生き延びるための唯一の武器なのだと。
レオンは水袋を下ろし、深く、長く息を吐き出した。
逃げ出したいという猛烈な衝動は、冷たい胃の底に無理やり押さえ込んだ。
「……カリアス」
レオンは、まだ火打ち石を持ったまま石像のように固まっている若手兵に声をかけた。
「火を点けてください。全軍に指示は出せないですが。だが、我々の隊の、ここの火床だけでいい。火を入れましょう」
「え……でも、敵に……」
「敵は我々がここから動けないことをとうに知ってます。闇雲に怯えて凍えるより、明かりを取って手元の武具を確認するほうが先です」
それは、全体を動かす「命令」ではない。ただの「実務の延長」としての依頼であり、多少越権的だが…確かに指示だった。
それにフィロンの印を預かっていたのだ、主計代理であり、兵站監代理だ。
多分、生き残っているものの中では、もっとも位が高いものの一人だ。
カチ、カチリ。
カリアスが震える手で火打ち石を鳴らし、やがて小さな火が薪に移った。
周囲の暗闇がわずかに退き、ミュロンの険しい顔と、ダフネの冷徹な横顔、そしてテオドルスや荷駄頭のバウコスが地面にうずくまっている姿が浮かび上がる。
誰も何も言わなかった。
火床のパチパチとはぜる音だけが、不気味な静寂の中で微かに響いている。
レオンは、火のそばで立ち続けた。
プロクセノス将軍の返事のない陣幕を背にして、胸にはフィロンの未決裁の帳面を抱きかかえたまま。
完全には逃げなかった。その場を離れることだけはしなかった。
だが、それだけだ。
明日の朝、この二万の軍勢をどう動かすのか。誰がティッサフェルネスの追撃と対峙し、誰が配給の列を整え直すのか。その「答え」を、レオンはまだ見つけていない。
(今夜は、誰も決めてくれない)
見張りの立っていない柵。
手のつけられていない飯。
静寂に沈む無数の陣幕。
だが、その張り詰めた夜の底で、かすかな「変化」の兆しが生まれようとしていた。
ふと、レオンの耳に、遠くの焚火のない暗がりから、低い話し声が聞こえた気がした。
それは将軍でもなく、高位の部隊長でもない、ごく普通の自由市民か、あるいは名の知られぬ下級士官が、隣に座る仲間に静かに語りかけているような、そんな声だった。
上から降る判断が完全に消滅したのなら。
残された者たちの中から、誰かが自ら前へ出て、立ち上がらねばならない。
ザパタス川からの夜風が、ひんやりとレオンの頬を撫でた。
崩壊と再生が入り混じる、長くて恐ろしい夜が、まだ続いていた。
Book IIの本編はここまでです。
次に補章を一話挟んで、BookⅢが始まります。
BookⅢは、斬首作戦の成功に気をよくしたペルシア側が、将軍たちを失い残りカスになったギリシア人傭兵を無力化しようとあの手この手を使ってくるBookです。組織的抵抗力を喪失しない様に、必死であがくギリシア人傭兵団の姿が中心になります。




