第53話 首を失ったのは将軍だけではない
「罠だ……ティッサフェルネスの罠だ……!」
自らの両手で腹の傷口からこぼれ落ちる臓腑を押さえ込みながら、ニカルコスが絶叫したその瞬間、シッタケのギリシア軍宿営地は蜂の巣をつついたような恐慌に陥った。
「武器を取れぇっ! 陣形を組め!」
ミュロンの地鳴りのような怒号が響き、重装歩兵たちが弾かれたように盾と槍を掴む。レオン・カルディアスもまた、震える指で腰の短剣の柄に触れた。ダフネはとうに抜刀し、レオンを背でかばうように姿勢を低くして構えている。
だが、予想されたペルシアの大軍による総攻撃は、いつまで経っても来なかった。
やがて、夕闇が迫る平原の向こうから、一団の騎兵がゆっくりと近づいてきた。
武装した三百ほどの重装騎兵を伴って姿を現したのは、王側の軍勢ではない。つい先日まで共に血の盟約を交わし、同じ火を囲んでいたはずのアリアイオスやアルタオゾス、そしてミトリダテスたちだった。
「ギリシアの将軍、あるいは隊長がいれば前へ出よ。王からの伝言がある」
アリアイオスが馬上から冷ややかに見下ろして言う。かつての同盟者の決定的な裏切りを目の当たりにして、兵たちの間に動揺が走った。
やがて、残された将軍格であるオルコメノス人のクレアノルと、スティンファロス人のソファイネトスの二人が、重苦しい足取りで前へ進み出た。
「クレアルコスは誓約を破り、休戦協定に背いたため、正当な罰を受けてすでに死んだ」
アリアイオスは一切の感情を交えずに言い放った。
「プロクセノスとメノンは、その裏切りを我々に密告したため、深い敬意と厚遇を受けている。……さて、お前たちだが。王はお前たちの武器の引き渡しを要求しておられる。それらはもともと王の奴隷であったキュロスのものだからだ」
(嘘だ)
レオンは即座に断定した。あの誇り高いプロクセノス将軍が、他の将軍を売って自分だけ生き残るような真似をするはずがない。優遇されているというのは、彼らが人質として捕らえられているか、あるいはすでに……。
「この悪党どもが!」
静寂を破ったのは、老将クレアノルの怒声だった。
「神を畏れぬ裏切り者アリアイオスめ! よくも我々と同じ友と敵を持つと誓っておきながら、あの最も卑劣で不敬なティッサフェルネスと通じ、我々の将軍たちを騙し討ちにできたものだ!」
クレアノルの顔は怒りで朱に染まり、今にも手元の槍を投げつけんばかりの勢いだった。その「残り火」のような激しさは、ギリシア兵たちの憤りを確かに代弁していたが、アリアイオスたちは痛痒も感じていないようだった。
アカイア人のソクラテスやアルカディア人のアギアスといった他の将軍たちについても、すでにペルシア側の刃にかかったことは明白だった。敵はクレアノルの罵倒をしばらく聞いていたが、反論する意味もないと判断したのか、無言で馬首を返し、平原の彼方へと去っていった。
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敵の使者が去った後、陣営にはただ、這い上がることのできない重い絶望だけが残された。
五人の将軍と二十人の隊長たちが捕縛され、処刑された。その事実は、もう覆しようがなかった。
レオンは這うような足取りで、本営の幕舎へと戻った。
点呼を待つ夜警の篝火が、無人の幕舎を頼りなく照らしている。
幕舎の奥には、プロクセノスの豪奢な椅子が主を失ってぽつんと置かれていた。そして机の上には、フィロン兵站監が残していった封じられた文書箱と、レオンが抱えている未決裁の帳面がある。
(今、ぼくらは何を失った……?)
レオンは、冷たくなっていく頭の中で、この喪失の正体を言語化しようとしていた。
それは単に「偉い人間がいなくなった」という話ではない。
まず、プロクセノス将軍の喪失。
それは、レオン・カルディアスという人間が、この見知らぬ異国の地で軍に所属している「法的な根拠」の消滅を意味した。実家と学統の縁でプロクセノスに拾われたレオンは、彼という柱があって初めて「王弟が雇う外国人傭兵団の実務官」として成立していた。
王弟がいなくなった今、かろうじて、プロクセノスが、契約をかわしていたと言うのが、法的な根拠であった。
今、依頼人である王弟も受託者であるプロクセノスといなくなった。
レオンはどこにも所属していない、ただの「書類仕事ができる迷子」に過ぎない。この軍における自分の立ち位置が、根底から崩れ去ったのだ。
そして、フィロン兵站監の喪失。
これは、実務における「最終決定権」と「責任の所在」の完全なる消滅だった。
兵に配給を出すには、兵站監の決裁印がいる。市場での買い付け価格を承認するのも、他隊と物資を融通し合うのも、すべてフィロンの権限だった。レオンがどんなに精緻な計算をし、正しい配分を導き出したところで、それを「命令」として執行する人間がいなくなったのだ。
(終わった。完全に)
軍事の柱と、実務の柱。
この二つが同時にへし折られた。命令系統そのものが死んだのだ。
把握した内容が、あまりにも救いがない。レオンは自分の頭の回転の良さを、これほど恨めしく思ったことはなかった。
「……主計殿」
背後から、怯えきった声がした。テオドルスだ。
「明日の朝の配給は……どうすればいいんですか。誰に、この札に印をもらえば……」
彼の手には、ニカルコスが持ち込んだ血の飛沫がかすかに飛んだ配給札が握りしめられている。
「……」
レオンは、机の上に転がっている、不在あかしとなってしまった「決裁印」を見た。
フィロンが使っていた、真鍮の配給印。これを押す者は、もうどこにもいない。
「おい! 主計殿!」
幕舎の入り口を乱暴に開けて、ミュロンが踏み込んできた。その顔には余裕など欠片もなく、焦燥と、やり場のない怒りが張り付いている。
「ぼんやり突っ立ってる暇はねえぞ! 連中、パニックを起こして今にも勝手に陣を抜け出しそうだ。荷車はどうする? 明日の駄獣の飼葉の管理は誰がやるんだ!」
「私に言われても困ります!」
レオンはたまらず声を荒らげた。
「私には何の権限もない! プロクセノス将軍もフィロン殿もいないんです! 私はただの兵站監補……いや、それすらもう法的な後ろ盾がない、ただのギリシア人に過ぎない! 誰に配給を命じろというんですか!」
それは、レオンの口からこぼれた初めての、そして完全な泣き言だった。
もう嫌だ。何もかも投げ出してしまいたい。
半狂乱になりかけ、帳面を机に放り出そうとした、その時だった。
横から伸びてきた手が、レオンの胸元にドンッ、と硬いものを押し付けた。
ダフネだった。
彼女は無言のまま、レオンが手放そうとした帳面を、彼の胸に強く押し戻した。
その目は「これを絶対に手放すな」と、言葉以上に雄弁に語っていた。そこには同情も慰めなど微塵もない。ただ、生存のために必要なものを決して落とさせるものかという、凄まじく強烈な意志だ。
「……」
ミュロンもまた…しかしながら…ダフネが帳面を押し付けたのとは真逆で、胸倉を掴んで……でも怒鳴り散らすことはせず、ただその暗く沈んだ目でレオンをじっと見ていた。
(逃がさねえぞ)
その目が、そう言っていた。
お前がただの帳簿役だろうが何だろうが、俺たちの列を生かすための計算ができるのは、今ここにいるお前しかいないのだと。
レオンは、帳面の板の硬い感触を胸に感じながら、自分がもはや「ただの役立たずの若造」として見逃してもらえる立場にないことを悟った。
将軍という「巨大な傘」がなくなった今、現場を支えてきた自分たちが、直接この絶望の雨を被るしかないのだ。
太陽が完全に沈み、夜の暗闇がシッタケの宿営地をすっぽりと包み込んだ。
点呼の声はない。夜警の火はまばらで、火を起こす気力すら失った兵たちが、暗がりの中でただ膝を抱えている。
誰が、今夜の見張りの交代を決めるのか。
誰が、明日の飯をどう配るか決めるのか。
誰が、この二万の人間を故郷へ帰すと宣言するのか。
決定権を持つ者が誰もいない、恐ろしいほどの役職の空白だけが、そこには残されていた。




