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第52話 だれも帰ってこない

 陽が西へ傾き、ティグリス川の水面が血のように赤く染まり始めても、ティッサフェルネスの陣営へ向かった将軍たちは戻ってこなかった。


 だが、二万という巨大な胃袋を抱える軍隊は、頭脳が不在であってもその消化活動を止めることはない。

 夕刻を迎え、シッタケの宿営地にはいつものように炊事の煙が上がり、兵たちが配給を求めて集まり始めていた。


「第二大隊の配給札、これで全部か」

 レオン・カルディアスは、木箱の上に広げた帳面に目を落とし、羽ペンを走らせていた。

「は、はい。穀物の袋が三つ、それと……干し肉が少し。でも、市場からの買い出し部隊が戻ってこないので、明日の分はもう……」

 横に立つ記録係のテオドルスが、震える声で答える。彼が差し出した配給札の束は、ひどい手汗でしっとりと湿っていた。


 現場の時計は、無情なほど正確に回り続けていた。

 決められた時間になれば火番が交代し、荷駄の紐が点検され、配給が回る。この「不気味な平常運転」こそが、レオンにはたまらなく恐ろしかった。


「主計殿、火床の交代です」

 若手兵のカリアスが、薪の束を抱えてやってきた。その顔には、いつもなら必ず浮かぶ「今日の飯は何ですか」という無邪気な期待や図々しさはなく、ただ周囲を窺うような色濃い怯えが張り付いている。

「……将軍たちは、まだなんですよね。市場に行った連中も」

「ああそうだね。だが、火は絶やさないようにしましょう。夜になれば、まだまだ冷える」

 レオンは淡々と応じ、手元の微弱な火魔法で、湿り気の残る薪の端にチリッと種火を移してやった。それ以上の魔法を使う余裕など、今のレオンの精神状態にはなかった。


(いったい、どうなっている)


 レオンの視線の先には、二つの「空白」があった。

 一つは、幕舎の奥に置かれたプロクセノス将軍の豪奢な椅子だ。

 もう一つは、レオンの手元にある、フィロン兵站監の決裁を待つ未決の帳面。


 プロクセノスは、レオンがこの見知らぬ軍隊に居場所を得るための「所属の柱」だ。

 フィロンは、レオンの計算を命令として執行するための「実務の柱」だ。

 軍事と実務、その両方の柱がぽっかりと抜け落ちたまま、時間だけが削られていく。兵站監の決裁印がなければ、明日以降の備蓄庫の鍵を開けることすら、本来の規則では許されないのだ。


 ふと、遠くの平原から蹄の音が響いた。

「戻ってきたか!」

 何人かの兵が色めき立ち、宿営を囲む柵のほうへと駆け寄る。だが、その声はすぐに失望と、得体の知れない戸惑いに変わった。

「……馬だけだ。鞍に誰も乗ってないぞ」


 帰ってきたのは、将軍の随員が乗っていたはずのペルシア馬が一頭だけだった。手綱は無惨に引きちぎられ、あぶみにはべっとりと泥がこびりついている。

 それに加えて、買い出しに随行していった二百人の兵たちも、誰一人として戻る気配がない。


「おい、帳簿役」

 不意に、ミュロンが一段低い声でレオンを呼んだ。

 振り返ると、古参兵たる半隊長ペンテコンテルは腕を組み、険しい目で地平線の彼方を睨みつけていた。

「……向こうの陣で、何かあったのか」


 レオンは答えられなかった。

 配給の限界なら計算できる。荷駄獣の寿命も読める。だが、「将軍たちがどうなったのか」「この軍はどうなるのか」という問いに対して、ただの兵站監補でしかない自分は、何の答えも持っていない。


「分からない。だが……配給は止めない。兵たちを空腹のまま夜の暗闇に置けば、この間の比ではない恐慌パニックが起きる。帳尻は後で私が合わせる」


 レオンが絞り出すように言うと、ミュロンはただ一言、「そうか」とだけ返した。

 普段なら「坊ちゃんにしては腹が据わってるじゃねえか」とでも憎まれ口を叩くはずの男が、初めてレオンの前で露骨に黙り込んだのだ。その無言の圧力と沈黙が、どんな悪態よりも重くレオンの胃の腑を圧迫した。


 ふと横を見ると、ダフネが黙々と自分の武具の手入れを始めていた。

 軽盾の裏の持ちグリップをきつく締め直し、短剣の刃を小さな砥石で滑らせている。

「……ダフネ」

「剣の刃こぼれを確認してる。レオンは(サンダル)の紐を確認しておけ」

 彼女はレオンを見ようともせず、ただ事実だけを口にした。

「最悪の事態が来ても、走れるように」


 慰めの言葉など一つもない。だが、その現実的な冷たさが、レオンの膝が崩れ落ちるのをかろうじて防いでいた。


(答えが出せないなら、せめて今目の前にある数字だけは合わせておく)

 レオンは再び帳面に向かい、震えそうになる羽ペンを強引に走らせた。

 分からないことだらけの中で、ただ「現場を回し続けること」だけが、彼に許された唯一の抵抗だった。


 しかし、兵たちの間にも、じわじわと異様な空気が蔓延し始めていた。

 話し声は極端に少なくなり、誰もが武器を手放そうとしない。ティグリス川の向こう岸を気にする視線が、痛いほど絡み合っている。


 そして、ついにその時が来た。


「……おい、あれを見ろ!」

 見張り台に立っていた兵が、引きつった声で叫んだ。


 夕闇の迫る平原の向こうから、一人の男が転がるようにして走ってくるのが見えた。

 いや、走っているというより、それは死に物狂いで地面を這い進んでいるようだった。


「あれは……アルカディアのニカルコスだ!」

 誰かが名を呼んだ。会談に随行した兵の一人だ。

 男が近づくにつれ、陣営全体が息を呑む音に包まれた。


 男は、腹からおびただしい血を流していた。

 いや、ただの出血ではない。彼は、自らの両手で、ぱっくりと裂けた腹からこぼれ落ちそうになるはらわたを必死に鷲掴みにしながら、命からがら走ってきていたのだ。


「助け……!」


 柵を越えるなり、ニカルコスは血だまりの中に崩れ落ちた。

 駆け寄ったミュロンが、男の肩を抱き起す。

「何があった! 将軍たちはどうした!」


 血の泡を吹きながら、ニカルコスはかすれた声で叫んだ。


「罠だ……ティッサフェルネスの罠だ……!」


 その言葉が、静まり返った宿営地に雷鳴のように響き渡った。


「将軍たちが幕舎に呼ばれた瞬間……外に残っていた隊長たちは、一斉に斬り殺された……! 市場へ行った兵たちも、ペルシアの騎兵に狩られている……!」


 悲鳴とも怒号ともつかない声が、兵たちの間から沸き上がった。

 テオドルスは腰を抜かしてその場にへたり込み、カリアスは震える手で槍を握りしめた。


 レオンは、手から滑り落ちた羽ペンが、白紙の帳面を黒いインクで汚すのをただ見つめていた。


(終わった)


 プロクセノス将軍の空席。

 フィロン兵站監の未決裁の帳面。

 レオンが恐れていたその「空白」の理由が、最悪の形で埋まった瞬間だった。


 もはや、この軍の頭脳は存在しない。命令を下す者も、交渉を行う者も、全体の兵糧を管理する者も、すべてがティッサフェルネスの手によって刈り取られてしまったのだ。


「……武器を取れぇっ!」

 ミュロンの咆哮が、恐慌に陥りかけた兵たちを辛うじてつなぎ止めた。

「敵が来るぞ! 陣形を組め!」


 ダフネが素早く立ち上がり、レオンの前に身を滑り込ませた。彼女の背中は、すでに完全な臨戦態勢に入っている。


 最悪の報せは届いた。

 だが、絶望している暇すら与えられない。

 これから誰が、この首のない二万の軍勢を率い、今夜の宿営を、そして明日の飯を決めるというのか。


 急速に沈下していく恐怖の中で、レオンは汚れた未決裁の帳面を、命綱のように力強く抱き直した。

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