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補章7 美しい言葉を使うものが、美しい心を持っているわけではない

 ペルシア帝国の心臓部たるバビロニアの夜は、いつだって美しい。

 ティグリス川の支流、ザパタス川の川面には見事な月が浮かび、ティッサフェルネス様の陣営には、甘い乳香の香りと、勝利を祝う葡萄酒ワインの芳醇な匂いが満ちていた。


 ミトリダテスは、豪奢な絨毯じゅうたんの上に座り、金細工の施された杯を傾けた。

 隣の幕舎からは、アリアイオス殿をはじめとするかつての同僚たちが、アルタクセルクセスからの赦免と新たな地位を約束され、安堵の笑い声を上げているのが聞こえる。


「……まことに、見事な手際でございましたな」

 私は、通りかかったティッサフェルネス様の側近に、極めて優雅な笑みを向けて言葉をかけた。

「あの厄介なヘレネス(ギリシア人)どもの頭脳を、味方の血を一滴も流すことなく切り落としてしまわれるとは。まさに、大王の威光を示すにふさわしい、美しき御思案にございます」


 お世辞ではない。私は心底からそう思っていた。

 戦場において、あのギリシアの重装歩兵ホプリタイたちは確かに無類の強さを誇る。青銅の壁と化して突撃してくる彼らを正面から打ち破るのは、いかに我が帝国の誇る騎兵であろうと至難の業だ。

 だが、彼らには致命的な欠陥があった。

 政治というものを、そして「妥協」というものを、まるで理解していないのだ。


 我らが主であったキュロス殿下がクナクサの戦場で討ち死になされた時点で、あの反乱は終わった。

 大いなる野望は潰え、我々はただの「逆賊」に成り下がったのだ。ならば、次に取るべき道は一つしかない。勝者である大王陛下にひれ伏し、寛大な慈悲を乞い、自らの地位と命を守ることだ。アリアイオス殿も、私も、ペルシアの貴族として当然の現実的選択をしたに過ぎない。


 だが、雇われの身に過ぎないギリシア人どもは、奇妙な意地と誇りに固執した。

 自分たちは戦場で負けていない。だから降伏はしない。

 私は彼らの強情さに呆れつつも、連絡将校として、幾度となく彼らの陣営へ足を運んだ。常に丁寧な笑みを浮かべ、平和的な護送や市場の提供という「美しい言葉」で彼らを包み込もうと努めた。


 刃を交えずに済むなら、それに越したことはない。彼らが大人しく武装を解除し、王の慈悲にすがるというのなら、私は喜んで彼らのために弁舌を振るってやっただろう。

 だが、クレアルコスやプロクセノスといった将軍たちは、最後まで我々を疑い、武装を解こうとはしなかった。


 ならば、切り捨てるしかない。

 ティッサフェルネス様は、彼らの誇り高さと「対等に交渉しよう」とする傲慢さを逆手に取った。

 疑念を晴らすための腹を割った会談。その美しい招待状に、彼らはまんまと乗ってきたのだ。幕舎に招き入れられた将軍たちは即座に捕縛され、外で待機していた隊長たちは、我らが騎兵によって一瞬のうちに撫で斬りにされた。


 今日の夕刻。

 私はアリアイオス殿と共に、指揮官を失って混乱の極みにあるギリシア軍の陣営へ赴いた。

 プロクセノスやメノンは我々に寝返ったのだと、美しい嘘を添えて降伏を勧告してやったというのに。クレアノルという古ぼけた将軍は、顔を真っ赤にして我々を「裏切り者」と罵るばかりだった。


(犬の遠吠えだな)

 私は馬上から彼らを見下ろし、内心で冷たくわらった。

 頭脳をもぎ取られた軍隊など、ただの肉の塊に過ぎない。明日の朝になれば、恐怖と飢えに耐えかねた兵たちが、蜘蛛の子を散らすように陣を逃げ出し、我々の騎兵の良き狩りの獲物となるだろう。


 杯の葡萄酒を飲み干し、私はふと、ある若者の顔を思い出した。


 ギリシアの陣営へ交渉に赴くたび、プロクセノスやフィロンといった上官たちの背後で、常に顔を伏せ、せかせかと羊皮紙の帳面に羽ペンを走らせていた青白い若者だ。

 名前は、たしかレオンといったか。


 彼とは直接言葉を交わしたことはない。

 だが、私の「美しい言葉」――休戦の約束、市場の提供、道案内の手配――を告げるたび、あの若者だけは、将軍たちとは全く違う反応を示していた。


 将軍たちが面子めんつや政治的駆け引きを考えている間、あの若者は常に、私の言葉の裏にある「数字のズレ」を計算しているようだった。

 市場が提供されると言えば、供給量と価格の吊り上げを。

 道案内をつけると言えば、行軍距離と駄獣の疲労を。

 安全な場所を用意したと言えば、退路の有無と補給線の脆さを。


(言葉は嘘を吐けるが、数字は嘘を吐かない、か)


 私のような外交を担う者は、残酷な現実をいかに美しい言葉で包み隠し、相手に毒を飲ませるかが仕事だ。

 だが、あの帳簿役の若者だけは、言葉という甘いころもを剥ぎ取り、その下にある冷たくて残酷な現実――すなわち「兵糧と距離」という絶対的な数字を直視しようとしていた。


「惜しいことだ」

 私は小さく呟き、召使いに杯を満たさせた。

「あの若者がもう少し身分が高く、発言権を持っていれば……あるいは、ティッサフェルネス様の策を破る一手を打てたかもしれぬ」


 だが、現実とは非情なものだ。

 有能な実務者であろうと、権力がなければ何も動かせない。フィロンという実務の長すらも今日の会談で失った今、あの若者は完全に孤立しているはずだ。

 どれほど正確な計算ができようと、彼に命令を下す権限はない。怯え切った二万の獣たちを従わせることなど、あの青白い顔の学者崩れにできるはずがないのだ。


 今頃、彼はプロクセノスの空の幕舎で、誰の決裁印も得られない無用の帳面を抱え、絶望の涙を流していることだろう。

 数字が残酷な現実を示すことはできても、数字そのものが軍隊を救うことはないのだから。


 私はふと幕舎の外へ出て、夜風に当たった。

 遠く、一パラサング(約五キロ)ほど離れたザパタス川のほとりに、ギリシア軍の陣営がある。


「……おや?」

 私は眉をひそめた。


 将軍を失ったのだ。今夜のうちに恐慌パニックを起こし、略奪や同士討ちが始まり、陣営は火と怒号に包まれるだろうと予想していた。

 しかし、ギリシア軍の陣営は不気味なほど静まり返っていた。逃げ出す者の松明の光も、暴動の気配もない。


 ただ、暗闇の中に、ぽつり、ぽつりと。

 消え入りそうなほど小さな篝火が、等間隔に、規則正しく灯り始めているのが見えた。


 まるで、誰かが致命的な崩壊を瀬戸際で食い止め、最低限の「列」だけは維持しようと足掻いているかのように。


「……まさか、な」

 私は自らの憶測を鼻で笑い飛ばした。

 頭を失った獣が、自ら秩序を取り戻すはずがない。あの明かりは、死にゆく者たちの最後の蝋燭ろうそくのきらめきに過ぎない。


 私は夜風から身を翻し、再び甘い匂いの満ちる幕舎へと戻っていった。

 明日になれば、すべては終わる。

 美しい言葉で、彼らの全滅に哀悼の意を捧げてやろう。私は極上の美酒を喉の奥へ流し込み、優雅に口角を上げた。

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