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第50話 崩壊しないように考える

 視点を橋を渡る直前に戻す。




 朝になっても、橋は焼き討ちなどされず、残っていた。

 それだけで、兵たちの間には、水に落ちた油がスッと広がるような安堵が伝播していった。


 昨夜、宿営地を駆け巡ったのは「夜のうちにティッサフェルネスが橋を落とす」という警告だ。

 出所不明、根拠希薄。だが、背後に大河ティグリスを背負い、王の軍勢と並走しているという極限状態において、その手の噂はどんな高級な葡萄酒よりも早く男たちの脳をかき乱した。

 誰も真正面から信じたわけではない。だが、誰も忘れることもできなかった。眠りの中で橋が崩れる音を幻聴し、夜中に何度も跳ね起きた男たちが、重い瞼をこすりながら朝日を浴びている。


 目の前のティグリス川は、夜が明けても変わらず滔々と流れている。

 舟を連ね、太い縄で岸と岸を繋いだ橋もそこにあった。板は朝露に濡れ、昨日の行軍で踏み荒らされた泥が黒い染みを作っている。橋の両端では、こちらの番兵と王側の番兵が、互いに槍の穂先を向け合いながら、白々とした朝日を浴びて立っていた。


 同じ橋を見ているのに、同じものを守っている気がしない。

 レオンは荷駄列の横で、冷えた肺に太陽と酸素を送り込むように息を吸った。


「橋が残っていてよかった」

 そんな子供じみた感想を口にしかけて、飲み込む。

 よかっただけで済むなら、誰も主計官なんていう、嫌われ者の数え役など必要としないのだ。いや、論理的な関係はないけれど。


「前を詰めすぎるな! 荷車一台分空けろと言っただろうが!

 そこ! 空けすぎだ!

 馬鹿、その隙間は重装兵が割り込む隙間だ、開けとけ! いざというときに連中とぶつかることになるぞ!」


 ミュロンの怒鳴り声が、湿った朝の空気を裂いた。

 必要な指示だけを、短く叩きつけるように発している。

 危ない時のミュロンだ。彼は、自分の声が「平時」を装うための道具であることを知っている。


 荷駄引きたちは眠そうな目をこすりながら、緩んだ縄を締め直し、不機嫌な驢馬の鼻面を押さえている。車輪大工のメネスは、亀裂の入りかけたこしきを木槌で叩き、その音で強度を確かめていた。

 いつもより、列がきれいに整っている。

 そしていつもより、ずっともろい――レオンにはそう見えた。


 列が整うのは、秩序が戻ったからではない。

「崩れていること」を外から見せないためだ。毛布の角を揃え、袋の口を内側へ向け、槍の穂先を同じ高さにする。

 中身が腐りかけていても、外袋の紐をきっちり結べば、遠目には立派な荷に見える。

 虚勢にも、手順がいる。そしてその手順を差配するのが、今の僕の仕事というわけだ。

 塔で優雅にパピルスをめくっていた頃の僕が見たら、吐き気を催すような泥臭い欺瞞ぎまんである。


「主計殿」


 従者のテオドルスが、板切れを抱えて近づいてきた。

 いつもの書字版、つまり蝋板だ。だんだん板切れみたいな見窄らしい姿になってきてはいるが。


「橋尻の見張り、各組持ち回りで。荷駄護衛から四人。軽装歩兵から六人なんですが、重装歩兵側は、カレス殿が十二人出すと言ってききません」

「十二人? 予定では六人のはずですが」

「はい。ですがカレス殿が『六人では俺の格が小さく見える。十二人が配置の最小単位だ』と」


 余計な誇りだ。だが、たまにはその強欲なまでの自尊心が役に立つこともある。

 十二人いれば二班だ。手分けして何かをしたり出来るだろう。そう、たとえば、騎兵が突っ込んできたときに、最低限の槍の防壁を築いたり……


「……分かりました、それで通しましょう。ただし、向こうに先に渡す調整書には『橋の混雑整理』に。いいですか、『警戒配置』とは絶対に読み取られないようにしてください」

「……相手を疑っているように見せないためですか」

「ええ。こちらが剣を抜こうとしていると知れば、向こうも喜んで抜くでしょう。疑っていないように見せれば、王の案内役たちも『まだ騙せている』と思ってくれるかもしれない。問題は、僕たちが本当に騙されている間抜けに見えすぎることですが」


 言ってから、我ながら回りくどい理屈だと思った。

 テオドルスはしばらく考え込み、それから納得したように小さく頷いた。

「つまり、普通にしているように見せる、ですね」

「……そうです。最初からそう言えばよかった」


 研究塔で無駄に覚えた洗練された修辞学は、この泥の上ではただの重荷だ。


「主計殿」


 今度はカリアスだった。

 火番を担当するこの若い兵は、片手に乾いたあしの束を抱え、もう片方の手で腰の紐をしきりにいじっている。落ち着かない時の彼の癖だ。


「昨夜の話、本当なんですか。橋を落とすっていう……」

「本当かどうかは分かりません。

 ただ、ティッサフェルネスがその気になれば、いつでも落とせる。それだけです」

「でも、橋を落としたら、向こうも困りませんか。

 この先のシッタケの市まで荷が運べなくなるし、向こうの兵だって往来できなくなる。こっちを叩くなら、橋があった方が楽なんじゃないかって……」


 その通りだ。

 そして、その「まっとうな理屈」が通用することこそが、実は敵の手配している一番の毒だった。

 (ぼくらの目を、頭を、そこにひきつけているのは、間違いない。さて、彼らはこの生み出した時間に何を手配しているのやら……)


 とはいえ、今は、不安を抱えたカリアスをどうにかすることだった。

 彼は顔が広い。安心も不安も伝播できる、いわゆる「弱い強さのつながり」の結節点のひとつなのだ。


 レオンは地面にしゃがみ、足元の泥に落ちていた炭の欠片で線を引いた。

 ティグリス川。舟橋。運河。市場。こちら側の宿営地。王側の兵たちの槍兵。騎兵。

 帳面に書く数字より、地面に引く不格好な線の方が、時として残酷なほど雄弁に真実を語る。


「カリアス。勝つつもりなら、橋を落とす必要はないんだよ」

 カリアスがごくりと喉を鳴らした。

「……やっぱり」

「橋を落とせば、僕たちの動きは止まる。でも、向こうの動きも制限される。

 追撃するにも、補給するにも、使者を動かすにも、川が壁になってしまう。

 僕たちを完全に閉じ込めたいなら、橋は壊すより、封鎖しておく方がいい。

 ……喉を押さえるみたいにね」


 カリアスは思わずといった風に、自分の喉を触った。

 余計なことを言ったかもしれない。怖がらせすぎただろうか。

 だが、怖がらない兵はたいてい最初に逃げ出すか、最後まで座り込んで動かなくなる。死なないためには、正しく怖がる必要がある。


「だったら……今は何をすれば……」

「その葦束を、一欠片も濡らさずに保ってください。夜に火が必要になります」

「橋じゃなくて、火、ですか?」

「橋が落ちるかどうかは、ティッサフェルネスが決めることだ。

 君が心配しても橋は一寸も動かない。でも、火は君が扱える。君の持ち場は、そこだよ」


 カリアスは一瞬、ぽかんとした顔をした。

 それから、大事な宝物でも抱えるように、葦の束を胸に強く抱え直した。

「……はい!」

 いい返事だ。


 一人の兵が、自分の持ち場を思い出した。それだけで、この泥船のような軍の綻びが、ほんの少しだけ縫い止められたのだ。


「レオン、何を吹き込んだ」


 背後から、少し笑いを含んだような、低く、だが通る声がした。ダフネだ。

「……持ち場の話です」

「カリアスの顔が、さっきまで死人みたいに青かった」

「僕の顔はどうです?」

「死んだ魚の方がマシ」


 ダフネは、慰めの言葉など一言も口にしない。ただ、物理的に必要なものを差し出す。それが彼女の流儀だ。

 レオンは水袋を受け取り、少しだけ飲んだ。喉を焼くような緊張が、冷たい水でわずかに和らぐ。


「レオン。しょぼくれた顔をしないで。あなたが帳面を落とせば、荷駄引きは逃げちってしまう。

 そしたらこの兵団はおしまい」

 ダフネはレオンの半歩前に立った。

 敵の視線からレオンを遮り、同時に「守っている」ことを周囲に示さずに行う。

 顔色まで整えろ、ということか。

 いつの間にか主計官の仕事は、いつの間にか精神的な虚勢の維持まで含まれるようになったらしい。


「みな、何かを信じたがってる。

 昨日の一件で、今は、レオン。

 あなたに託宣の姿を重ね合わせてる」


 さっきと言い、今といい、珍しく長いセリフだった。


 そっか、みんな不安か……ぼくも不安だよ……


 昼近く、列はゆっくりと動き出した。

 シッタケ近くの、よく肥えた土地を抜ける道。水路が網の目のように走り、麦の穂が風に揺れ、所々に美しい木立が並んでいる。

 土地の者なら、ここを楽土と呼ぶのだろう。

 だがレオンには、ここが「逃げ場のない巨大な中洲」に見えて仕方がなかった。


 ティグリスと運河。二つの水に挟まれ、舟橋という細い糸に命を預けた、肥沃な檻。

 豊かさとは、時に人を閉じ込めるための餌になる。


「盾を上げろ! だらしなく持つな!」

 カレスが重装歩兵を叱咤している。

 彼らは疲弊していた。だが、青銅の兜を深く被り、盾の縁をピタリと揃えれば、遠目にはまだ恐るべき「ギリシアの鉄の壁」に見える。

 近くで見れば、脛当ての下の脚はむくみ、唇は渇きで割れている。

 腹が空なのを隠して胸を張る。その滑稽なまでの矜持が、かろうじて軍を形作っていた。


「主計殿。驢馬が一頭、足を痛めました。荷を二つに分けて、人で持っています」

 テオドルスが報告に来る。

「誰が持っているんです」

「カリアスたち火番の三人と、荷駄引きの若い者です」


 よく働く若者は、たいてい余計な仕事まで押し付けられる。組織というものは、最も「しなる」枝に重い雪を積む。

「交代を入れてください。火番を潰すと夜に困る。それと、荷を持つ兵は列の中側へ。疲弊を外に見せ無いようにしましょう」

 テオドルスが、少しだけ不満げな顔をした。

「……隠しても、疲れている事実は変わりませんよ」


 正しい。正しいがゆえに、今の僕には耳が痛い。

「変わらない。でも、外から見えるものは変えられるんだ。敵に『このギリシア人と言う皮袋はどこから裂けるか』をわざわざ教える必要はないでしょう?」

 テオドルスは唇を噛んだ。納得はしていない。だが、飲み込んだ。

 それでいい。すべてを納得してしまったら、この残酷な数合わせの仕事など耐えられるはずがないのだ。


 夕刻。

 宿営の準備が始まる頃、王の側から使者がやってきた。

 昨日のような、泥を跳ね飛ばす駆け込みではない。馬の歩みは優雅で、通訳も整えられ、数騎の護衛が威儀を正している。

 将軍たちが集まり、兵站監のフィロンが呼ばれるのが見えた。


 レオンの位置からは、彼らの言葉は聞き取れない。

 だが、フィロンがわずかに目を細め、カレスが不満げに眉を寄せ、そしてプロクセノスが頷くのが見えた。

 嫌な汗が、背中を伝う。


「坊主」

 いつの間にか、ミュロンが真横に立っていた。

「……顔が、死んだ魚よりひどいぞ」

「ダフネと同じこと言いますね……

 それはそれとして、ぼくはこれでも精一杯、整えているつもりなんですが」

「隠せてねえから言ってるんだ。

 何か聞いちまったんだろう?

 何を聞いた」


「会談だそうです」

 割り込んできたのは、触れ役のトルミデスだった。いつもは大音声で命令を触れ回る男が、今は死者に囁くような低い声を出している。

「ティッサフェルネスからだ。休戦の条件、市場の供給、今後の行軍ルート……すべてを顔を合わせて詰め直したいとよ。将軍たち全員の出席を求めてる」


 どこまでも自然な提案だ。

 休戦を確かなものにするには、顔を合わせるのが一番いい。市場が不安なら、契約を結べばいい。

 どこにもおかしなところはない。

 だから、嫌だった。

 この「論理的な正しさ」こそが、罠の最奥に仕掛けられた毒に思えてならなかった。


「誰が行くんです」

「将軍たちと、主要な百人隊長。それと、実務の確認にフィロン殿も同席するだろうな」


 フィロンまで。

 レオンは遠くに立つ、自分の上官の背中を見た。

 彼は冷静だ。配給の継続、道の安全、数字の整合。実務家として、その会談が「有益」であると判断している。

 その判断は、きっと正しい。

 だが、正しい判断が、必ずしも生存に結びつかないのがこの戦場なのだ。


「坊主、崩される…いや崩れるなよ」

 ミュロンが、レオンの肩に重い手を置いた。

「……列の話ですか?」

「お前の話だ。お前がその帳面を抱えて立っている間は、俺の部下も『まだ大丈夫だ』と勘違いできる」


 ダフネと同じことを、違う言葉で言われた。


 信頼というには重すぎ、責任というには乾きすぎている。

 だが、その言葉は、今のレオンを支える杭のひとつだ。


 レオンは、湿った炭の欠片で汚れた手を、服の裾で拭った。

 外側から見れば、まだ軍は整っている。

 盾は並び、荷は締まり、橋番は立ち、火番のカリアスは乾いた葦束を大事そうに抱えている。

 将軍たちは使者と談笑し、兵たちは夕餉の煙を見つめている。


 だが、内側は違う。

 誰もが疑いを飲み込み、疲労を腹の底へ押し込め、互いに「同じ顔」を演じている。

 そんな虚飾が、長く持つはずがない。


 夜の帳が下り、橋に篝火が灯り始めた。

 赤々と揺れる炎が、ティグリスの黒い水面を舐めるように照らしている。

 川は流れ、橋は残り、軍はまだ崩れていない。


 それでもレオンには、何かが――目に見えない決定的な糸が、静かに、そして残酷な速さでほどけ始めているように見えて仕方がなかった。

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