補章5 軍人の恐怖、学者の理屈
ティグリス川の支流に架かる舟橋を、ギリシア傭兵団が緊張と共に渡りきった日の夜のことだ。
将軍プロクセノスの天幕では、一日の緊張を解くための質素な酒宴……というよりは、今後の進路を巡る重苦しい検討会が行われていた。
「……プロクセノス、君はあの使者の言葉を聞いた時、どう思った」
先に口を開いたのは、スパルタ人のクレアルコスだった。
普段は鉄の規律を兵に強いるこの猛将の指先が、わずかに震えているのをプロクセノスは見逃さなかった。クレアルコスは優れた戦士だが、戦術にこだわりすぎる傾向があり、一度「包囲された」という恐怖に取り憑かれると、その思考は柔軟性を失い、強迫観念に近い防衛本能に支配される。
「私は……正直に言えば、背筋が凍る思いでしたよ。橋を落とされ、この豊かな中州に閉じ込められれば、我々は巨大な袋に詰められた鼠も同然ですから」
プロクセノスは努めて穏やかに応じたが、それは嘘ではなかった。戦士としての直感は、退路の断絶という言葉に過剰なまでに反応した。
プロクセノスの友人のクセノポンも同意するように首を少し傾け、目を上げた。
「だろう? 私はあの瞬間、全滅の二文字を覚悟した。だが……」
クレアルコスは、配られた葡萄酒を一口煽り、忌々しそうに続けた。
「あの若造……君が連れてきた、あの主計官補佐……いまはフィロンの代理だったか?の言葉を伝令に聞かされてから、自分がひどく馬鹿げた恐怖に踊らされていたことに気づかされた」
プロクセノスの脳裏に、その時の光景が浮かぶ。
使者の「善意の警告」に全軍が浮き足立つ中、軍装すらまともに着こなせていない痩身の若者――レオン・カルディアスが、場違いなほど冷静に、まるで帳簿の誤りを指摘するかのような口調で「論理破綻」を説いたらしい…伝令がその旨をたづさえて入ってきた後の、まるで潮目が変わったかのような情景と……その後、軍団内で囁かれている若い主計の噂ばなし……皆が感心したような、納得したよう…そんな顔をしていた。
(……夜襲をかける側が、自ら退路を断つはずがない)
それは、言われてみればあまりに単純な、算術のような理屈だった。
しかし、死の恐怖が蔓延する戦場で、その「単純な理屈」を掴み取れる人間がどれほどいるだろうか。
「彼は武人じゃないから気づけたのでしょうね」
プロクセノスは、自嘲気味に笑った。
「彼は戦術を語ったのではない。利益と不利益の計算……いわば、商人の算盤で戦場を測ったのです。ペルシア人が夜襲に失敗した場合の『損失』があまりに大きいから、あの警告は嘘である、と」
「商人の算盤か。反吐が出るが……」
クレアルコスは不器用な手つきで髭をなで、一度だけ小さく鼻を鳴らした。
「あの時、私の天幕にいたどの古参の隊長、半隊長よりも、あの坊やの方が戦場の『真実』を突いていた。それは認めざるをえん」
プロクセノスは、幕舎の外――レオンたちが夜通しで配給の計算をしているであろう方向へ視線を向けた。
(彼は学問の塔には残れなかったと言っていたが……)
プロクセノスの知る限り、学問の塔で教えられるのは高潔な理想や神々の秩序だ。だが、レオンが持っているのは、もっと泥臭く、もっと切実な「生き延びるための観察眼」だ。
泥水を桶一杯の真水に変えるような彼の微弱な魔法と同じで、派手さはないが、乾ききった軍隊にとっては、時として黄金よりも価値がある。
「彼は、我々のような名誉を重んじる人間には見えないものを見ているのかもしれません。……もっとも、本人は自分が『役に立っている』という自覚すらなさそうですが」
「ふん。自覚などなくていい。あいつにはこれからも、その臆病で冷徹な算盤を弾かせ続けてもらおう」
クレアルコスはそう言って、ようやく落ち着いた様子で二杯目の酒を求めた。
プロクセノスは、密かに安堵のため息をつく。
軍を動かすのは将軍の号令だが、その軍を崖っぷちで踏みとどまらせたのは、一人の学者のなりそこないが導き出した「とんち」めいた理屈だった。
(若者よ。君は、君が考えるより、役に立っているが……
まだ、自分では気づけていないだろうな。
君が、冷静でありつづけ……そう、それこそ帳簿の計算を間違えない限り、われわれはまだ、ぼろぼろのままでも前に進めるようだ。
この一万の軍団の命を握っているひとりなんだよ……君は。
いつ気づけるかな?……その時、責任の重さに耐えれるだろうか?……ふむ、やはり、一度ゆっくりと彼と交流を深めたいものだ)
プロクセノスは心の中で、自分が見出した風変わりな部下に、静かな信頼を寄せた。




