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第49話 信じたくない方が、だいたい当たる

 泥と不信にまみれた行軍の果てに、ギリシア傭兵団はティグリス川の岸辺へとたどり着いた。


 川から十五スタディオン(約三キロ)ほど離れた場所に、シッタケと呼ばれる大きく人口の多い都市があった 。兵たちが陣を敷いたのは、その都市に隣接する、あらゆる種類の樹木が鬱蒼と茂る広大で美しい公園のそばだった 。

「……天国みたいだな。ここなら一生暮らせるぜ」

 カリアスのような若い兵たちが、警戒も忘れて木陰の涼しさに歓声を上げている。

 荒涼とした平原や泥の運河を歩き続けてきた彼らにとって、豊かな葉が落とす深い青味と、近くを流れる清冽な水の音は、束の間の陶酔を与えるには十分すぎた。

 さらに、彼らの警戒を解かせた要因がもう一つあった。

 これまで不気味なほど近くを並走していたティッサフェルネスやアリアイオスのアジア兵たちが、ティグリス川を渡って対岸へ行き、すっかり姿を隠してしまったのだ 。

 目に見える脅威が消え、目の前には豊かな自然と都市がある。兵たちが気を緩めるのも無理はなかった。だが、レオンの目には、その豊かさが毒を塗った絹布のように見えていた。


(……景色が美しくなればなるほど、逃げ道が消えていく)


レオンは立ち止まり、手にした帳面に新たな「異常」を書き込んだ。


 第一の異常は、地理的な包囲感だ。ここはティグリスの大河と、深く水を湛えた運河網に挟まれた、巨大な中州のような地形になっている。

 第二の異常は、静けさだ。大軍が対岸に渡ったというのに、こちらの動きを監視する素振りすら見せないのは不自然すぎる。


「……何を見ているの、レオン。また嫌なこと考えてるでしょ」


 背後からかけられた声に、レオンは肩を揺らした。ダフネだ。彼女は公園の美しさには目もくれず、常にレオンの死角と、木立の奥にある「隠れ場」を鋭い眼光で探っていた。


「……ダフネ。君にはこの地形、どう見える?」


「どうって……ただの川と森じゃない」「僕には、巨大な檻に見える。この豊かな土地の養分で僕らを太らせ、その間に退路を断つための檻だ」


その夜、レオンの悪い予感は、思いもよらない形で裏付けられることになった。


 夕食を終えた後、レオンがテオドルスと共に配給の計算をしていると、将軍の天幕の近くがにわかに騒がしくなった。前衛の歩哨が、見知らぬ男を連行してきたのだ。

 男は、かつてキュロスに忠実に仕えていたアリアイオスとアルタオゾスの使者だと名乗った 。そして、将軍プロクセノスとクレアルコスを前にして、ひどく切羽詰まったギリシア語で言った。


『夜襲に備えられよ。近隣の公園には多数の敵兵が潜んでいる。さらに、ティッサフェルネスは今夜、ティグリスの橋を落とすつもりだ。あなた方を、川と運河の間に閉じ込めるために』


 その言葉を聞いたクレアルコスは、目に見えて動揺し、激しい恐怖に駆られているようだった 。彼らにとって、川と運河に挟まれた状態で夜襲を受け、退路である橋まで落とされるというのは、完全な全滅を意味するからだ。だが、少し離れた場所でそのやり取りを立ち聞きしていたレオンは、帳面に走らせていた鉄筆の手を止め、眉をひそめた。


(……おかしい。前後が矛盾している。

 それにアリアイオスだって?どう見てももう裏切ってる人間じゃないか…いや、最初から裏切ってたのかもしれない…全然信用できない人間だ

 それに、こんなに都合よくギリシア語を喋れる人間が来るかな?

 …むしろ聞かせようとしてないかな、僕らに……)


「主計殿、大変です! 橋を落とされちやうかもしれないみたいです!」

 テオドルスが顔を真っ青にして悲鳴を上げそうになるのを、レオンは手で制した。

「落ち着きましょう、テオドルス。

 あの使者…そう、あのあやしい使者の言葉は、あやしいだけでなく論理的に破綻している」


 レオンは、震えを抑えるようにゆっくりと息を吐き、頭の中の計算式を組み上げた。


「夜襲をかける側からすれば、勝つか負けるかの二つに一つ。

 もし彼らが勝つつもりなら、わざわざ橋を落とす必要はない、そうでしょう?

  逃げ惑う僕らを橋の上で討ち取ればいい」


「そ、それは……」

「逆に、もし彼らが負けた場合……

 橋が落ちていれば、彼ら自身が逃げる場所を失う。

 対岸にどれほど大軍がいようと、橋がなければ一人の援軍もこちらへ送れない」

  レオンは立ち上がり、静かに、しかし確信を持って言った。

「橋を落として困るのは、夜襲を仕掛ける側の方だ。あの警告は嘘だ」

 その言葉が耳に入ったのか、近くにいた若い兵士がクレアルコスの元へ走り寄り、レオンが口にしたのと同じ論理を進言した 。

 それを聞いたクレアルコスははっとした顔になり、使者に向かって問い詰めた。

『ティグリスと運河に挟まれたこの土地は、どれほどの広さがある?』


 使者は言い淀んだ。

 現地で雇った案内人が無邪気に答える。


『広大です。多くの村や大きな都市があります』


 その答えを聞いて、すべての謎が一本の線に繋がった。

 敵は、ギリシア傭兵団がこの豊かな中州の土地を占拠し、ティグリス川と運河を天然の要害として、王に対する反乱の拠点にすることを恐れたのだ 。

 だからこそ「橋を落とされる前に、早く渡って立ち去れ」と、善意を装った偽の警告を送ってきたのである。


 将軍たちの顔色が変わった。血の気の引いた顔だったのが、朱に変わったのだ。

 使者の顔色も変わった、こちらは血の気の引いた顔色に。


 そのとき、使者のひとりが剣に手をかけてしまった。

 スパルタ出身の護衛がすかさず槍で突いた。


 天幕の中が、にわかに騒ぎになる。


 将軍たちの天幕で、一波乱あっているとき、それを眺めていたレオンはひとりごちた。

「……気づいたところで、どうにもならないけどね…」


 背後で、ダフネがぽつりと呟いた。

「ねぇ、レオン。

 罠だと分かっても、ここには留まれない。明日の朝には、その橋を渡るしかないんでしょう」

 残念ながら、実に全くその通りだった。


 結局使者は全員切られたようだ。

 停戦破りを唆しにきた反逆者を処分してやったとして、送りつける案も出たようだが、身ぐるみを剥いで運河に捨てたようだ。


 レオンの読みは当たった。点と点が繋がり、敵の意図を実務的なロジックから看破できた。だが、それは全体の流れを止める力にはならない。

 彼らは故郷へ帰らなければならない。敵が「早く出て行け」と用意した罠の橋であっても、渡るしかないのだ。その無力感が、レオンの胃の腑を重く沈ませた。


 ペルシア人にとってギリシア傭兵団は、一日も早く自分たちの領地から追い出したい「厄介な害虫」に過ぎなかったのだ。

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